海街diary

 

 鎌倉って、どうしてこう物語の舞台として絵になるんだろう。映画、テレビドラマ、漫画、小説と枚挙に暇がないくらい鎌倉を舞台にした物語が存在するよな。ま、映画やテレビドラマの方は行政が地域おこしに誘致したりもするので、その土地の魅力度と映像作品の数は必ずしも比例しないということは判るけどもさ。

 でも。

 弟が鎌倉のすぐ近くに住んでいるので、鎌倉から江の島あたりは何度かうろうろしているのだけど、確かに良いよな。古い街とおおらかな海、ローカル風情あふれる鉄道、都市近郊の割には豊かな自然、これらがすべて揃っている土地ってありそうでないかも。

 古い街ってだけなら、京都や奈良は鎌倉よりさらに数百年は古いぞ。でも海がない。
 ローカル鉄道なら富山の地鉄だって捨てたもんじゃないぞ。江ノ電が紹介される度に、「家の軒先すれすれを走る電車」の映像が出るけど、そんなの富山地鉄だってそうだし(意地)
 富山なんて自然が豊か過ぎて自然によって癒されるどころか、季節によっては死闘を繰り広げる相手だし。

 七里ガ浜とか稲村ケ崎とか、あのあたりで海をぼーっと見ていると、確かにこの海からはサザンオールスターズが出てくるよ、と思う。
 富山で特に冬の波が高い日に海を見ていると、やっぱこの海からは演歌しか出てこないわ、とも思う。

 ま、でも人口と車が多すぎて、車を停める場所がない、というのはマイナスポイントだけどね。有料のコンビニ駐車場なんて初めて見たわ。

 前置きが長くなったが、海街diaryである。
 鎌倉大好きで何かあると「いつか鎌倉に住みたい」とうるさいカミさんが、この映画の公開時に見に行きたい、と言っていたのだ。
 俺も予告編を見て良さそうな話、と思ったので興味はあったのだけど、何となく見逃してしまっていた。
 それを最近になってレンタルDVDを借りて見て、想像以上にあまりに良かったので速攻でDVD(しかもスペシャルエディション)と原作のコミックを買い込んでヘビーローテーションで鑑賞しているってわけ。

 これからネタバレしまくるけど、ネタバレが鑑賞の興味を削ぐという類の話ではないので、未見の方も読んでしまって差し支えないと思う。

 この映画、一見するとかなり原作に忠実に映像化した作品、という印象を受けるけど、よくよく見比べると相当設定やストーリーを改変していることに気づく。

 簡単に話の概略を書くと、鎌倉で暮らしている佳乃千佳の3姉妹は15年前に父親が不倫の末の離婚で家を出て母親のもその2年後、別の男と再婚して家を出てしまっているため、3姉妹は祖母の家に取り残されてしまった。
 その祖母も6年前に亡くなり、今は3姉妹がその家で暮らしている。
 そこに、父親が亡くなったという知らせが入るところから話が始まる。

 父親は例の女性(原作では後に旧姓北川季和子という名前だと判る)と数年前に死別し、今は別の女性(陽子)と再々婚して山形に住んでいて、季和子との間にすずという娘がいることが判る。

 この物語開始時点での年齢は、幸が29歳で佳乃が22歳、千佳が19歳、そしてすずが13歳。
 つまり父親に捨てられた時点で、幸が14歳で佳乃は7歳、千佳は4歳、母親に捨てられた時点ではそれぞれ16歳と9歳、6歳、ということになる。

 葬儀の後、駅まで見送りに来たすずに、幸が唐突に「鎌倉に来て4人で暮らさないか?」と持ち掛け、すずがそれに「行きます!」と即答するまでが原作の第1話なのだが、原作はこの第1話だけで実に70ページほどもあり、これだけで1本の映画になりそうなボリュームがある。

