美亜へ贈る真珠(梶尾真治)
まだ「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」繋がりなのである。
この間に他の系統の本もけっこう読んではいるのだが、ここに書くとなるとネタ繋がりでやっぱりこれかな、と。
これは「黄泉がえり」の原作者として著名な梶尾真治の傑作短編集<ロマンチック篇>、ということになっている。表題作はデビュー作品だし、一番新しい短編でも1998年の初出、となっている。
この中の、「時尼に関する覚え書」という短編が、時間が逆行する男女の物語ということで、「ぼくきみ」にそっくりだという話、いやもちろん時尼の方が早いので(1990年)、「ぼくきみ」が「時尼」にそっくり、と言った方が正確かな。まあそんなわけで興味を覚えて、たまたまブックオフで見つけたので買って読んでみたわけである。
せっかくなので、他の作品も。
ここからネタバレ
・美亜へ贈る真珠
これがデビュー作ということである。
これ、ぶっちゃけ難解な話である。
主人公は、「航時機」という、中に入った人間の時間を1/85,000に遅らせる機械の管理人。
その中にはアキという青年が乗っている。
そこにアキの恋人だった美亜という女性が毎日のように訪ねてくる。
やがて主人公も美亜も年老い、美亜は航時機の前で亡くなる。
その後、息子夫婦が孫娘(美樹)を連れて航時機の部屋に主人公を訪ねてやってくる。端的に言ってそういう話。
最初に美亜が真珠が好きだ、という伏線が張られ、最後にアキが流した涙が真珠になる、という結末に至る。
美亜はずっと、自分を捨てて航時機に乗ったアキが、自分を愛していたのか、という疑問を口にしながら死んでいくのだが、ラストシーンでアキも美亜を愛していたのだ、という結論に辿り着くわけなのだが・・・・
はぁ?というのが初読時の私の感想でした。
たいした伏線もないのに、いきなり結論がぽんぽん放り出される短編なので、美亜が美樹の祖母らしい、なんて事実も唐突に出てくる。その情報処理に頭が忙しいうちにラストシーンに突入してしまったので、よけい判らなかったのかも。
と思い、再読してみた。
美樹が"息子"夫婦の子であること、息子が主人公に"おかあさん"つまり主人公の妻に言及する場面があること、息子の嫁については名前すら出てこないこと、などから、どうも主人公と美亜は結婚していたらしい、と推測できる。
それこそはぁ?だけど。美亜は主人公とは作中では数十年、アキの話しかしてなてんだぞ。自分の夫と元彼の話しかしない女なのか、この女。
最期に美亜は主人公に、「じぶんの一生はなんだったのか。あなたにもお詫びしなければ」と言い残して死ぬ。
そんなの知ったことか、と思ってしまうのは、再読して美亜が嫌いになってしまったから、なんだろうな。
ついでにアキの方にも意地悪い見方をしてみると、ラストシーンでアキが泣いたのは、美亜を愛していたから、と主人公は解釈するのだが、それならそもそもなぜアキは航時機なんぞに入ったのだ、という疑問は拭えない。
その説明は作中では皆無なので、作者的に説明をする気がない、ということなのだろうが、それは作者の身勝手、というものでしょうよ。
アキの涙は、美亜という自分を知る唯一の人間が亡くなったことに対する、自分のための自己憐憫の涙だった、と解釈することも十分可能だよね。
というわけで、なんだかよく判らない作品なのだった。
ちなみに、"息子"がアキと美亜の子供、つまり美樹はアキの孫でもある、という可能性も考えてみたが、それにはアキが航時機に入った直後に美亜が主人公と結婚しなければ成立せず(出産時期で主人公にバレるだろう)、それはいくらなんでもないか、と却下した。
でも、この元彼をいつまでも忘れられず、夫の目の前でもぐたぐたと元彼の話をする規格外の自分勝手な女である美亜を受け入れてきた、これまた規格外のお人好しである主人公だ。そのくらいのことも受け入れるかもしれん。
