イニシエーション・ラブ

 

前置きっつうか

 ふと気づけば、今の映画(特に邦画)って、原作があるものばかりなんだね。さもなくばテレビドラマのオマケか。
 特に原作モノは今じゃよほど映画界の方にストーリーテリングの才能がある人がいないのか、ちょっとでも売れた小説やコミックはものすごい勢いで片っ端から映画化されていく。

 まあ、コミックの映画化は元々ビジュアルのメディアだけにまだ容易いのかもしれないが、その代わりコミックの場合は原作が長〜いものが多く、映画の尺の中に収めるのは苦労するかも。
 その際には原作の要素(登場人物、エピソードetc..)の取捨選択と再構築が必須になるのだけど、最近の映画を見ててつくづく思うのは、取捨選択だけして再構築をきちんとしていない映画が非常に多い、ということ。
 直近では「エベレスト」だと、羽生の無届登山のおかげで深町もネパール側から登れなくなった→深町の登山はチベット側から、というエピソードを深く考えずに削ってしまい、その結果クライマックスの羽生とマロリーの遺体、それに深町が一堂に会するシーンが腰を抜かすほど意味不明なものになってしまった。
 これ、制作側はエベレストの地形やルートなど、一般の観客には関係ないと思っていたのかもしれないけど、映画のパンフレットにエベレストの立体地図を載せてるじゃん。これをじっくり見たら、素人でもあのシーンがおかしいことに気付くだろうよ。気づかないの?
 原作では、そこに羽生の遺体があったということは、おそらく羽生は南西壁を登れたんだな、という結論が導かれる意味合いがあったのだけど、映画だとそこにマロリーの遺体があったということは、おそらくマロリーは登頂できていたんだな、って意味合いになってしまうんだぞ?そんなの製作側は意図していないだろうけど、そういう結論が導かれることに気づかず、あるいは気づいていたけどどうせ観客には気づかれない、と観客の知能を低く見積もってああいうシナリオにしたんだよね?

 クローズド・ノートの紙飛行機もそうだし、なんでこんな余計なことを足すかな?なんでここを削るかな?という映画がほんとに多い。
 そしてそういうのは、比較的原作を忠実に映像化した映画に多い。だってどんなに忠実にやっても取捨選択は必須だし、わずかでも取捨選択をすると、必ず再構築が必要になるのにそれを怠っているから。

 あと、特に小説を安直に映画化するのが難しい理由に、小説というのは文章で書かれているのであって、文章には必ず文章でしか実現できない効果というものがある、こと。

 その最たるものが叙述トリックだろう。
 叙述トリックというのは作者が文章で読者を騙すトリックで、それを映像化したとたんに瞬時に普通に判ってしまうようなことを文章で誤魔化すような書き方、なんである。これを映画化するのが不可能、と言われるのは当然である。

 ただし映画には映画の「叙述トリック」があるんだよな。「シックス・センス」という映画がこの手の映画の最高峰じゃないかな。
 この叙述トリックが得意な作家、といえば真っ先に道尾秀介を思い浮かべる。道尾作品の大半に多かれ少なかれ叙述トリックが使われているような印象があるなぁ。
 叙述トリックに騙されるのって、すごく気持ちいいので私は好きなんだよね。

 でも何はともあれ、叙述トリックといえば乾くるみの「イニシエーション・ラブ」だろう。
 この小説は叙述トリックが使われている、などという生易しいものではなく、全編が叙述トリックで記述されている。最後の2行でこれまで頭の中で構築してきた物語がガラガラと音を立てて崩壊するのは気持ち良いったら。

 ところが。

 これが映画化されるという。

 はぁ?

 これは無理だろう。こんなの映像化した瞬間に謎でもなんでもなくなってしまうぞ。
 なにもこんなのを映画化しなくても、他にいくらでも映画化に適した小説があるだろうに・・・何を好き好んでこれを映画化するんだろう、と思っていた。よほど自信があるのか。
 ま、こんなの無理、と思っていたので、映画は観に行かなかった。
 ロードショーが始まると、意外に好評なことに驚いて見てみようかな、とも思ったのだけど、結局見ずじまいだった。

 それを最近、レンタルで見る機会があったのだが・・・・

 結論。やっぱり無理でした。

 というわけで、以下はネタバレに移る。

 

ここからネタバレ

 

 

 

 

 

 映画も未見で小説もまだなら、この下はマジで読まない方が良いよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この小説、章立てから凝っていて、
Side A
1.揺れるまなざし
2.君は1000%
 ・
 ・
 ・

Side B
1.木綿のハンカチーフ
2.DANCE
 ・
 ・
 ・

 という具合に、まるで昔のレコードかカセットテープのインデックスのような構成になっている。
 実はこの章立てからして、既に"仕掛け"の一部なのだ。

 主人公の名前は鈴木夕樹。小説は主人公の一人称視点なので、一貫して「僕」である。

 そして僕は、静岡の大学4年の7月に合コンでマユという女生と出逢って恋に落ちる。
 彼女には「タックン」というニックネームを付けてもらい、以降、彼女からは一貫して「タックン」と呼ばれる。
 その年のクリスマスイブをマユと過ごすところで、Side Aは終わる。

