叙述トリック 概論

タイトル

著者

イニシエーション・ラブ 乾くるみ 
殺戮にいたる病 我孫子武丸
Another 綾辻行人
葉桜の季節に君を想うということ 歌野晶午

叙述トリックが使われている小説の分析については上記各論を参照してください。

 

 叙述トリックという"記述法"がある。普通はミステリーにおけるトリックのひとつとして分類されることが多いが、一般的な、例えば密室トリックとか凶器のトリックといったミステリーの他のトリックと比較して、決定的に異なる点がある。
 それはミステリーにおける他の"トリック"は、すべて小説内の作中人物が別の作中人物を欺き、騙すために仕掛けているのに対し、叙述トリックは作者が直接、読者を騙すために仕掛けている、という点である。そのために記述そのものに細工を施して、読者の認識を誤った方向に錯誤させるわけだ。
 普通はクライマックスでその種明かしが短い言葉で明かされ、読者が驚愕する、という仕組みになっている。ただし叙述トリックに頼り過ぎてしまった小説は、驚愕度も大きいが途中で読者に見破られてしまった時のしょぼさも半端ではない。

 で、どういうのが叙述トリックとは何か、ということについては、我孫子武丸が「叙述トリック試論」というテキストで「小説における、作者と読者の間の暗黙の了解のうちの一つあるいは複数を破ることによって読者をだますテクニック」と定義している。

 ちなみに我孫子氏はこのテキストの中で、まず「叙述」を辞書で調べて、「順序をおって事柄を客観的に述べること」という語義を見つけ、「これでは既存の叙述トリックのうち半数以上が成立しなくなってしまう」とボケている。念のため「記述」も辞書で引いて、「すじ道立てて、ありのままに書き記すこと」という語義を調べ、「結局のところ推理作家は『記述』や『叙述』とは無縁の存在」安心している(笑)。

 文章という、本来、円滑なコミュニケーションの手段であるためのものを、人をだまくらかしてコケにするために使用しているようなやからは、辞書編纂者ははなから相手にしていないのだろう、だって(笑)

 例えば、一文で仕掛ける例として「我孫子武丸は、昨日彼の実家に戻った」という文章を挙げている。
 ここは文脈的に自然であれば、彼の実家というのは当然我孫子武丸の実家、と読むのが普通で、またそうでなくては日本語力を疑うところだが、厳密にいえばそうとは限らないよね、ということである。

 ちなみに、人物のすり替えやこの人とあの人が実は同一人物だった・・というようなトリックすべてが叙述トリックというわけではない。
 作中人物も騙されている場合は、普通は叙述トリックとは呼ばない。作中人物はみんな判っているのに、読者だけが騙されている状態を作るトリックを叙述トリック、という。

 叙述トリックはそれそのものがアンフェア、という見解を持つ人が、読者にも作家にもいる。ミステリーのフェア、アンフェアは人によって基準が違うので一概には言えない。なので「この小説はアンフェアだ」などと誰かが言い出した場合、それは収拾がつかない論争になることが多い。

 私の基準は、昔からエラリー・クイーンのような「読者への挑戦状」があるミステリーを多く読んだためか、「初読の読者であっても論理的にトリックを見破る"手掛かり"が小説中に配置されていること」ということをミステリーのフェアの基準にしていて、それは叙述トリックを使用したミステリーでも変わらない。初読で見破れたことはないけれど(笑)。
 断っておくと、その"手掛かり"はいわゆる「伏線」ではない、ということ。極論すれば伏線なんてどうでも良い
 伏線というのは、別にミステリーでなくてもあらゆる創作物で広く使われている。幼児向けの童話である「ちいさいモモちゃん」ですら、きっちり伏線が張られているほどである。それはミステリーのフェアorアンフェアではなく、小説としての美しさ、に関与する要素。

 それに伏線というのは、回収されて初めて意味を持つ要素である。ほとんどすべての「伏線」は、未回収の状態では複数の解釈を持ち得るもので、それは「論理的にトリックを見破る手掛かり」にはならない。
 普通のミステリーでも、探偵が犯人を指名した時に、理由を「何となく雰囲気で」って言ったら、犯人と指名された人も読者も怒るでしょ。同じことで、伏線をどれだけ張っても、それは「雰囲気」でしかない。論理的にトリックを見破る記述があるかどうかが私のフェアorアンフェアの基準である。
 もちろん読者を騙すためのミスリードが許容範囲を超えて強引であっても、アンフェアと感じることになる。そのこと自体には多分異を唱える人はいないと思うけど、許容範囲をどこに置くかはそれこそ人それぞれ、だろうな。