美亜をもう少しまともな人間に見たければ、彼女が結婚していたのは別の男で主人公ではなかった、と解釈してみることも一応可能は可能だ。
その場合、美亜の子は息子の嫁、ということになる。
まあ、その仮説だと、美亜の臨終の言葉、「あなたにもお詫びしなければ」が意味不明になるのと、息子の嫁が名前すら出てこない軽い扱いだということ、それから息子が母親に言及するところが単なるミスリード、ということになってしまう。これはまずないか。
というわけで、結論としては「よくわからん」というのが本音。
・詩帆が去る夏
こ・・・これは・・・・
規格外に自分勝手な男の話である。
粗筋をかいつまんで書くと、主人公は20年前、詩帆という女性と知り合い、惚れて結婚することになる。
しかし、結婚式直前に詩帆から過去のあやまちを告白され、それが許せなかった主人公は式直後に水子岬(実も蓋もないネーミングだな・・)から飛び降りて心中する道を選ぶが、自分だけ生き残ってしまう。
で、主人公は詩帆の身体から細胞を採取し、クローンを作出する。それが現時点で20歳の裕帆。
まず、主人公が考えていることがぶっちゃけ気持ち悪い。
彼は「レヴィン伝説」なるものに期待している。これはつまりクローニングされた人間も、元となった人間の記憶を引き継いでいる、といういかにもSF的なガジェットなのだけど、つまりつまり彼は、成人した裕帆が自分のことを思い出して自分を愛してくれる、ということを期待して赤ん坊の裕帆を育ててきたのである。
うわぁ、気持ち悪い!!
もう率直な感想。自分が将来、その子とセックスすることを想像しながらオムツを替えた、って言うわけ?シュールにもほどがあるぞ。生理的に吐き気がした。
ですます調の文体が、この気持ち悪さを相乗効果で倍増させている。
気を取り直して読み進むと、主人公は裕帆のレヴィン効果を発現させようと、水子岬に向かう。そこであの状況を再現しようと試みるのだが、このあたりで主人公への気持ち悪さと怒りで、
お前が死ねよ!!
と心の中で絶叫した読者は私だけではないはず。
結局、彼の中に残っていた毛ほどの良心が発動したことによって、水子岬でのレヴィン効果発動作戦を諦め、帰途に着くわけだが、その途上で主人公は詩帆のレヴィン効果が実はとっくに発動していたことを知る。
つまり裕帆は、詩帆の記憶によって主人公に似た若い男を選んでいた、って結末である。
ざまーみろ!!
そう心の中で叫んだ読者は私だけでは(以下略)
それにしても、こいつを父と呼ばねばならないその男が気の毒だが。
とにかく主人公に一片たりとも感情移入できない。できないどころかひたすら気持ち悪く、その身勝手さには怒りしか覚えない。
こんな小説は珍しい、というか初めてだ。
下手なホラーより数段怖い。だってハッピーエンドじゃないのだよ。
裕帆と青年は、こいつを父と呼ばねばならないのだ。こいつが生きている限り、やつがいつその偏執狂的な自分勝手さを振り回さないとも限らない。
この小説のハッピーエンドは、主人公が作中で死ぬこと以外にはなかった。それ以外はすべて将来への不安を色濃く感じるホラー的なエンディングにならざるを得ないわけで。
ちなみにSF的、あるいは小説的に気になったところ。
まず、作中では詩帆の卵細胞からクローン、すなわち裕帆を創ったと書かれているのだが、いやいやそれではクローンにならんよ。
さらに致命的なことに、「人工的な細胞核を与え」と書かれている。
それはもはや詩帆のクローンなどではなく、まったく無関係な人間ができるだけ。
言い換えれば、誰か知らない無関係な人のクローンを創ったわけだ。
そうか裕帆は詩帆のクローンなどではなかったんだ。
それなら裕帆が詩帆に瓜二つとか、レヴィン効果がどうのというのは、主人公の単なる妄想?
