世界から猫が消えたなら(川村元気)

 

 本屋で平積みになっていて、面白そうだから買ってきた本である。しばらく書棚に積んでおいたのだが(良いタイミングで読もうと思って、常に何冊か積んでいる)、先日読んだ。
 確かに悪い話ではない。でも、なにこの腑に落ちない読後感。
 そう思いながら巻末の解説文を読んだのだが・・・これがあかんかった。解説文ですべてがぶち壊しになることってあるんだね〜。
 この解説の軽薄な文体がまず生理的に嫌だ。解説文が嫌だと本編まで批判的な目で見てしまうぞ。

 解説によると、著者の川村元気は映画プロデューサーらしい。業界人なんだ。どうりで帯に著名人がずらずらと推薦文を書いてるわけだ。
 で、解説によると、著者は敢えて「映画にならないもの」を書いたのだとか。

へ?この本、さっそく映画化が決まってるんですが?

 挙げ句の果てに、「これは"からっぽの人"にしか書けない話だ」とか言い出す。からっぽであること、喪失すること、消えること自体を書いているって。
 そうじゃないでしょう。からっぽじゃないから失う痛みがあるんでしょ?からっぽだったら失うモノはないよな?
 こんな調子でその場で思いついたような調子が良いことを書き殴り、挙げ句の果てに、「プロのライターとして我ながらいい解説文だと思う」とまで書かれちゃ・・・頭が痛いよ。

 そんなわけで、腑に落ちなさを確かめるために再読したのだが、この解説文のおかげですっかり「批判モード」で読み始めたわけである。

 そしたらわかった。初読の時の違和感の原因が。

 

ここからネタバレですよ〜

 

 

 

 

 例えばこの話では、最初に電話が消える。次に映画、次に時計が消える。そして猫を消すかどうかの選択を迫られる。

 あ、余談だけど、時計が消えたときの描写からすると、この話では何かが消えても「人々の意識から消える」だけで、本当に消えるわけではないらしい。
 それなら最後に猫を消すかどうかで葛藤するシーンは、ただのお涙ちょうだい だよな?

 ま、それはともかく。
 電話が消えた後の、映画と時計というのは、主人公に深く関わる人にとって非常に大切なものばかりである。
 映画は、主人公の元彼女が映画館に就職してしまったほど深く愛しているものだし、時計は主人公の父親が時計職人なのである。
 元彼女は時計が消えたときに主人公と会ってかなり長時間話をしているし、メインキャラの一人と言って良いほど細かく描写されている。
 だから読者としては、彼女の生き甲斐だった映画が消えた後、彼女がどうやって生きているのか知りたい、と思う。
 父親は妻の臨終の際にも、昔妻に贈って壊れていた時計を修理していて死に目に会えなかったエピソードを持つほどの時計職人だそうだ。
 主人公は父親との間に葛藤があるとはいえ、時計を失った父親がどうやって生きているのか、知りたいと読者的に思う。

 でも、物語はそこには触れてくれないのだ。物語が、と言うより、主人公の思いがそこに及ばない。
 映画を消すときも、主人公は自分が映画を失うことに悲しむばかりで、隣にいる元彼女が映画を失う痛みには思いが及ばない。
 映画も時計も、消すと決めたときにそれぞれ一瞬だけ思い出して、チクッと胸が痛む、程度で終わりである。

わかった。この主人公、まだ自分にしか興味がないガキなんだ。

 彼女と別れた原因も、「僕らは、電話ができることで、すぐつながる便利さを手に入れたが、それと引き換えに相手のことを考えたり想像したりする時間を失っていった」という文章があるが、それは違うわ。主人公は元々自分のことしか興味がなくて相手のことを考えたり想像したりできる人間ではなかった、ということだ。電話のせいにしちゃいかんよ
 ここは世間一般の風潮を指摘している部分、ではないよな?
 最後の映画も何も映さず、真っ白なスクリーンを見て自分の人生を回顧するだけのナルシストぶりを見せ、その映画が終わったときも自分が映画を失う悲しみに浸るばかりで、自分よりもっと映画を愛していたはずの、今現在隣にいる元彼女のことに思いが及んでなかったよね。

 あとはひたすら母親への思いが綴られている。
 母親ってガキにとっては自分の分身だよね。その証拠に、母親の最後の一番大切な思いを、主人公は最後の最後になってやっと気づく。そこに至るまで気づけなかったのは、母親を自分の分身としてしか見ていなかったからだ。

 母親から主人公に宛てた手紙をラスト近くになって主人公が見つけるシーンがあるのだが、この手紙の内容は、とても30歳(母親の死去時点では20代後半か)の男に向けて書かれたものとは思えない文章である。どう見ても10代、下手すれば10代前半の男の子に向けた手紙。
 つまり、母親の目にも主人公は自立した1人の男、には見えていなかった、ということだろう。よほど心配だったんだろうな。

 最後はようやく母親の思いに気づいた主人公が、父親との関係を修復させに行くところで話が終わる。この時点で主人公の命は1日かそこらしかないはずだが。

 つまりこの話、30歳にもなって自分のことしか興味がなかったガキが、ようやく大人への階段を1歩登ろうか、というところで命が尽きる、という話なんだな。これが作者の意図したところなの?読んでて腑に落ちないはずだわ。結局、「大人」になるための最重要人物であるはずの元彼女は放置だし。
 せめて主人公が10代だったらまだ共感できたのに、30歳にもなってこのガキっぷりは気持ち悪いだけだ。
 この気持ち悪さは作者の意図するところではなかろう。
 元彼女が放置なのは、「どんな恋でもいつかは終わる」ことを言いたかったんだろうな、とは思う。でもそれが計算どおりに働かないのは、主人公がそんなことをほざくレベルにはまだないから、である。母親にべったり依存してるガキが言って良いことではない。彼が年相応に大人であれば、失わなくて良かった恋だったんだから。

 

 

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