 映画はこの冒頭のエピソードを、いくつかの要素は省略しているものの、かなり忠実に映像化している。
 それと中盤の祖母の七回忌のエピソードも、原作にかなり忠実に再現している。
 よく見ればこの2ヵ所以外はかなり改変しているのだが、重要な2つのエピソードを忠実に再現しているだけで、原作に忠実な映画化、という印象を持つから不思議だ。

 そもそも原作と映画ではテーマが違う。
 映画は、「一緒に暮らすことになった腹違いの姉妹たちが、本当の家族になるまでの1年間の物語」である。
 が、原作はそれはテーマの1つでしかなく、すずは物語の最重要人物であることは間違いないが、4姉妹の成長物語、という側面が強い。

 現に「4姉妹が家族になる」過程は、原作では比較的あっさりと描かれる。

 葬儀で、幸が父のことを「やさしくてダメな人だった」と言うシーンがあり、それを聞いて佳乃は幸が父をまだ許せないでいることを知るのだが(原作の第1話は佳乃の視点で描かれている)、それに対応する「ダメだったけどやさしい人だった」というセリフがある。
 このセリフは映画ではラストシーンで幸が言うのだが、原作ではなんと第1話で出てくるのである。言うのは幸ではなく佳乃だが、その時の幸はそれを否定しない。

 そして第2話で、幸は勤務先の病院で彼氏の椎名に会った時、「葬式に行って良かった」と言うシーンがある。これは最初は父への悪感情のため葬儀に行かないと言っていた幸が遅れて葬儀にやってくるシーンがあって、ここで幸に葬儀に行くことを勧めて車で送ることまでしてくれた"友達"が椎名だったことが判るシーンである。
 映画では幸は、"行って良かった"理由を、「でなきゃすずにも会えなかったし」と言うのみだが、原作ではさらに「お父さんこと、一生許せなかったと思うから」というセリフが続くのである。

 つまり映画の幸が父親を許すのが映画のラストシーンであるのに対し、原作では第1話の終わりの時点、つまり物語開始とほぼ同時に父親を許している、ということになる。
 ま、父親に対する気持ちをある程度整理できないと、すずを引き取る気にはなれないよな、とは思うので、そういう意味では原作の方が自然と言えば自然かな。

 また、映画ではすずが姉たちに馴染むのは比較的ゆっくりで、映画の半ば過ぎまで姉たちに敬語を使っている。
 すずが千佳に勧められて自家製の梅酒を飲み、ぶっ倒れるというエピソード(梅酒事件)があるのだが、原作でも映画でも、すずはこの梅酒事件の後は姉たちに敬語を使わなくなる。映画では2〜3のシーンで、幸に「はい」と返事をするシーンはあるが。
 この梅酒事件、映画では物語も半分ほど過ぎた冬のエピソード(物語は夏から次の年の夏までの1年間)なのだが、原作では第2話、すずが鎌倉に引っ越してきてからほんの数週間以内の話だったりする。
 原作のすずは、引っ越してきた日のうちに、一番歳が近い千佳にはもうすでに敬語を使わなくなっている。

 また映画の終盤、すずがボーイフレンドの風太に、「私、ここにいていいのかな」と言うシーンがある。「私がいるだけで傷ついている人がいる」というセリフが続くのだが、原作のすずはそういう疑問を口にしない。
 それどころか、すずが中学3年になってからのエピソードだが、直人(すずの母方のいとこで映画には登場しない)に「いきなり一緒に住もうって言われて迷ったりしなかった?」と聞かれるシーンがあるのだが、この時すずは、「迷ったりはなかった。この人たちのそばが私の居場所だって思ったから」と即答している。

