悪の教典(貴志祐介)

 

まだネタバレはしないよ

 うーん、これは・・・なんてぶっ飛んだ小説だ。
 貴志祐介って、「青の炎」のあのピリピリする倒叙ミステリーがあるかと思えば、「雀蜂」のような趣味に走った、しかも取ってつけたようなどんでん返し結末という何とも言えない小説も書いてて、なかなか振れ幅が大きい作家である。その中でも本作は最高に振れ切った小説、ということになるんだろうなぁ。

 どういう話かざっくり書くと、本作の主人公である蓮見聖司はルックスも人当たりも良く、生徒はもちろん同僚やPTAからも信頼が厚い高校教師である。生徒からはハスミンと呼ばれて親衛隊まであるほど慕われている。
 しかし実はこの男、生まれつき他人に対する共感能力が皆無のサイコパスで、自分に邪魔な人間は躊躇なく排除し、その手段が殺人であってもまったく意に介しないサイコキラーだったわけだ。
 この小説は基本的に蓮見視点で書かれているので、蓮見がどういう人間であるかは上巻の半分も読まないうちにすぐ判る。初めて殺人を犯したのはなんと小学校4年生の時で(これは未必の故意だった可能性はあるが)、14歳の時には自分の正体に気付いた両親を強盗に見せかけて殺しているという、とんでもないやつである。

 この男、対人関係は「技術」で泳いでいるわけだが、それによって得た人望を利用してクラス編成で自分のお気に入りの女生徒を集めて「理想の王国」を作ろうとしている。ところがそのために同僚の教師や問題がある生徒を排除していくのだが、徐々に綻びが綻びを呼んで、ついに絶体絶命のピンチに追い込まれる。
 このピンチを脱するために、蓮見は自分が担任するクラスの生徒全員を一夜のうちに皆殺しにすることを思いつき、あろうことかそれを実行に移すのである。

 そんなムチャクチャな男の凶行を描いているので、普通に言う「死亡フラグ」なんてまったく当てにならない。むしろ誰が生き残るのか?が終盤まで判らず(普通の話なら生き残りそう、と思われる人物が次々と簡単に殺されていくので)、その方法、結末共に最初から最後までムナクソが悪くなる小説である。と言いながら、殺戮を行っている蓮見本人があまりにあっけらかんとしているので、読んでいる自分も後ろめたくもある種の生理的快感を感じてしまうのは否定しないが。

 この小説、映画化されている。監督は三池崇史。

 試写イベントでAKBの大島優子が途中で退席し、「この映画は無意味に人の命が奪われるから嫌い」と言ったことで話題になった。

 結論だけ言うと、大島優子は正しい

 

ここからネタバレ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 文庫本の解説を三池が書いている。

 その中で、小説の冒頭で蓮見が住んでいる家が、屋根瓦が一部脱落しているのをブルーシートで恒久的に応急補修をしている、という文章がある。この恒久的に応急補修をしている家を、三池は蓮見が生きている環境、つまり職場である学校の教職員や生徒や父兄の姿、ひいては我々自身の姿だと言う。そして蓮見はそれを建て直すためにぶっ壊しすヒーローだと言うんである。

 ・・・頭痛い

 これが戦争やテロ肯定論に直結していることを判ってないのか?

 この恒久的に応急補修している家は、蓮見の心の姿の象徴なんだよ。

 普通の人間の心は簡単に瓦が落ちたり柱が傾いたりするが、ブルーシートではなく本物の瓦で補修をする。補修だらけなので歪だったり再び簡単に壊れたりするが、それでもそう簡単にはぶっ壊れたりはしない。ぶっ壊れることもあるが。
 しかしブルーシートで応急補修をしただけの家は、やがて柱も腐って早いうちに確実にぶっ壊れる。そのぶっ壊れる様がこの小説の蓮見の姿、なんじゃないの〜?

 いや、この家が社会の象徴という受け取り方自体は別に不自然じゃないし、ある意味その通りなのは否定しない。
 でもな、どうして「ならぶっ壊せ」という発想に行く?お前はノアの洪水を起こした神様か?

 この蓮見という男、幼少の頃から自分の都合だけで周囲の人間を殺人を含む卑劣な手段で排除し、この高校でも自分が狙った女生徒と関係を持ったことがきっかけで、それに気づきかけた同僚教師を退職に追い込み、現場を見られたかもしれない男子生徒を退学に追い込み、自分の情報網(盗聴)に気づいた男子生徒を殺害し、その男子生徒がまだ生きていることを偽装するために持っていた彼の携帯を関係を持った女生徒に見られるとあっさり彼女の殺害を図り、その際に犯した致命的なミスを隠蔽するためにクラス全員の殺害を企図するんである。
 まさにブルーシートが破れたら柱も腐っていて、家が豪快にぶっ倒れている様、なんだが。

 なんでこんな男を英雄視できるのか不思議でたまらん。1から100まで自分の都合と欲望だけで動いているんだぞ?

