クローズド・ノート
もう公開されて10年近くも経っている映画だけど、最近観る機会があったのでひとつここは。
この映画、雫井脩介の同名小説を行定監督で映像化された映画である。
で、なんと言っても主演の沢尻エリカが舞台挨拶で「別に・・・」とぶーたれた態度をとって司会者や監督、共演者を凍り付かせ、それが話題になってしまった不幸な経緯を持っていたりする。映画は見たことなくて話の筋もぜんぜん知らなくても、「別に・・」だけは世間に強烈な印象を残したものだ。ただし負の。
私も別にこの映画にはさほど興味もなかったし、まして沢尻エリカに興味があったわけでもなかったので、「バカな女だ」くらいに思ってそのままスルーしていたわけなのだが・・・
数年前に原作の小説を読む機会があった。雫井脩介って、「犯人に告ぐ」は読んでないし、「火の粉」は何というか話のテンポが合わなくて途中で挫折していたので、あまり積極的に読もうとは思ってなかったのだけど、たまたま電車で出張に行くときに手に取ったのがこれだったので、時間は潰せるだろうと読んだわけなのだが・・・
いや、なんて良い話なの、これ。
電車の中で泣かされる話は読みたくないってあれほど危ないのは避けているつもりなのに、たまにこういうノーマークだった作品に当たってしまうんだよな〜。
しかし同時に疑念も生じた。
あのタカピーなエリカ様が、この主人公の香恵を演じたの?嘘でしょ。この香恵という子、ほんとにどこにでもいる普通の女子大生だよ?それをあの鼻から先に生まれてきたようなエリカ様が演じたと??
これはちょっと見ておかねばなるまい、と思ってから実際に見たのは1年ほど経ってからだったが(笑)
いや、映画も悪くなかった。DVDの帯に「恋愛映画」と銘打っていたのはちょっと嫌な予感はしたけど。原作では確かに香恵は恋はするが、それも片思いで結末もはっきりとは描かれていない。これから先は2人の距離はもっと近くなっていくのかな?程度である。
それよりタイトルにもなっている、香恵の部屋に残されていた前の住人である伊吹のノートを通して、香恵が伊吹から影響を受けていく様子がこの小説の主題なんだが。
ちなみに準主役とも言うべき伊吹は竹内結子が、香恵が恋をするイラストレーターの青年は伊勢谷友介が演じている。
また、重要キャラではないが要所要所で示唆に富んだ発言をして香恵の背中を押す役割の、香恵のバイト先の文具店の娘である可奈子を永作博美がやっていたりして、なかなか上手い役者を揃えていたりする。
伊勢谷も含めて、主役を食うような怪演をする役者もおらず、みな抑えた演技をしていて心地よく見ていられる。
そして。
沢尻エリカがまた良いんである。どちらかというと清楚系の女子大生をちゃんとやってるの。あの高慢ちきな姿からは想像もできないが。
特別上手いということはないのだけど、きちんと香恵を演じている。時々ひょこっと顔を出す、気の強そうな表情や物言いに違和感を感じるところが何ヵ所かあったけど、全体的にはとてもまっとうに丁寧に演技をしているように見える。少なくとも下手ではない。まあ元々、平凡な女子大生という役なので難しいこともないのだろうが。
あー、それでも最後の「けっこう私に似ていると思いますよ」ってセリフは、あの言い方だと宣戦布告みたいになってしまうなぁ。あそこは大きく違和感を感じたな。
それよりも、むしろ「映画の造り」の部分、シナリオとか映像表現はちょっと違うぞ、と思うところがあるけどな。
ちなみにこの原作、序盤に香恵が文具店の万年筆売り場でバイトをしていて、そこに客としてやってくる隆作に万年筆を売ることで知り合うのだが(それ以前に香恵の住むマンションの部屋を隆作が見上げているシーンがあるのだが、2人が互いを認識するのは万年筆のシーン)、この部分の万年筆の蘊蓄が長すぎて退屈、という書評が多い。
でもこのシークエンス、私は好きなんだがなぁ・・・
最初に万年筆が売れずに四苦八苦する描写から、可奈子に秘訣を聞いたりしながら何本か売ることに成功するあたり、モノを売った経験がある人ならかなり共感を持って読めると思うのに。そしてその基礎があって、イラストの仕事用に拘った万年筆を探しに来た隆作とコミュニケートしながら、隆作が満足する万年筆を売ることができたわけだ。
良いシーンなんだけどなぁ。香恵と隆作のパーソナリティもよく判るし。
このあたり、映画ではさすがにあっさり目に流されている。
それはともかく、それでこの映画を見て思ったのは、あの「別に・・・」事件がなければ、この映画、もっとちゃんと正当に評価されたのではなかろうか、ということ。
あの「別に・・」事件の時、別に映画にも沢尻にもさほど興味がなかった私が、「こいつはバカ女」の烙印を沢尻に押したのは、出資者が金を出して映画を作り、俳優も監督等のスタッフもそこからギャラをもらい、その製作費は映画の観客やDVDなどのソフトの販売で回収する、という商業システムになっている限り、スタッフもキャストも、その仕事には完成した映画のプロモーション活動までが含まれるからである。そのプロモーションの場でああいう言動をした沢尻は、プロ意識の欠片もないバカ女である。以上。
というプロの資格がない出演者が出ている映画を金を払って見に行くか?金をドブに捨てることになる可能性があるな、と感じた時点で、見に行こうかな、と思っていた映画でも鑑賞リストから外れるもんな。