 ところが話はそんなに単純であるはずもなく、現在7巻まで刊行されていてすずは中学3年の夏を迎えようというところだが、未だに姉たちに両親の話をしにくいと思っていて、特に母親の話は姉たちにはほとんどしていない。
 また、3年生になってすずに高校のスポーツ推薦の話が来るが、それが静岡の高校つまり鎌倉を離れることになるため、すずはけっこう長い間悩む。女子サッカー部を新設する高校からの話なのだが、レギュラーを取れるかどうか、金の問題など悩む要因はあるものの、どれもたいした問題ではなく、本当はすずはやっと見つけた自分の居場所から離れることの不安が大きいわけなのだが、これも姉たちを本当の家族だと何の疑問もなく思うことができていれば、どこで暮らしても家族は家族、と比較的迷わず進学を決めることができていたはず。

 余談だが、原作ではこのすずの迷いの原因に、姉たちや姉の彼氏(いずれも物語開始時点とは違う人物で、この時点ではまだ彼氏にはなっていなかったりするが)は気づいている。そりゃまあ、この程度のことに気づけないようでは大人としてどうなの、ってとこだが。
 でも大人たちは気づいていてもすずには何も言わず、ただ黙って見守るだけ、というあたりがこの作品の素敵なところである。
 ちなみにこの件は、ついに風太が気づいてすずの背中を押す。

 話を戻すw
 すずの母親については、原作ではすずは姉たちには話せないが風太にはわりとよく話す。
 その中で、幸が椎名と別れる最後のデートを、すずと風太の2人で尾行するエピソードがある。(実は原作のすずは尾行魔(笑))
 この時、すずには幸の恋が不倫でこれが最後のデート 、ということしか判っていない。椎名と別れることを決めた幸の心情は、幸の側から描かれた話があるので、幸の心情は読者にはおおよそ判っているのだが、それはすずは知らないことなので。

 で、幸は単に不倫だから椎名をあきらめたわけではないのだが(現にこの時点では椎名の離婚が成立している)、すずは不倫の恋をあきらめた幸とあきらめずに幸たち姉妹から父親を奪った自分の母親を対比させながら幸を尾行する。
 その時に一緒にいる風太に母親の話をし、「お母さんてどーなの」みたいなことを言うわけだが、それはつまり風太にはすずが「自分は生まれなかった方が良かったのでは」と言っているように聞こえたわけだ。まあ実際にそういう意味合いも含んでいるのだが。
 これが映画の「私、ここにいていいのかな」というセリフに対応するシーンで、映画も原作も江ノ電の極楽寺駅で交わされる会話である。
 映画では花火大会の帰りに、わりと唐突にすずがそんなことを言いだすシーンになっている。

 それに対する風太の返しも、当然その前に至るやりとりやすずのセリフそのものが違うので、映画と原作では大きく異なるのだが、どちらも良いシーンである。原作の風太もカッコいい。
 映画の風太は原作ほど登場シーンが多くなく、それほど深く掘り下げて描かれていないので、原作の風太よりずっと少年らしい少年なのだが、それでも精一杯今の自分に言える言葉を喋っている感があって、素直に「こいつ、いいやつだなぁ」と思う。

 この映画、このあたりの原作からのエピソードの取捨選択と、それに伴う物語の再構築が抜群に上手い、と思う。
 取捨選択はどの原作モノの映画でも必然的にやるんだけど、再構築をまともにやっている作品て、ほんと少ないんだよな。
 つまり、原作でももちろん「幸たち三姉妹とすずが本当の家族になっていく物語」というテーマはあるのだが、一直線にそのテーマに沿って語られているわけではなく、4人のそれぞれの職場や学校、サッカーチームの仲間との関わりの中でそれぞれが成長していく話、であるわけで、4人はその中で長い時間をかけてゆっくりと本当の家族になっていく。
 映画では、「本当の家族になる物語」にテーマを絞り、そのテーマに沿って原作のエピソードを並べ替えたり取捨選択しながら、比較的一直線に語っている。