 そんな三池が監督した映画なので、そりゃ大島優子が途中で退席するほどの不快感を示すような映画に仕上がっているんだろうな、と納得していたので、映画の方は未見だった。
 それが、連休中の暇つぶしにレンタルで借りてきて見てしまったわけだが・・・

 想像どおりの映画だったわ(笑)

 ま、原作を忠実に映画化しても大島優子は途中退席しただろうけど。

 念のため書いておくけど、舞台挨拶で「別に」を連発した某女優と違い、大島優子が退席したのは試写イベントなので、大島はこの映画に対して肯定的なコメントをする義理も義務もない。正直な感想を言えば良いのだ。これが「肯定的なコメント」をすることまでがAKBの仕事、なのであればこんな試写イベントは映画のプロモーション上、何の意味もない。

 映画の「製作者サイド」であれば、どんなクソ映画に仕上がってしまったとしても、舞台挨拶などのプロモーションイベントでは褒めちぎらなければなるまい。自分が出資を受けて映画を作っている以上、映画の興行収入を最大限上げて投資した人間に配当を返すのが出資者に対する義務だから。

 だから「デビルマン」のような映画史上に燦然と輝くクソ映画の舞台挨拶で、原作者の永井豪がこの映画のことを褒めても、それは大人として当然の行為なんである。あの永井豪もつまらんオトナになったもんだ、とは思うが(笑)

 試写イベントもプロモーションイベントだが、それに呼んで映画を見せる人間は「正直な評価をする」というのが大前提で成立するイベントである。試写を見たタレントや映画評論家がみんなオベンチャラしか言わず提灯記事しか書かないのであれば、こんなイベントのプロモーション効果はなくなってしまう。ま、実際にはよほどのことがなければ褒めておくのがオトナの対応、ってものなので(笑)、我々も試写イベントのコメントをまるきり真に受けているわけでもないけれど。
 だから大島優子は正直な感想を述べた。彼女にとっては"よほどのこと"だっんでしょ。
 そしてもう一度言う。

大島優子は正しい

 そもそもこんな趣味の悪い映画をAKBを呼んで試写イベントをする、というのが製作者サイドのセンスの悪さを露呈している。
 この映画で無残に惨殺される生徒と同年代の女の子(しかも大半が同じ高校生)に見せて、どんな肯定的コメントを期待したんだ?
 これが同じ年代でも男であれば、この年代の男の子は男性ホルモン過多なので、彼らが内部で持て余している攻撃性を刺激して生理的な快感を与えることはできたであろうから、肯定的なコメントを期待できたかもしれんのに。
 この映画の持つ生理的快感は、男性ホルモンを持て余している男にしか判らんよ。女性にはまず無理。

 

 原作では蓮見がクラス全員虐殺を計画した動機は、自分が関係していて都合が悪くなった女生徒(ミヤ)を自殺に見せかけて殺した現場にいたことを別の女生徒(あゆみ)に見られ、しかもそれを文化祭の準備で徹夜で作業をしていたクラスメイトに喋られてしまったこと、である。
 この時点ではミヤの遺体はまだ見つかっておらず(実は死んでもいなかったことが結末で判るが)、その場にいたことを知られただけでは何も影響はないのだが、朝になってミヤの遺体が見つかった瞬間に蓮見がその現場にいたことが致命的な疑いを招く状況で、しかもそれをクラスの大半が知ってしまっている状況で、疑いを招かずに切り抜けるためには、朝が来る前にクラス全員を殺すしかない、というわけだ。
 それに加え、ミヤを殺害した時に蓮見の体に付着した血糊をあゆみに見られ、反射的にあゆみを殺害した後に盗聴器でクラスの生徒の会話を盗聴した時、自分が一部の生徒にかなり決定的に疑われていることを知る。しかも声だけではその生徒が誰か特定もできず。

 そもそも、そのミヤを殺さねばならなくなったのも、その前に自分に疑いを持たれたために殺し、生きていることを偽装するために持っていた彼(早水)の携帯電話をミヤに見られてしまったからで、要するにもう綻びが綻びを生んで収集がつかなくなっている状態、ブルーシートの破れが広がるのが止まらなくなっている状態なのである。