こいつ、霊長類のクローン研究所に在籍していたということだが・・・高校生レベルの生物学が理解できていない。
ちなみに詩帆のクローンを作りたければ、詩帆からは生殖細胞を採取する必要はまったくない。というより生殖細胞は半数体なので、詩帆の生殖細胞を素にしたら詩帆のクローンはできない。生殖細胞、つまり卵子は誰のでも良いんだよ。主人公が研究所に勤めてたのなら、職場に実験用の卵子がいくらでもあるだろうよ。それを使えば良い。
そして詩帆からは髪の毛1本抜くなり口の中の粘膜をちょこっと削ぎ取ってくるなり、皮膚を少し削ぎ取ってくるなり、好きな細胞を採ってくれば良い。生殖細胞はダメだからね。半数体だから。
そして、その詩帆の細胞核を卵子に入れてやるんだよ。詩帆の卵子に人工の細胞核って、まるで逆です、逆。
この主人公、ほんとに研究者だったのか?クローンの研究所の職員でも、ほんとは掃除夫だったりしたんじゃないのか?
まあ、1978年当時にクローンを題材にしたこと自体は意欲的と言えないこともないけど、当時の知識でも高校レベルの誤り、には違いないからね。
SF考証がどうのというタイプの作風ではないにしろ、一応SFを書いているのなら、少しは勉強するか、簡単なところなのだから後の版では書き換えればいいのに、と思う。
それから小説的には、主人公が生殖細胞を取り出すために詩帆を解剖したときに、詩帆があやまちなど犯していなかった、という事実がわかるくだりがある。
この記述の小説的意義がよくわからん。
まず最初に思ったのが、何をもってあやまちがない、という確信を得たのか?ってことで、それはつまり、主人公は詩帆の処女膜が存在することを確認したわけでしょ。それしかないよな。過去にあやまちなどなかった、と断言できる解剖学的な所見は。
あのね、それって「生殖細胞」を採取するときにはまったく見る必要がない場所だから。卵細胞を採るのなら、腹を少し開いて卵巣を取り出せば良いだけの話で、膣の入り口なんてまったく関係ないから。
すると、"わざわざ"見たわけだ、この男は。
でもさ、処女膜の有無なんて、普通の死体の姿勢では確認できないよ。両足をガバッと開脚させるか、もしくは膣の入り口ごと生殖器全体を採ってしまうしか処女膜の確認なんてできないよな。
どちらにしてもただの変態じゃん、こいつ。
もうただただ気持ち悪い。
で、とっても不思議なのが、詩帆は一体全体、何故こんな嘘をついたのか?ということ。
最終的に詩帆は主人公と一緒に死ぬことまで同意しているのだ。自分の嘘で。まったく動機が判らない。
この人の小説には、まともな人間は出てこないのか?
これはSFというよりはホラー小説だ。そういう意味では確かに抜群に気持ち悪く、そして怖い。
・梨湖という虚像
この話、恒星間航行が可能なほどの"未来"の話でありながら、語られる映画は「カサブランカ」や「マルタの鷹」、音楽はハンク・ウイリアムズやビートルズというノスタルジックなものばかり、というバランスが不思議な非現実感を漂わせている。
でも、カセットテープはやりすぎだと思うけど。まあ1979年の作品なので、そのあたりは如何ともならなかったのかもしれないが。
それにしても、この話のヒロインである梨湖もまた、まともな人ではない。この人の話ってこんなのばっかりなの?
ちなみにラストシーン、主人公が"フェッセンデン"の中の梨湖と進に「手紙を書く」のだが、それは無理なのではないかなぁ・・と読んでいて思った。
梨湖は自分の死後、フェッセンデンの中の梨湖と進に、外部から誰も干渉できないように他のプログラムを"閉鎖"したわけで。
・"ヒト"はかつて尼那を・・・
異星人に征服されて最期の生き残りになってしまった"ヒト"と、征服者側の異星人の子供の話。
この話は、この本の中では一番好きかな。気持ち悪い人が出てこないから。
まあ、この話に出てくる"ヒト"も相当なものだが、それでも異星人に侵略されて自分が人類最期の生き残りで、それも保護区で管理されながら生きている、となれば、そんな境遇で生きている割にはまとも、と考えることだってできる。
それでも終盤、いよいよ「処分」されることになった"ヒト"は、昔死んだ尼那と敬介(この2人は愛し合っていて、"ヒト"は尼那に片思いしていた)の生殖細胞から作出した「子供たち」を、主人公の異星人の子供(パンチェスタという)に頼んでよその星に飛ばすことに成功する。
これさぁ、2人の生殖細胞を素にしながら、産まれてくるのは「もっと原始的な、これから進化をしていく素材のような生物」なんだって。これは明らかに、赤ん坊をたった1人で宇宙船に乗せて他の星に送り届けても、生存率は限りなくゼロだわな、というツッコミを回避するためのネタだよな。
でもなぁ、2人の生殖細胞を素にしているのなら、できるのはやっぱり人間の赤ん坊だぞ?それを「原始的生命」って、どれだけ無意味で未知のテクノロジーなんだよ?