 例えば映画では金沢の北川家関連、つまりすずの母親の実家が関係するエピソードはすべてカットされている。
 それは映画の尺を考えれば致し方ないのだが、この中ですずにとっては非常に重要なセリフがある。
 でもそのセリフ、映画ではちゃんと別の人に言わせているのだ。
 それもあの時点での二ノ宮さん、というのが原作とはまた違う意味で涙なくしては見れないシーンになっていて、映画でのこのセリフも捨てがたい。
 このあたりも脚本が良いなぁ、と思う。

 それと祖母の七回忌のエピソードも、映画は非常に原作に忠実に再現していながら、少し違う意味合いを持たせている。
 というより、原作が持っていた他の要素を抜き取って、「自分の存在に疑問を持つすずと持たせてしまった幸」という構図だけを描いている。
 原作では映画のように、前夜にすずが法事への参加を躊躇するシーンはない。
 また、都と幸の大ゲンカの後、今度は幸と佳乃のケンカが始まるのだが、映画ではこの時、佳乃が幸がすずを引き取ったことに対する疑問まで口にする(原作では物語を通じて誰一人、すずを引き取ったことに対する疑問は口にしない)。ちなみにこの姉妹ゲンカの時はすずは自室にいるのでこのケンカを聞いていない。
 原作では幸と佳乃のケンカの時、すずは縁側で一部始終を聞いているが、その態度はどこか超然としていて「それでも自分の居場所はここ」と宣言しているように見える。

 その後、すずが自分の母親のことで動揺を見せ、幸がすずを傷つけてしまったことに気づくくだりは映画と原作でほとんど変わらないのだが、原作ではこのエピソード全体が幸の視点から語られている。
 そして幸がすずに対して「母親のしたこととすずは関係ない」と言い、自分がすずを傷つけたことを謝るシーンでは、幸の「ひどく言い訳めいて聞こえる。誰かに傷つけられたと思っても、いつの間にか別の誰かを傷つけている」 という独白が入る。

 実はこのエピソード、次の回の「思い出蛍」というエピソードと合わせ鏡のようになっている。

 このエピソードは父親の一周忌のために、4姉妹で再び山形を訪れる話なのだが、そこで4人は、陽子が1年経たないうちに新しい男とデキてしまい、今は米沢で暮らしているという衝撃的事実を知る。しかも元旦那の一周忌にも出てこず、幸が施主を務める羽目になる。
 で、さらに陽子には2人の男の子がいるのだが、その上の子の和樹が新しい父親と馴染めず、山形の叔父の家に置き去りにされていてたりする。小学校3年生くらいだが、母親と弟と離れて叔父夫婦と暮らしているわけだ。

 で、嫌な顔をせずに施主を引き受けるという大人の対応をした幸に、納得できないすずが突っかかる場面があり、その後すずは千佳に初めて父親が再婚した時の心情を吐露する。父親が再婚すること自体が嫌で、陽子も最初から嫌いだったと。当然弟たちも好きになれなかったと。陽子や弟たちが嫌いということは、その前の梅酒事件の時に酔って叫んでいるが。

 その後、法事の後ですずは和樹と後片付けをしていて、地元のおばちゃんたちが山形弁丸出しで陽子の噂をしている場面に遭遇する。それはもちろん口さがなく、すずはともかく和樹に聞かせるには酷な内容だったわけだが、その時すずは和樹に「気にしなくていいから」と言いかけて、自分が今の今まで噂話と同じことを思っていたことに気づく。
 幸は言い訳めいている、と思いながらもすずに「あなたは関係ない」と言うが、すずは「こういうのを偽善者っていうんだ」と自分を責め、結局言い訳めいたことは和樹に言えない。

 つまり前回の幸→すずの構図と同じことを、今度はすずが幸の立場にスライドしたような話になっている。
 結局、幸とすずはそれぞれ異なる落としどころを見つけるわけだが。

 映画では、この「思い出蛍」に繋がる伏線になる部分は綺麗に除かれていて、代わりにすずが自分の居場所に疑問を抱くシーンが加えられている、ということになる。3姉妹側にも、ケンカの際の売り言葉に買い言葉とはいえ、すずを引き取ったことに対する疑問のセリフを佳乃に言わせたりしているし。
 このあたりの脚本は相当慎重に練られているな、と思う。