 一般的に、叙述トリックというのは知らずに読んだ読者にとってはその効果(驚愕度)は大きい。しかし読み慣れた人にとっては底が割れやすい諸刃の剣である。不自然な記述を目にしたとき、いくつか叙述トリックものを読んだことがある人には、「あ、そういうことね」と簡単に判ってしまう。特に叙述トリックに頼り過ぎた小説は、その時点で読者にとっては読む価値がなくなる、というかその後は単なる確認作業に過ぎなくなる。
 そう考えると、ある小説を紹介する時に、「これは叙述ミステリーです」と紹介することそのものがネタバレになりかねない、ということ。折原一や綾辻行人のように、その著作のほとんどに叙述トリックを使っているような作家は、非常に不利になる。作者がまだミスリードもしないうちから、「あ、こいつとこいつが同一人物か」という「先入観」を持たれてしまいかねないもの。

 広く認められているフェアorアンフェアの基準には、「地の文に虚偽を書いてはならない」というのがある。一人称視点または特定の人物に密着した三人称視点では、「信用できない語り手」という概念があるとおり、虚偽が書かれていても直ちにアンフェアとはみなされないが。
 そりゃそうだ。BがAに変装してCさんの前に現れても、Cさんは相手をBではなくAさんと認識するだろうから、「私は昨日、Aさんと会いました」と小説中で述べてもアンフェアだと言うやつはいない。
 しかし神の視点で記述された三人称視点の地の文で、「その前日、CはAと会っていた」と書いたら、これは真っ赤なウソでありアンフェアだろう。そんなの当たり前ぢゃ。
 ただ、そんなことを言えば、誰にも密着しない神の視点の三人称で書かれた小説なんてものが存在するのか?普通は三人称で書かれている小説でも、必ず誰か特定の人物の視点に立っているものである。
 本当に「神の視点」であれば、その場にいる全員の行動のみを記述して心情には一切触れない書き方をするか、逆に心情に触れるのならばその場の全員の心情に等しく触れねばなるまい。そんなのミステリー以前に小説として成立しないぞ。
 三人称で書かれた小説が、どの程度その人物に密着しているかは、それこそ小説によって違うので、どの程度なら本人が錯誤したことをそのまま地の文で書かれていても許されるか、は難しい。まあ結局明確な基準はなく、読者がアンフェアだと思ったらアンフェア、ってことなんだろう。

 あと、そもそも何のために叙述トリックを使っているのか、という問題。

 叙述トリックって決まったときの驚愕度が大きいため、なんだか「トリックのためのトリック」に陥っているような小説が多いような気がする。
 叙述トリックは上手く決まれば、読者は種明かしされた瞬間に、それまで頭の中に描いていた世界観が崩壊するような衝撃を受けるのだが、重要なのはその後、なんである。そこで深い感慨を得られなければ、単に驚いただけ、で終わる。
 「驚き」なんて人間が小説でも映画でも創作物を鑑賞して得られる情動の中で、最も底が浅いものである。反復性は皆無だし後に尾も引かない。もちろんどこでどう騙されたか、手掛かりやミスリードを確認するために再読は必至だが、再読に耐えられる面白さも必要だし。再読すればどんどんつまらなくなっていく小説もあるし。初読時に面白いと思っても再読すればミスリードの強引さが目についてシラケてしまう例もあるし。

 叙述トリックに限らないが、初読時に軽い違和感を感じたり引っかかったりするカ所は、たいてい「伏線」である。後でネタばらしされた時に、「この時のあれはこういうことだったのか」と読者に思い出してもらわなければならんから、それも当然だが。
 トリックを見破るための重要なキーは、初読時にはまず気づかずスルーしてしまっている。つまり違和感を微塵も感じることがない書き方をされている。ま、ここに違和感を感じられたら、早々に見破られてしまうので当たり前だが。
 ミスリードも、初読時に違和感を感じることはまずない。当たり前だね。

 それが再読時にはガラリと変わるから面白い。
 再読時には、初読時に違和感を感じた伏線の部分は、すらすら自然に読める。
 だが、論理的にトリックを見破るための手掛かりは、再読時であっても自然すぎて見落とすことが多々ある。上手い仕掛けであればあるほど、手掛かりは見つけにくい。
 そして再読時に違和感を感じることがある。それはミスリードしている部分なのだが、そのミスリードが強引であればあるほど、そこで感じる違和感は大きい。

 中には初読時より再読時の方が全体を通して感じる違和感が大きい小説も(笑)

 そのあたりはネタバレサイトに頼っていると決して判らないので、まあそこまで読む義理は別にどこにもないのだが、たまには自力で再読を重ねて読み解くと、作者がどれだけ知恵を絞って書いているかが判って楽しいと思うよ。

 

 

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