それなら、生殖細胞なんかではなく、単に2人の細胞をそこそこたくさん採取しておいて、宇宙船に乗せて他の星の海にでも蒔けば良いんじゃん。そしたら、そのタンパク質と核酸が素になっていつの日か原始生命が・・・という話にしやすいと思うのだが。手塚治虫の「火の鳥 未来編」にそんな場面、あったな。
なんで生殖細胞に拘るかね?この作者。この"ヒト"も、尼那から生殖細胞を採るとき、処女膜の有無を確認したんだろうな。変態だ、やっぱり。
それにしても、どうしてこう「永遠の片思い」を貫こうとする人ばかりが出てくるのかね、この人の話には。
・時尼に関する覚え書
これか例の時間逆行テーマの話である。
確かに「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」によく似ている。
主人公は3歳の時に51歳の時尼と初めて会う。時尼は時間を逆行してきて会う度に若くなっていくので、つまり2人の年齢は常に足して54歳、という関係を保つことになる。
2人が27歳同士の時に一緒に暮らし始め、6年間結婚生活は続く。
その後は主人公が年老いながら、若返る時尼を見守り、援助する。その関係も時尼が3歳の時に終わる。
時尼(これでジニィと読むんだそうだ。むちゃな・・)は遡時人(そときびと)という、いわば"人種"であるらしい。
時間が逆行していることの説明や記述がいくつかある。
(1)27歳同士で出逢うときに、時尼が訪ねてきたときにずぶ濡れで、その後で雨が降ってきた、という記述がある。
時尼が訪ねてきたのは夜なのに、「夕立が降ってきた」なんて描写があると、ピリッと神経を逆撫でされるのだが、それはまあ目をつむるとして。
(2)遡時人が普通人と同じ時間軸の進行方向で生きようとすれば、凄まじい精神力と肉体的エネルギーを必要とする
これは時尼が主人公と別れて子供を育てなければならないことの、時尼による説明。
(3)遡時人は24時間を1サイクルとして正常人と同じ生活を送り、次の24時間で1日過去に遡時する
これは時尼との別離の後で、主人公が時尼の日記から推測したこと
これ、すっごく矛盾してる。
(1)でかなり短い時間単位で時尼が時間を逆行していることが描写されている。
これってかなり危険なことだと思うのだが、完全に時間が逆行していれば、正常人と遡時人が「コミュニケーション」をとることなど、まったく不可能だ。
お互いに、相手が言う言葉は逆回しに聞こえ、相手の「返事」は自分の問いかけの前に言われるわけだから。
だから、主人公と時尼が抱き合った瞬間は時尼も「巡航する時間」にいたわけだが、ではそうするとついさっきまで外にいて雨に降られていた時尼も、この時同時に存在していたというわけだな?