 

 ちなみにこの映画、夏から夏までの物語を春から冬にかけて撮影している。
 つまりどういうことかと言うと、物語の最初のシーンとラストシーンは、実際にはほぼ同時期に撮られている、ということである。
 映画サイトのレビューでは、「この映画の中で、すず役の広瀬すず が本当に"成長"している」というような感想をよく見かけるが、実際にはクランクインは春の新学期の登校シーンであり、これは映画の後半なんである。そして夏に最初の山形でのシーンやラストシーンが撮影され、クランクアップは梅酒事件の後で4人で庭を見下ろすシーン、つまり物語の中盤あたり、ということになる。
 ちなみに最初の「鎌倉に来る?」→「行きます!」のシーンは8/24の撮影、ラストの4人で海岸を歩くシーンは9/3の撮影で、わずか10日の間に撮られている。
 確かに最初と最後では、すずの顔つきまで違って見えるんだが・・・この若さでも女優ってたいしたもんだ。監督の演出も冴えてる、ということだろうけど。

 七回忌に幸たちの母親である都が登場する。都は大竹しのぶが演じているのだが、この初登場シーンが抜群である。
 原作の通りっちゃそのとおりなのだが、このシーンの大竹しのぶはまさに怪演。この一瞬で都がどういう人物であるか、直感的に判ってしまう。この点は原作より冴えてる(笑)

 その直後、家に帰ってきた後の幸と都のケンカのシーンも冴えてる。
 最初、隣の部屋からのアングルで4姉妹と都、大船の大叔母が思い思いの動きをしながら自分のポジションに散っていくのだが、すずはこの時アイスを大叔母から受け取って画面右の縁側の方にフレームアウトする。
 その後、原作どおりに都が唐突にこの家を売ったらどうか、と言い出して敏感に反応した幸と大ゲンカになるのだが、この時、都を写すカットでは、背後にすずが写っている。ピントは都に合っているのですずは完全にボケているのだが、最初白と紺の制服が写るのですずだと判る。
 そして徐々にカメラが都にズームインしていくのだが、それと共にすずもフレームアウトしてカップのアイスをつつく手だけが写っている状態になる。
 そして、都が売り言葉に買い言葉で、「元はといえばお父さんが女の人を作ったのが原因じゃないの!」と言ったとたん、そのすずの手がピタッと止まるのである。ピンぼけさせた手を止めてすずの動揺を見せるとは。この監督、油断ならん。

 画面の隅まで、と言えば海猫食堂もそうだ。
 海猫食堂は二ノ宮さんの店で、常連なんだか二ノ宮さんの身内なんだかよく判らない福田(原作では関西弁でむちゃくちゃ口が悪いおっさんだがも、映画ではリリーフランキーが演じていて柔らかい九州弁のやさしいおっちゃんになっている)の他に、もう一人店員がいる。おばちゃんなのだが、この人は原作どおりだと緒方ミドリのはず。

 緒方ミドリというのは、すずが所属するサッカーチームであるオクトパスのメンバーの緒方将志(マサ)という少年の母親である。
 ちなみにマサは、映画でもよく出てきているしセリフもある。すずの同級生4人で登場するシーンが多いのだが、そのシーンはたいていすずと風太の他にマサと美帆の4人である。ちなみに美帆は原作では別の私立中学。
 さて、映画では二ノ宮さんは最初から4姉妹と親しいという設定だが、原作では緒方家と親戚同様の付き合いで、海猫食堂にもマサがすずたちを連れてくることで知り合う。ちなみに幸とは、二ノ宮さんの母親が亡くなったときに世話になった病院のナースとしての知り合いで、佳乃は取引している信用金庫の行員として知っている。そして幸と佳乃、すずが姉妹であることは二ノ宮さんは最後まで知らない。

