ストーリー・セラー(有川浩)

 

とりあえずネタバレなしで

 

 期待が大きかっただけに、何とも言えない小説である。
 まずこの小説の成り立ちを調べると、Side-AとSide-Bという2つの中編で構成されているのだが、Side-Aの方はアンソロジーに収録された話で、単行本化するにあたってSide-Bを書き下ろしたらしい。

 この2つの話、両方とも女性作家とその夫が主人公である。名前は特に設定されておらず、「彼」と「彼女」という三人称代名詞で話が語られていく。
 文庫本の背表紙の粗筋では、妻が致死性脳劣化症候群という複雑な思考をすればするほど脳が劣化してやがて死に至る、という奇病に罹る、とある。

 この病気、冒頭でいきなり医師からその説明を受けている。そこから話が2人の出会いに遡って始まる、という構成になっている。

 あのね〜、冒頭でいきなりそんな荒唐無稽な病気の設定を出されても・・・

・思考に脳を使えば使うほど、脳が劣化する
・しかし健忘症や認知症になるわけではない
・死に至る最後の瞬間まで思考は明晰さを保つ
・劣化するのは「生命の維持に必要な脳の領域」

 でも余命は判らない、と言う。というのも、
・彼女がこの病気に罹ってからどのくらい「寿命」を使ったのか判らない
・また彼女が健康体であったなら本来どのくらいの「寿命」を持っていたのか判らない
 からなんだとか。

 で、彼女1人しか症例がないこの疾病に、「致死性脳劣化症候群」という身も蓋もない病名を付けたわけだが。

 おい。こいつは本当に医者か?

 脳の思考を司る領域と、それとまったく無関係の生命維持を司る領域の因果関係を、いったいどうやって調べたってのさ。
 で、そんなデータが取れていたのなら、「どのくらいの精神活動をすると、どの程度生命維持領域の活動が低下するのか」はこの医者には判ってるはずでしょ。
 で、どのくらい生命維持領域の活動が低下すると死に至るかは概ね判っているわけだから、余命診断もある程度はできるはずだけど。
 少なくとも「寿命」などという医師とは思えない言葉や概念を持ち出す必要はなかろうよ。

 それに、1人しか症例が存在しない「症状」に病名が付く、ということもあり得ない。どうやらこいつ、偽医者だぞ(笑)

 

 この「病気」が物語の必要性から出てきた「ご都合主義的設定」だということは判るよ。
 でも、例えば話が進んでこの2人にしっかり感情移入してからだったら、多少ムチャで強引な「設定」も許せることが多々あるけど、冒頭いきなりこんなのが出てきたら、粗という粗は全部見えてしまうし、それは普通に「ムチャクチャな設定だなぁ」と思ってしまうよな。

 2人の出会い、悪意あるグループとの闘い、彼女の実家の話、そして彼女の発症、闘病、みんな良いのだ。ちょっと文章のテンポが良すぎるため、人物がステレオタイプに見えてしまう嫌いはあるけど、けっこう泣ける良い話なんだよな。
 でも、この冒頭で少しシラケてしまった影響は最後まで残ってしまった。

 例えば彼女が初めて発症した時、てんかんによく似た激しい発作を起こすのだが、これは医師の説明とかなり食い違うのでは?

 もったいないなぁ・・・

 

ここからネタバレ

 

 

 

 

 

 

 

 

 で、単行本化のために書き下ろしたSide-Bに続く。

 Side-Bの冒頭、なんとSide-Aは女性作家が書いた小説、つまり小説内小説だったことが判る。

 ・・・は?さっきの俺の涙は・・・

 で、その女性作家、旦那と、今度は旦那が死ぬ話にしよう、と話しあう。
 その話がSide-B。

 無理でしょ。物語に入り込めるわけがないでしょ。せっかく物語の中に没入していたのを無理やり引っぺがされたような気さえする。

 で、このSide-B、構成は凝っていて二重に作中作になっていたりする。
 でも、この入れ子構造が明かされる度にこちらはさらに物語から距離を置いて読むようになるので(心理的にはこちらが距離を取るというよりは、むしろ突き放されるような感覚だが)、Side-Bではもはや一滴の涙も流れない。