夜に夕立が降るという奇天烈な表現もさることながら、その部分がとっても気になる。
この(1)と(2)は矛盾しない。
普通に時間を逆行してきた時尼が、(1)の時はドアをノックする直前に「巡行時間軸」に移動したわけだし(その場合は同時に時尼が2人存在してしまうと言う疑問は残るが)、それには多大な精神力と体力が必要、という補強がされたわけ。
ところが。
このあと、2人は6年にわたって共に生活するのだ。しかも時尼は着実に若返りながら。
つまり毎日毎日、時尼は精神力と体力を振り絞って、主人公といる間は巡行時間に身を置いていた訳か、と。そりゃなみたいていのことじゃないぞ。
でも。
(3)はないだろう、(3)は。これは描写的には(1)と決定的に矛盾するし(2)とも矛盾している。少なくとも(3)の説明で良いのであれば、妊娠した時尼が「自分の時間軸で子供を育てねばならない」と言って主人公のもとを去る必要はない。
ちなみに(1)も、時尼がドアを訪れた時に日付が変わった、という解釈をすれば・・・ああダメか。24時間単位で遡時するのであれば、数分後の雨に濡れることはやっぱ不可能。深夜に夕立が降るというおかしな文章を差し引いても、ここは違和感が炸裂する場面である。
でも、(3)の説明を持ち出さないといけない理由があるわけだよ。
つまり、これから主人公が会うのは、どんどん若くなっていく時尼である。最終的には3歳の時尼に会うことになる。
(2)の説明のままだと、こちらの人間はどう気張っても逆行時間には移れないのだから、2人のコミュニケーションが成立するか否かは、全面的に時尼の方の精神力と体力にかかっているわけである。いくらなんでも3歳児にそれは無理っしょ。
だから(3)の理論でないと、年老いた主人公と幼い時尼のコミュニケーションは成立しないのである。
だったら(1)の現象はあり得ないし、(2)の時だって、子供を育てるから別れる、という理屈も通らないことになるわけで。
ここまで読んだとき、私は、「ああ、この作者、その時その時で都合が良い理屈をでっちあげているだけなのか」と思ってしまった。
なので以後はシラケてしまったので、話には入り込めずじまい。
他にも(2)の説明の時、24時間毎に遡時するのは本人だけでなく、その所有物も含めて一切、という記述がある。
ああ、余計なことを言わなければいいのに、と思ったが、それではリングと肖像画は誰の所有物だったのだ?
幼い時尼は普通のマンションに住んでいたようだが、そのマンションは「どちらの」所有物なのだ?
遡時人の所有物であれば、マンションはボロボロの状態から年月を重ねるに従って新しくなっていくのか?
普通人の所有物であれば、時間が逆行するもの同士でどうやって契約行為なんてことが可能なんだ?
もうどの記述を読んでも疑問符だらけになってしまった。
トドメに、自分の父親がすなわち自分の息子、という話まで出てくる。つまり主人公と時尼が産んだ子も遡時人で、成長した過去において主人公の母親と結婚して主人公を産む、というややこしい話になっている。
・・・主人公と時尼の「閉じた輪」はまだ美しいと言えるけど、父親と主人公の「閉じた輪」は、あまりにも気色悪くないか・・・?
父親(同時に息子)と主人公で永遠に回り続ける遺伝子の輪・・・もうどん詰まり。進化もできない。
気持ち悪い。勘弁してください
それもこれだが、さらに気になるのが、時尼が懐妊したとき、腹の子は遡時人だと何の疑問もなく確信したことである。普通人と遡時人が恋愛することすら「ほとんど前例がない」と言っておきながら、なぜ確信できる?
もし腹の子が普通人だったら、産まれた瞬間に母は過去に、子は未来に進むわけだから生き別れになってしまうのだぞ?赤ん坊は野垂れ死に確定、だよな?周囲に何人遡時人がいても同じだから。
だから、そのリスクを考えたら、子供は主人公がいる場所で産む他はなかったのでは。
結果的に、時尼の子は遡時人だった。また、遡時人である息子と主人公の母親が結婚して産まれた子、つまり主人公は普通人だった。
つまり、遡時人と普通人の混血がどちらになるかは、母親に依存するものらしい。
それでも時尼が懐妊したときは、ほとんど前例がない状況だったことを考えると、時尼の行動は不可解きわまりない。
この作者、SFには向かない人だと思う。
・江里の"時"の時
これはけっこう面白かった。
でも、黒沢と江里が一緒にいる"世界"があることが判ったところで、それは現実の黒沢と江里にとっては、何の救いにもならないよな、とは思う。
それと、主人公は元の自分の世界に戻れるのか?というのがとても不安というか。どの石を動かせばいいのか判らない状況では、ほぼ絶望的ではないのかな。
総じて。SF設定に関する不勉強さ、話の途中で適当に設定を変更する適当さ、遠い未来の話にビートルズやカセットテープを平気で出す無頓着さ、そしていかにも少年臭い「永遠の片思い」に対する青臭い拘りがゆたら鼻につく作品群となっている。
なんか高校生が若気の至りで文集に書いてしまった小説、って感じ。
これが一定の評価を得ているのがちょっと信じられない。