沢尻はその後、周知のとおり一時干されたわけだが、それは当然だろう。制作側から見れば、こんなプロモーションの場でそれをぶち壊すような真似をする危険な女優は使いたくないもの。
沢尻はこの件について、一度は謝罪したものの、後にその謝罪を撤回している。
・・・これはその後も、色物女優としてしか扱われないのだろうな・・・もったいない、とまでは思わないが。だって今の若い女優、才能がある人がたくさんいるもん。それに20代の頃にやれる役をきちんとやることができなかった彼女ももう30になるわけで、よけい使いづらくなるよな。
ここからネタバレ
いや、映画としての造りの方が不満は多いんだよ。
登場人物の相関をまとめると、主人公の香恵の部屋の前の住人が伊吹という小学校の先生で、実はこの伊吹、物語の最後に実は既に故人だったということが明かされる。まあ読み手の方は何となく想像はついていたけど。
その伊吹が部屋に残した日記を香恵が読むことで、香恵は伊吹の人柄を知り影響を受ける。
そして香恵が恋をするイラストレーターの青年が石飛隆作。
で、ここがこの作品のミステリー要素なのだが、伊吹が日記の中で書いている彼女の恋人が「隆」という。
つまり、石飛隆作=隆なのである。これも物語の最終局面で香恵が知ることになる。
香恵は隆作を「りゅうさく」と認識していて、伊吹の日記の「隆」は「タカシ」と読んでいたわけだ。実は伊吹は隆作の隆を「リュウ」というつもりで書いていたわけだが、こんなの日記を読むだけの香恵が知る由もないので。
ということを前提にすると、映画は少しおかしい。
原作では物語の最終局面で、まず香恵が伊吹が故人であることを知り、その直後に隆=隆作であることを知る。
付け加えると、香恵は伊吹の日記を読むことで彼女のクラスの子供たちへの接し方を知り、真野伊吹という女性を大好きになっている。それで自分の片思いが通じそうにない状況で伊吹に実際に会ってみたくなって訪ねた勤務先の小学校で、伊吹が以前(香恵がこのアパートに引っ越してくる直前)に交通事故で他界していることを知る。その精神的ダメージを受けたままの状態で隆=隆作であることを知る、という流れになっている。
ところが映画ではこの順番が逆になっていて、まず隆=隆作であることを知った香恵が伊吹に会いに行き、そこで伊吹が故人であることを知る、という流れになっている。そしてその間、香恵は伊吹が故人であることを知る前に、隆作に向かって「私じゃダメですか?」と食い下がっているんである。
おい。香恵は(まだ生きていると思っている)伊吹から隆作を奪おうとしたのか?
どうしてわざわざこんな改変を?意味が判らない・・・
その伊吹だが、原作では姿を見せない。あくまで伊吹が書いた日記でしか彼女を知らない。
香恵が伊吹の容姿を知るのは物語のほとんど最後で、それも隆作が描いた伊吹の絵でしか知ることはない。
上でちょっと触れた、「けっこう私に似ていると思いますよ」というセリフは、その絵を前にして隆作に言うセリフなのだが、そんなわけで香恵は伊吹を全面的に受け入れているので、宣戦布告のような言葉ではない。
この「けっこう私に似ていると思いますよ」というセリフを言った香恵の気持ちを推し量ると、 1.隆作に対するフォロー だって隆作の立場に立って考えると、むちゃくちゃバツが悪いシーンだよ、ここ。 2.伊吹に対するシンパシー 香恵は伊吹の日記を読み続け、彼女にシンパシーを感じ、感化されて伊吹のような教師になりたい、と思っている。日記の最後のページなんて暗記するほど読み込んだわけだし。 という気持ちが混然としていたのだろうけど、心の半分くらいは目の前の伊吹の絵に奪われていたのではないかな。 だから、、、映画での沢尻によるこのセリフは、「これじゃない感」が大きいんだよな。 |
話を戻すが、映画では冒頭、香恵がノートを見つけるときに同時に伊吹の写真も見つけてしまう。
以後、伊吹の日記を読むときは回想シーンのように竹内結子が出てくる映像になるのだよ。しかも、そのナレーションというか、日記を読む声が竹内結子の声なんである。これはあかんでしょ。
これはまあ、竹内結子という大物女優をキャスティングしておきながら、竹内結子を出さないわけにはいかなかったという大人の事情なのかもしれんが、それをやってしまうと、隆=隆作であることを隠すために、日記のシーンでは隆に別の俳優を当て、香恵が隆=隆作であることに気付いたシーンでフラッシュバックのようにそれまでのシーンの隆を伊勢谷友介に置き換える、という映像表現を用いることになってしまった。
これ、反則です。
少なくともミステリー的には反則。これをやるなら隆の顔は徹底的に隠してシーンを作るべきだった。
確かに香恵の頭の中では漠然と想像していた「タカシ」が、次々と隆作に置き換わっていくシーンが原作にもあるのだけど、それなら映画の「日記のナレーション」は沢尻が読まなきゃ。
香恵が知らない伊吹の声で日記が読まれるということは、ここはいわば「神の視点」で香恵の与り知らない映像を観客が見ている、ということになるのだ。それなら隆は最初から伊勢谷でないと「嘘」だよな。
この監督、ミステリーは撮ったことがないのかな?
