書評

−ぼくは明日、昨日のきみとデートする−

七月隆文 宝島社文庫 ISBN978-4-8002-2610-5

 

まずはネタバレなしで

 

 ついに書評に手を出してしまったきっかけがこの本である。
 読んで気に入ったり感動したり泣かされた本はたくさんあるけど、この本はインパクトが巨大だった。何が巨大って、「期待の低さ」からの落差なんだが。

 この本は出張の電車の中で読むために駅構内の本屋で買った本である。
 出張で読む本て、ある条件を満たさなければならないのである。面白い本、というのはもちろんだが、「泣かされない」というのが極めて重要である。

 実は私、かなり涙もろい。なんせ「となりのトトロ」で泣ける男である。最近放映していた「流星ワゴン」も大変だった。原作も読んでいて、そちらはそれこそ枕に顔を埋めて号泣ってくらい泣かされたのだが、テレビの方は原作より随分ぬるいな、と思いつつも誰も俺を見るんじゃねぇ!状態になるわけで。

 なので電車の中やカフェなんかで「泣ける」小説なんて読むもんじゃないんだよ。
 最悪だったのは森絵都を3冊持って行った出張で、カフェでは「カラフル」を読んでコーヒーの中に鼻水をこぼし、春の穏やかな日差しが照る日比谷公園で「いつかパラソルの下で」を読みながら涙を拭っていたら散歩中の犬に吠えられ、帰りの電車の中で「ラン」を読んで号泣し、隣に座っていた同僚の女の子に他人の顔をされるという忘れたい記憶をすり込まれてしまっている。もう二度と出張には森絵都は持って行かん!家で読む。

 なので電車の中で読む本は、泣かされずに済む本でなければならん。
 この時、見つけたのはピエール・ルメートルの「死のドレスを花婿に」とこの「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」だったのだ。
 「死のドレス」の方は、この作家の前作(あちらで出版されたのはこっちの方が先らしいが)の「その女、アレックス」を読んでいて、面白かったし泣かされるような話ではないので、これも安心して買えるだろうと。
 「ぼくきみ」の方はよく知らない作家だが、最近評判になっている本だな。調べてみるとライトノベル作家らしいし、ラノベ作家が書く恋愛小説なんかにはよもや泣かされることはないだろう、と安心して買ったのだ。帯には何やら泣けるとか書いてあったが、こちとら恋愛モノには強いんだよ。修羅場くぐってるからな。特に最近流行ってるどっちかが死ぬことでお涙をちょうだいしようなんて手には乗らないし。

ごめんなさい。ナメてました

 いや〜、号泣したわ。誰も死なない20歳のガキの色恋話でまさかこれほど泣かされるとは・・・

 

 タイトルが既にネタバレなので、ここまでは書いて構わないだろうと思うのだが、この話、時間が逆行する世界同士の男女の恋物語である。
 確かに帯に書かれているとおり、読了後に再び最初から読んだとき、出会ったばかりの彼女の言動に号泣する。

 

さて、ここからネタバレ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」というタイトルは、何も付け加える必要がないそのままの意味である。
 その2人が40日間を過ごす話なのだが、主人公のぼくがきみと出会う日は、彼女にとっては実は別れの日である。40日後のぼくがきみと別れる日は、実は彼女にとっては出会いの日、なんである。

 複雑な設定に思えるかもしれないけど、実はかなり単純な設定で、彼女はこちらから見て時間が逆行する世界の住人で、こちらの世界にいるときはこちらの時間に従うのだが、午前0時に「調整」が入り、その時に彼女の日付は1日戻る、ということになっている。
 彼女からこれを打ち明けられるのは、物語の中盤の4月28日なのだが、打ち明けられた直後の午後12時になると同時に彼女の姿が消える。「ぼく」はもちろんそのまま4月29日の午前0時になるのだが、彼女はこの時、4月27日の午前0時になっている、というわけである。

 つまり、4月29日もぼくはきみと会うわけだが、この時の彼女は前日の28日の記憶は持っていない。それは彼女にとっては「明日」だからである。

 

 そしてもうひとつのこの話の「キモ」は、この40日間に2人が出会って恋人になることは、偶然の出会いではなく2人が周到に計画していたこと、という点である。ただし、「ぼく」は今や過去のぼくではなく、この40日を経験した未来のぼく、である。まあ実行の苦労は彼女の方が圧倒的に多いのだが。