 というわけで、原作の蓮見にはそれだけ切羽詰まった状況があったわけだが、これをまた映画では適当に扱うもんだから・・・

 映画ではミヤを自殺に見せかけて屋上から投げ落とし、その直後に屋上にいたところをあゆみに見られた、というところまでは同じである。
 だがノータイムであゆみを殺害してしまったため、あゆみはそのことをクラスの誰にも話していない。
 盗聴のくだりもないため、これだとまだちっとも致命的な状況じゃないんだけど。あゆみの死体さえ上手く処理すれば、蓮見にとってはどうにでもなる状況である。

 だから蓮見がクラス全員の殺戮を決意した理由がさっぱり判らず、えらく唐突に見えるのである。

 蓮見がサイコパスで少年期に自分の両親を殺害するような男である、ということは映画の冒頭で語られるのだが、映画前半で蓮見のサイコパスっぷりは特に念入りに描写されているわけではない。アメリカ在住時代にグレイ・チェンバースを殺害した時に、「俺はお前とは違う」というセリフがあるくらいで、それも原作を読んでいないと理解できないようなセリフである。

 補足しておくと、チェンバースは蓮見がアメリカ在住時代に知り合ったシリアルキラーで、一時的に蓮見はチェンバースと協力して殺人を重ねていたが、最終的にチェンバースを裏切って殺害する。この時の蓮見のセリフが「俺はお前とは違う」である。
 何が違うのかというと、チェンバースは殺人によってしかエクスタシーを感じることができない快楽殺人者だったのだが(映画ではチェンバースが、殺害した人間の目玉を美味そうにしゃぶるという趣味の悪いシーンがある)、蓮見は殺人そのものが楽しかったりするわけではなく、自分の利害のみで他人を排除する、殺人はその排除の一手段に過ぎない。
 結局、蓮見はチェンバースが邪魔になったので排除(殺害)した、というだけの話で、原作を読んでいればそのあたりはよく判るのだが、映画だけでは演出的にそのあたりが判りにくくなっている。

 なのでつまり、蓮見がクラス全員を殺害することを企図したのは、蓮見が殺人行為そのものに快楽を感じる快楽殺人者なのでは?と観客に思わせてしまうのだ。

 殺される側のキャラ描写もそれに拍車をかける。

 原作中では蓮見の中学時代の担任の熊谷教諭や、蓮見の同僚で生徒の人気を二分していた真田教諭といった、「ほぼ善良成分のみ」のキャラがあっさり削除されている。残るは観客に「殺されて当然」と思わせたいのか、程度の低いキャラばかりである。

 生徒でも、教室での暴力事件で退学になったが偶然「惨劇の夜」に居合わせ、蓮見に戦いを挑んであと一歩のところで返り討ちに遭った蓼沼も、映画では暴力事件の直後に蓮見にあっさり殺害されている。

 それと高木翔
 原作ではいささか歪んだヒーロー願望の持ち主とはいえ、教室で蓮見を待ち伏せしてアーチェリーで挑み、矢は確かに命中したのだが、蓮見が柴原教諭を盾にしていたため、二の矢をつがえる前に射殺されるという、まさに紙一重の戦いを演じた。
 これも蓮見には、「的をよく見ておくべきだったね」と論評されているが、先に発砲されたら負けという状況下でそんな余裕があるものか。敢えて言えば一の矢が命中した時に喜ばず、すかさず次の矢をつがえていればあるいは・・とも思うが、それでも蓮見が先に発砲すれば終わりなので、どちらにしても待ち伏せした場所を読まれた時点で翔の負けは確定していたような状況だ。
 その待ち伏せ場所もあまり選択肢はない状況だったし・・・この状況で蓮見に勝てるのはゴルゴ13くらいしか思いつかん。

 その翔、映画では一度は学校の脱出に成功し、通行人に通報を頼んだ後に好きな女子生徒のために学校に引き返すという、原作の蓼沼の役割も一部担った役回りになっている。
 しかしその描写は酷い。

 校庭まで引き返してきた翔は、教室をロープで脱出することに何とか成功し、挫いた足でヨタヨタと校庭を横切ってくる彼女を発見する。
 そこで何と翔は、あろうことか大声で彼女の名前を呼ぶのである。そのせいで蓮見に気付かれて彼女ともども射殺される。
 あのシーン、観客のほぼ全員が「あほー!!!」と叫んだと思うぞ。
 他にもそんな遠距離でアーチェリーの矢が届くのか、とか、そもそもこんな遠距離では散弾では殺せないだろう、とかツッコミどころが満載のシーンである。
 ちなみに原作では、蓮見は散弾の他にもスラッグを持っているので、一応遠距離狙撃も可能だった、ということになっている。