紙飛行機の小細工もいらん。
あの紙飛行機は、伊吹がクラスのお別れ会の日に日記の最後のページ(内容はほぼ隆に宛てたラブレター)を破り、それを教室から紙飛行機にして飛ばしたものを生徒が拾い、それを香恵が入手する、という流れなんだけど・・・どうしてそんなよけいなことをしたの??
ちなみに原作では普通に最後のページまで日記につづられていて、香恵はそれを暗記するほど読み込む。それがラストシーンに繋がるんだけど・・・
よけいなこと、ばかりか弊害しか生んでいない。
つまり一見、日記が修了式の日に学校にあったことになってしまう。説明不足なのでお別れ会の日=修了式の日、と普通は受け取ってしまいかねないので。そして伊吹が交通事故で亡くなったのも修了式の日なので、では日記が誰がわざわざ伊吹の部屋に運んで隠したの???という重大な疑問が生じてしまう。
実際は、お別れ会は修了式の前日なので、その矛盾は早とちりなのだが、こんなわけが判らないシーンを入れなかったら、こんな誤解を受けることもないわけで。
そもそもこんなプライベート満載の日記帳を学校に持っていき、あろうことかモロにラブレターのページを紙飛行機にして誰が拾うか判らない校庭に飛ばす、なんてことを誰がするっての??
なんでこんな改変をした??意味がわからん・・・
そんなこんな改変のおかげで、最後に会いたかった伊吹に隆作が描いた絵という形で初めて会えた香恵の感慨、その絵に対峙して隆作に「私に似てる」と言った香恵の、伊吹に限りないシンパシーを感じた上での隆作への思い、伊吹の日記の最後のページを暗記するまで読み込んだ香恵が隆作に、伊吹の言葉を半ば自分の言葉のように伝えるシーン、そのあたりの原作の一番良いシーンの数々がみんな薄〜くなってしまった。映画では、香恵は日記の最後のページを入手した直後なので、そのノートを読んでいる。つまり単に隆作に伊吹の言葉を伝えただけのシーンになってしまった。
バカだね〜
おかげで映画は、そのシーンできちっと締まらず、学校で生徒が大量の紙飛行機を飛ばすという蛇足に次ぐ蛇足のシーンを入れることになってしまった。
あの紙飛行機、後でちゃんと全部拾っておくんだぞ。
それと鹿島の扱いは何なんだよ。
鹿島というのは、香恵の親友のハナちゃんの彼氏である。物語冒頭でハナちゃんはアメリカに留学してしまうのだが、その彼女の留守に香恵にちょっかいをかけるという、この物語のいわば悪役である。
その鹿島、映画では序盤は概ね原作どおりなのだが、中盤で香恵の所属するマンドリンクラブの演奏会で、香恵に花束を持ってくるシーンを最後にフェードアウトしてしまう。香恵を口説いていたのはどうなったんだ、という展開である。
映画としては、この花束シーンをもって鹿島の役割は終了、ということらしい。尻切れトンボ感は拭えない。
確かにこのシーンは、香恵が花束を遠回しに(かなりあからさまに)お願いしていた隆作が、先に鹿島にほとんどKYとも言える巨大な花束を持ってきてしまったので、自分の小さな花束に気後れがして香恵に渡さずに帰ってしまうというすれ違いシークエンスなので、鹿島の役割は重要である。であるが、これ以降出てこないと、なんだか忘れ物をしたような収まりの悪さを拭えない。
原作では鹿島には、終盤さらに重要な役回りが与えられている。
香恵が伊吹の死を知って打ちひしがれているその時、香恵はハナという彼女がいながら自分にちょっかいをかけている鹿島が、さらに他の女とデートしている場面を目撃し、鹿島のハナに対する不誠実さに怒りを爆発させる。
ここは比較的フラットに淡々と進んでいく物語の中で、登場人物がほとんど唯一激しい感情を爆発させるシーンなのだが、なぜここを削った?
このシーン、沢尻がやると面白くなりそうなのに・・・渾身のビンタ、見てみたかったぞ(笑)
小説の映画化って、なんでこうも改変部分が裏目裏目に出るんだろうね。