 なんでこんな風にしたのかなぁ。
 こういう話は小細工なしのストレートど真ん中で読みたかった。そうするとひと頃やたら流行ったような、ヒロインが不治の病で死ぬ安直なお涙頂戴小説になることを恐れた?いやでもそういうのに小細工をしたらなお酷くなるのは目に見えてるし。
 少なくともSide-Aは冒頭の医師の説明シーンさえなければ、あるいはそれをラスト近くの彼女が発症してからに回せば、しっかり感情移入して読めた。まあできれば「病気」はもう少し慎重に設定してほしいとは思うけど。
 Side-Bは完全に蛇足、としか言えないなぁ。Side-Aまで否定されてしまって、読んだのを軽く後悔したほどである。

 

 ひとつ謎があるのだが。

 この小説の中で、一人称で語られる場面が2ヵ所ある。
 Side-Aのラストで、「僕」の視点で語られる場面と、Side-Bのラスト、「あたし」視点で語られる場面である。
 共に、その中で『ストーリー・セラー』という小説(作中作)が話に出てくるのだが、これは果たしてどこまでを指すのか?

 Side-Aのラストで出てくる『ストーリー・セラー』は、その直前の彼視点の最後まで、と考えるしかないよな。
 (XX年四月絶筆)とまで書かれているわけだから、そこが彼女が書いていた『ストーリー・セラー』なのだろう。

 ではSide-Bで語られる『ストーリー・セラー』は?
 ここでは「『ストーリー・セラー』の対になる話はこれにしたいと思います」と原稿をメールで送る場面なので、「対になる話」がSide-Bの彼女視点で書かれたところまで、であることは確かだろう。
 すると、「あたし」が書いた『ストーリー・セラー』は、「Side-Aのラスト前、彼視点のところまでの話」か、「Side-Aすべて」のどちらか、ということになる。
 ま、前者ならSide-Aのラストの「僕」視点の文章が完全に浮いてしまう(作中に「僕」に該当する人物は存在しない)ので、後者で疑問の余地はないのだが・・・

 なんだかな。こういう小細工を弄してくるからには、ラストでどんでん返しのようなものをせめて期待していたのだが。単に入れ子構造が一層増えただけってことに。マトリョーシカかい

 

 このちょっと前に、雫井脩介の「つばさものがたり」という小説を読んだ。

 これはまさにストレートど真ん中の豪速球で、最初の30ページを読んだ時点で「・・これはえらいもんに手を出してしまった」と読み始めたことを軽く後悔したほどだった。序盤から号泣(それも文字通りでマジに声が出るほど)させられたもの。
 この話にも、「天使が見える少年」というファンタジックな設定が出てくるのだが、これが話の重さをまったく損ねていないどころか、ラストでこれ以上ないほど涙腺を直撃してきた。ただでさえ豪速球なのに、ボールに鉄の芯が入っていたくらいの。

 ああいうストレート、有川浩には無理なのかなぁ。「阪急電車」生涯ベスト10に入れても良い、と思うくらい好きなのに、これはちょっと単に好きとか嫌いではなく、何となくバカにされたような不快感すら軽く感じる。軽く、だけど。

 どんなテーマでもそうだけど、技巧が鼻について感じると素直に感じることができなくなるよね。
 そういうのが上手い人は乾くるみか。「イニシエーション・ラブ」とか「スリープ」、「リピート」といった技巧で読ませる小説は、あの人の場合必要以上に感情移入をさせないような書き方をしているような気がする。
 たっぷり感情移入をさせてからするっと掌を返されると、やっぱバカにされたように感じてしまうものなぁ。

 

 

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