 Side B に入ると、僕は就職し、東京に転勤になる。つまりマユとは遠距離恋愛になる。
 最初はマメに静岡にマユに会いに帰るのだが、東京で美弥子という女性と知り合い、徐々に親しくなっていく。それと反比例するように、マユとはギクシャクしていく。

 最終的に僕はマユとは別れ、美弥子と付き合うようになる。
 そしてその年のクリスマスイブでSide B、すなわちこの小説は終わる。

 どんでん返しは、最後の2行。
 僕は、美弥子から「辰也」と呼ばれるのだ。

 ま、こうやって粗筋だけざっくり書くと、それだけ聞いても特に驚きは感じないだろうけど、初読で最後まで読み進めてこの「辰也」という文字を見たときの衝撃はなかなかのものである。
 この時点で判ることは、いつの間にか「僕」が入れ替わって別人になっていること。
 ま、常識的に判断してSide AとSide Bの「僕」は別人で、Side Aの僕は夕樹Side Bの僕は辰也なのだ、というところまではまあすぐに判る。でもこれだけじゃ50点なんだよな。

 物語の中には随所にテレビ番組の話題とか、背後に流れている音楽とか、そういった「時代を推定するためのヒント」が隠されている。
 それを丁寧に調べて判ることは、Side AとSide Bは同時進行だ、ということなのだ。つまりこの時期、マユは夕樹と辰也の二股をかけていたのである。最終的にはマユは辰也から夕樹に乗り換えることになったわけだ。

 ちなみに夕樹も辰也も苗字は鈴木なので、親しくなる前のマユや美弥子、それに他の人からの呼ばれ方では判らない、というのがミソである。そんなご都合主義、と言ってしまいそうだが、日本、特に静岡県での鈴木姓の多さを考えれば、ここで目くじらを立てるわけにはいかんな・・・と。

 ちなみに、日本全国の鈴木姓の人は約180万人で、日本人口の約1.4%なのだが、静岡県における鈴木姓はおよそ20万人で、鈴木率は5%以上になる。つまり静岡県人の20人に1人は鈴木さんなのだ。
 静岡県は日本でも、特に鈴木さんが集中している地域ということで、夕樹と辰也が同じ鈴木姓というのは、なかなかよくできた設定だなぁ。

 

 これが映画化できるわけがない、と思うでしょ?
 いつの間にか、「僕」が別人にすり替わっているなんて、小説だからできるトリックだろうがよ。映画だと出てきた瞬間に判るじゃん。

 映画化の話を聞いた時は、何もこんな小説を選ばなくても他にいくらでも映画化できる小説があるだろうよ・・・と思ったものだ。

 しかしいざ映画化されてロードショーが始まると、これが意外に評判が良い。えーっ?意外だな〜なんて思ってはいたものの、映画館まで足を運んで見る気にはなれず、つい最近になってようやくレンタルで見たわけである。

 で、結論なのだが、もう一度言う。

 やっぱ無理じゃんよ。

 この別人のタックンというトリックをどう映像化したかというと、なんと素直に別人をキャスティングしただけ、である。
 事前に、主演つまり「僕」役は松田翔太となっているが、これは要するに辰也役である。夕樹役は森田甘路という役者がやっているが、こちらは当然のことながら、まったくプロモーションには出てこない。しかも映画では「亜蘭澄司」とかいう煙に巻くようなクレジットしかされていなかったらしい。

 で、別に時制を細工するとかの工夫もせず、素直に原作どおりにSide A→Side Bの順にお話を進めていくので、Side Bになった途端、今までの冴えない男ではなく松田翔太が出てくるわけである。

 普通に別人じゃん。

 ちなみに原作では夕樹はファッションには気を遣わないが、特にデブだとか不細工だという描写はない。それどころか最初の合コンでは、メガネを取るとハンサム、とすら言われている。
 これが映画ではデブで不細工な男として出てきて、クリスマスイブをマユと過ごす際に、頑張ってダイエットするぞ!宣言をする。
 で、そのままSide Bの表示が出て、松田翔太が出てくるんだぞ。精一杯、直前のクリスマスイブに夕樹がマユからプレゼントされた靴が最初にアップになり、カメラが引くとその靴を履いてジョギングしている松田翔太、という画角になるのだが・・・

 いや、どう工夫しても別人にしか見えませんてば。

 これを、森田甘路が頑張って痩せてカッコよくなって松田翔太になった、と大多数の観客が受け取ってくれたの?
 ちょっと信じられないが、もしそうだとすれば日本の観客ってなんて優しいんだ・・・

 ハリウッドじゃ、役作りのために撮影期間中に20kgほども体重を出し入れする俳優がいるくらいだぞ。ハリウッドの映画で「頑張って痩せました」って別の俳優をキャスティングして、そんなのが通用すると思うか???