 その蓼沼の他にも、原作ではサスマタで蓮見に挑んで一時は完全に優勢に立った園田教諭、電気仕掛けで蓮見を失神させることに成功した中村尚志(しかも本人はその仕掛けが発動する前に射殺されている)、その際に剣道二段の腕を発揮して蓮見に一矢報いた久保田奈々、というように、蓮見といい勝負をして追い詰めた人物は複数いるのだ。
 蓮見は彼ら(主に園田と久保田)からボコられたおかげで、事後カムフラージュのための自傷工作が必要なかったほどである。

 ところが映画ではこれらのエピソードはなく、蓮見はほぼ無傷で殺戮を終えている。

 だから殺戮シーンは、蓮見が生徒たちをショットガンでなぎ倒していくだけ、という単調なものになってしまった。

 どーして???

 柴原の扱いも酷い。
 柴原は原作でも女子生徒の万引きをネタに肉体関係を迫るゲスで、徹底的に間違って教師になったとしか思えないチンピラとして描かれている。惨劇の夜でも生徒にボコられた挙句、蓮見にアーチェリーで挑む翔に対する盾にされて死亡するという具合で、作中でもほとんどの読者に「こいつは殺されて当然」と思わせるような徹底的にゲスなキャラになっている。

 ところが映画では、カッコよくドラムを叩くシーンがあったり、映画では出てこない園田教諭の代わりにサスマタで蓮見に挑んだり、描写がブレている。
 ところがそのシーンがまた酷い。
 原作の園田は一時的に蓮見を圧倒してあと一歩のところまで追い詰めるのだが、映画の柴原はサスマタを持って蓮見と対峙しただけで一撃も加えられずに射殺される。しかもしかも、蓮見に投げられたミヤのパンティーをサスマタで受け、その匂いを嗅いだところを射殺されるという、笑うしかないような殺され方である。このために蓮見が屋上で失神させたミヤからパンティーを奪うという、原作にはないシーンまで追加されている。

 ギャグか?

 その他にも、死んだふりをして蓮見をやり過ごしたのにわざわざ話しかけて射殺される生徒、蓮見がよそを向いているのにわざわざ金切り声を挙げて標的になる女子生徒、蓮見がロープ(前述の女子生徒が脱出する際に浸かったロープ)を伝って教室に登ってきているのに、上から物を投げるとかロープを切るといった反撃をまったく試みず、口論まで繰り広げて蓮見を無事に辿りつかせてしまう生徒ども、もう失笑するしかないバカな殺され方をする連中ばかり出てくる。

 どーして???

 思うに、文庫本の解説で明言したように、監督は蓮見を英雄視してしまったので、英雄がひたすら生徒を殺戮していく心地よさ、を採ってしまったのだろう。だから蓮見が窮地に陥るようなシーンはすべて削除されていて、ひたすら蓮見が楽しそうに生徒を殺戮していく単調なシークエンスになってしまった。

 そりゃ大島優子も途中退席するよ。

 ま、原作どおりに描いていても大島優子は途中退席しただろうけど、もうちょっとまともにやっていれば、もうちょっと蓮見のえげつなさで観客を圧倒する映画になっていたとは思うんだけどな。

 

 原作ではむしろ上巻の方が蓮見のえげつなさが迫って怖い。
 下巻の「惨劇の夜」は、綻びに綻びが重なってどうにもならなくなった、破綻した状況を何とか覆い隠そうとした結果なので、始めた時点で既に蓮見は終わっている。短時間でここまで計画して遂行したのは驚嘆に値するが。
 現に3人も殺し損ね(ミヤも死亡していなかった)、AEDの録音が決め手になって逮捕されたわけだが、蓮見はその他にもいくつもミスを犯している。
 例えば硝煙反応。蓮見の衣服からは硝煙反応が確実に出るだろう。蓮見が衣服を処分した描写はない。
 また蓮見が犯人に偽装した久米教諭の衣服からは硝煙反応は出ないよな。手袋だけを着けさせても衣服から硝煙反応が出なければ、警察に疑いを持たれるのは必至。
 また久米教諭の体からは縛られた跡が発見されるはず。
 つまり、全員の殺害に仮に成功していたところで、このまま蓮見が逃げ切れたとはとても思えない。

 なので破滅に向かってひた走っている下巻より、自分の思い通りに周囲をコントロールしている上巻の方が、読んでいて遥かに怖い。同じレビューも多く、下巻はやりすぎ、という意見が多い。

 ま、蓮見に英雄性を見てしまうかどうかで、読み手の性向を測るリトマス試験紙のような小説にはなってるな、というのが正直な感想だったりする。

 

 

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