 そもそもは彼女が5歳のとき(すなわちぼくが35歳の時)に、彼女の命をぼくが救う、ということがあって、それで彼女がぼくに惚れる。
 そして2人が共に20歳となる「今」に恋人同士となるべく、2人で計画を立てるわけだが、そのぼくは5歳の時に35歳の彼女にやはり命を助けられている。
 さらに具体的な「計画」とは、今この物語となっている20歳の40日間を克明に記録して、それをそのとおりになぞるように実行する、ということなわけで、ここまで来ると因果関係として何が原因で何が結果か判らない。作中でも「どちらが先か後かわからない因果によって」と表現されている。

 負担が大きいのは圧倒的に彼女の方である。
 なんせ彼女はこちらの世界に来て初めて20歳のぼくに会うとき、ぼくの方は40日を彼女と過ごして別れる日なんである。その盛り上がりマックスの状態から始まって、彼女が1日進む毎に着実に「恋人ではなくなっていく」わけだ。
 ぼくが彼女と初めてキスした日は、彼女にとっては最後のキスで、初めて手を繋いだときは彼女にとっては最後に手を繋いだとき、そしてぼくが彼女に声をかけた日は、見知らぬ他人になる日、である。

 これは切ないよぉ〜

 最初にぼくが彼女に声をかけるシーンがあって、その日の最後に「また会えるかな?」とぼくが言ったら彼女が突然泣き出す。
 初読の時はこのシーンは単なる「伏線」として頭に収納しておくだけの「よく判らないシーン」なのだが、読了後に再び読み始めてこのシーンになったときは・・・号泣するぞ。彼女にとってはこれが別れの言葉だからな。

 

 この小説、設定が抜群に上手い。設定そのものが上手いと言うより、ほとんど説明しないのが上手い。

 この2つの世界の関わりについて、

1.時間が逆に流れている

2.彼女がこちらの世界に来れるのは、5年に一度、40日間だけ

3.こちらの世界に滞在中はこちらの時間に従うが、毎日0時に「調整」が入って日付が1日戻る

 この3つがほとんど一言ずつで語られるだけである。

 この調整だが、彼女のセリフはこうである。

「わたしの世界と、この世界は時間の流れがぜんぜん違っていてね。向こうの流れに縛られたわたしがこっちに滞在していると、いろんな矛盾が起こり得るの。それを防ぐためにあるんだって、いわれてる。」

 この短いセリフから、大事なことが読める。
 それはこの「調整」が人為的に、例えば向こうの世界の「時間管理局」なんてものによって行われているモノではなく、おそらく自然現象だ、ということ。
 向こうの世界にとっては、自分の世界の住人がこちらに来ていると、逆向きの時間の流れに連れて行かれるわけなので、あまり遠くに連れて行かれないうちに少しずつ「調整」を入れる、ということなのか。最終的にあちらの世界に戻ったときに、「彼女が過ごした経過時間」と「あちらの世界での経過時間」を合わせる必要もあるのだろうし。

 もしこれが人為的なものであれば、ここのセリフは、「それを防ぐために行われているの」というようなものになるだろう。「いわれてる」というのが、この「調整」が自然現象であるという根拠である。

 もうひとつ、彼女は5歳の時にこちらの世界に家族旅行で訪れ、その時に35歳のぼくに命を救われるのだが、この家族旅行のことを彼女が説明するセリフがこれ。

「親に連れられて。わたしたちにとっては、そうだな、遠目の海外旅行みたいな感じでね。たまたま3人とも周期が同じだったから行く気になったんだって」

 ここで注目したのは、「周期が同じ」という言葉である。周期?何の周期?
 周期についてはこれっきり何の説明もないのだが、これはもう「調整が入る周期」しか考えられないではないか。

 よく考えると、この世界に来れる条件、「5年に一度、40日間」のうち、5年に一度、というのは「周期」だということに気づいた。ここのセリフはこう。

「わたしは・・・わたしちの世界の人間は、5年に一度しかこちらの世界に来れないの。5年に一度、40日間までしか留まっていられない」

 つまり、「5年に一度」という"周期"はあちらの世界の人に共通ということが判る。その5年に一度、がどの年かは人によって違っていて、彼女の家族はたまたま同じ年だった、という可能性もあるが、それだったら先のセリフは、「たまたま3人の周期が合っていたから」となると思う。