 これ、普通に原作を読んだ人間が見れば、私のように「なんだ、別人をキャスティングしただけか」ってがっかりするだけだし、原作を知らない人が見れば、「えっ?別人でしょ?」となると思うのだが。そんで結末で、「なんだ、やっぱ別人だったじゃん」ってなるだけ。

 ちなみに夕樹と辰也を松田翔太が体重を出し入れしたり特殊メイクで別人に見せてもダメ。元々この2人は別人で、特に似ているわけではないのだから、同一人物が演じた時点で「反則」になるもんな。

 制作側も、原作を知っている観客は後半(つまりSide B)をシラケながら観ている、という覚悟はできていたのだろうか、最後に原作にはないネタを突っ込んできた。

 そりゃそうだ。原作のラストで美弥子が「辰也」と呼びかけるシーンは、原作を知っている人にはもはや何の驚きも面白さももたらさないものな。

 この後、なんと辰也はマユのもとに帰るのである。
 で、そこはSide Aのラストと同じ時間帯なので、マユは当然、夕樹と過ごしている。
 つまりマユと夕樹、辰也が一堂に会してしまう、というラストシーンが用意されていた。

 いや、別にどうでもいいんだが。

 まずひとつ、おかしくなることが。

 その少し前、酔った辰也が間違ってマユに電話をかけてしまう、というシーンがある。
 この時、辰也は電話に出たマユの声に戸惑って何も言えなかったのだが、するとマユが「タックン?」と言う。その声に狼狽した辰也は電話を切ってしまうのだが、これをクリスマスイブに映画の辰也は、「マユは僕と別れたという認識がないのでは」という解釈から、マユが気にかかり、それがマユのもとに戻るという選択をしてしまう要因となる。

 マユはもちろんこの時はタックン、つまり夕樹と付き合っている。だから極めて自然に「タックン?」という言葉が出たのだが、それを知らない辰也は、別れて1ヵ月以上経つのに、自然に当たり前のように「タックン?」と言ったマユに不審を抱く。
 原作では、もしマユが自分と別れた、という認識を持てないでいるのなら、と彼女に哀れを感じているのだが、それ以前に恐怖を抱いている。そりゃそうだよ。かなり怖いぞ、これは。

 それが映画では「哀れ」ばかりが強調されて、ついに辰也は彼女のもとに戻ろうとするのだが・・・

 いや〜、結局、みんな不幸になってしまったな。

 原作ではちゃんと夕樹−マユ、辰也−美弥子という2組のカップルが幸せにクリスマスイブを過ごしていたのに、映画の方はみんな不幸になってしまった。

 それとマユ役の前田敦子がなかなかノッた演技をしていて、夕樹と接する時と辰也と接する時でかなり雰囲気が違う。これは原作でもそうなのだが、それを映像化されてみると、マユはとても嫌な女に見える。
 映画ではラストの一堂に会する時のマユの様子で、マユ=嫌な女は決定的になる。

 でも俺、原作のマユはそんなに嫌いじゃないんだよな〜。

 二股くらいけっこうあることじゃんよ。
 ちなみにマユと夕樹が出会ったのは、辰也が東京に転勤になった直後である。
 また、物語中でマユは辰也の子を中絶するのだが、この時は体調が悪いという理由で夕樹とのデートを1回キャンセルしている。
 夕樹がマユに「タックン」というニックネームを付けられたのは、この直前、つまり辰也がマユに中絶の意思を伝えた後、というタイミングになる。

 この「タックン」というニックネームだが、カンの良い人はここでマユに何かきな臭いものを感じるよな(笑)
 夕樹→夕がカタカナのタと読める→タキ→タックン、というのはいかにも無理やりだもの(笑)
 これは当然、辰也と夕樹を呼び間違えないためのマユの策略で、このマユという女、辰也が初めての男だった割にはなかなか歴戦の勇士を思わせる風格を漂わせている(笑)。あっさりマユと美弥子を呼び間違えて墓穴を掘った辰也とはえらい違いだ。

 こういう頭のいい女、嫌いじゃないんだけど(笑)

 そしてそのニックネームを付けたということは、辰也と夕樹を二股をかけるというマユの決意の現れだろう。
 で、それが既に中絶が決まっていた時期、ということは、マユには既に辰也との終局は見えていたのではないか?
 つまり、実質的にはマユは辰也から夕樹への乗り換えを視野に入れていた、ということでしょ。

 ま、二股も乗り換えも一生懸命な感じがして、あまりマユを嫌いになれないんだけどな。原作のマユは、ね。

 映画は・・・まあ仕方ないけどマユは徹底的に嫌なゲスい女だね。

 映画の話に戻ると、映画は最後にそれまでの各シーンを時系列に短く並べて種明かしをする。

 そんなの余計なことじゃ。

 そんなことをしなければ観客に理解してもらえない、ということ自体が、この話を映画としてきちんと作れなかったことを吐露しているようなものではないか。そりゃそうだ。小説をほぼそのままなぞっただけの映画だもん。

 じゃあどうすれば良かったか?と言われても何にも思いつかない。

 つまり、この小説は映画化なんて最初から無理だった、ということしか言えないなぁ。

 

 

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