 つまりここで判るのは、「調整が入る周期は人によって異なり、任意に変更したりできない」ということで、これもこの「調整」が自然現象である、という根拠になると思う。

 ということは、「5年に一度、40日間」という制限も、自然現象による制約ではないか。
 2つの世界が接近したり離れたりすることで、行き来できるのが5年に一度、40日間、ということなのだろうな。

 

 なんせ作者が世界設定についてほとんどヒントをくれないので、このくらいの材料から推理するしかないのだが、計算して「こう読ませたい」と作者が考えているなら、この数少ない説明は慎重に言葉を選んで書いているはず。であれば、この「調整は自然現象」という推測はほぼ間違いなかろう、と思う。

 これがどういう帰結を生むのか。

 この2人はどうやってももう会えない、ということである。

 正確には、この5年後には25歳のぼくと15歳の彼女が会うのだが、この時はぼくが彼女に「20歳同士の40日間にぼくたちは恋人同士になる」ことを彼女に伝え、その40日間に何があったかのおおまかなメモを彼女に与えるだけである。つまり彼女に、この40日間の歴史を作る意志と手段を与えるわけ。まあ、この年の差で「恋人同士」になったら犯罪になっちゃうしな〜。
 あ、ちなみに物語中に出てくる小ネタ「ガラスの仮面」は、おそらくこの時にぼくから彼女に渡されるか教えられるかしている。
 後はぼくが35歳の時に、5歳の彼女の命を救うだけである。この次、ぼくが40歳になったとき以降は、彼女はこの世にいない。

 このすれ違いはどうやっても止められない。

 移住しちゃえばいいじゃん、と最初単純に思ったが、必ず調整が入ってしまう以上、ぼくも彼女も、移住した世界を1日単位で過去に向かってしか生きていけない。そもそもおそらく40日経てば強制的に元の世界に戻されるだろうし。

 

 というわけで、ここまで理解した上で読むと、誰が死ぬわけでもないのに、「もう二度と会えない」という絶望感が半端ではない。2人とも健康そのものだけに、よけい絶望感が大きい。

 上手いわ、この作者。

 最低限の説明でこの縛りだけ理解させたら、後は物語には不要とひたすら2人、特にぼくの心理描写に専念している。説明が多くなるとそれだけ物語に集中できなくなるし、説明すればするほど「SF考証」になってしまって粗探しもされてしまうし矛盾も出てきてしまう。
 極端に説明が少ないだけに、解釈によっては違う結論に達する読み手もいるだろうけど、それはを作者が許容しているとしても、多分意図はこれなんだろうな。

 それにこの作者、情景描写も上手い。出会い(と別れ)の場所になる宝ヶ池の光景も、まるでこのあたりに土地勘がないわけではないからかもしれないが、風景が心に浮かんでくるようだし、別れのシーンの寒々しさの描写も心に迫る。
 それに彼女の造形がいいな。一目惚れ&ベタ惚れしている「ぼく」はやたらと彼女を完璧視するし、確かに彼女の献身と意志の力はたいしたものだと思うけど、データ中の言動なんかは「確かにこんな子、いたわ」というリアリティがある。俺の記憶の中ではそれぞれ別の女だったりするけどな。
 行為の後、下着を着ける彼女がやけに色っぽく見えて、なんてのも「そうだな〜」だし、見ているこちらに気づいたときの彼女のリアクションも、まあ確かによくあるパターンだったわ。違うリアクションの子も多々いたけどな。
 初めての恋人に舞い上がっている「ぼく」の様子も共感できるし。こんな時代、俺にもあったっけ。
 というわけで、ぼくにもたっぷり感情移入して読んだわけだけど、別に羨ましくはないぞ。こんな経験してしまったら、以後、他の女と付き合えなくなってしまうではないか。まして「ぼく」には彼女が最初の女でしょ。・・・こりゃあ、やつは一生独身だろうな。

 

 というわけで、読む前はまるきり期待しておらず、電車の中で時間潰しができれば良い、くらいの気持ちで買った本だが、久しぶりにインパクトがある本に出会った、という気がしたんである。

 

 

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