 それはともかく、そんな関係で二ノ宮さんの店である海猫食堂では、マサの母親であるミドリがパートとして働いている。
 原作のミドリは漫画のコマがセリフで埋め尽くされるほどのマシンガントークなのだが、映画のミドリはセリフは一言もない。そもそも役名すら公開されていないので、彼女がミドリであるというのも私の勝手な決めつけなのだが。

 しかーし!このミドリ、セリフもないのに、そもそも大半のシーンは二ノ宮さんや福田の背後にいてピントも合ってないのに、そこでちゃんと「演技」しているのである。
 

そのことに気づいてから、ミドリさんから目が離せない(笑)

 

 キャスティングだが、何といっても当時初主演に近かった(テレビドラマで1本主演があった程度)広瀬すずが、綾瀬はるか長澤まさみ夏帆という実力も華もたっぷりある女優陣に混じっても、雰囲気的にまったく負けてないのが凄い。すごい雰囲気がある女優だ。
 奇しくも同じすずという役名のキャスティングになったわけだが、まさに広瀬すずのためにあったような映画だな〜。

 綾瀬はるかの幸も良い。原作の幸はもっとキツい感じがする女性なのだけど、綾瀬はるかが演じるとどうしても柔らかくなるよな。
 三姉妹の中で一番原作のイメージに近いのは長澤まさみの佳乃か。夏帆の千佳は美人すぎる(笑)し、原作のあの頭のネジが2つほど緩んでいると感じるほどのマイペースさはない。

 しかしどの役も違和感はない。何より一緒に食事をしたりするシーンが多いおかげで、この人たちの姉妹感が無理なく出ているからなのかなぁ。
 細かい仕草やセリフひとつひとつにきちんと意味があって、セリフとシーンが繋がっていて4人が家族になっていく過程が心地よく見ていられるのが良い感じである。

 映画では原作にないシーンがいくつか追加されていて、特にすずと姉が家の中でサシで絡むシーンがある。
 例えば幸なら、廊下の柱の丈比べですずの背丈を測るシーン、佳乃とはすずにペディキュアを塗るシーンがそれである。どちらのシーンもゆったりした間でとても心地よい。幸はいかにも母親の役割を演じているし、佳乃はいかにもすずに"女"を教える年長の姉、である。
 千佳は元々原作でもすずとサシで絡むシーンが多いせいか、幸と佳乃のような完全オリジナルのシーンはないが、すずとちくわカレーを食べるシーンがある。このシーン自体は原作にもあるが、そこで交わされる原作の他のエピソードから持ってきたセリフで、ここもすずが千佳にだけは父親のことを話せたという、良いシーン。これも千佳は歳が近いこともあって、上の姉には話せないことを話せる姉、という役回り。
 このあたりの雰囲気が原作どおりなので、この映画がまさに「海街diary」だと受け入れることができるのだろうな。

 

 そんなわけで、とても良い映画でとても良い話なので、未見の方は機会があれば見てみてくださいませ。
  もちろん原作も未読の方はぜひ。

 


 この映画で、最初にすずに逢うシーン、幸がすずを鎌倉に誘うシーンに使われたロケ地を見てきた。
 場所は山形という設定なのだが、ロケはわたらせ渓谷鉄道足尾という駅で行われている。

 ちなみにここまで富山から約320km。高速を使えばともかく、日帰りはちょっと難しい距離である。
 バイクで走るときはよっぽどでなければ高速は走らないので、とりあえず1泊のつもりで早朝に走り始めた。
 結果的には日帰りできちゃった。朝4時半に出発して夜中の2時半に帰宅。22時間で走行距離は720km。もちろん高速は使わず。

 ま、こんな無茶な日程、最初から計画してできるものではないので、「激走モード」を半ば期待しながら走り始めたのは確かにしろ、当初はどこかで1泊するつもりでテントも持っていた。
 でも、わたらせ渓谷の温泉に入って大広間で1時間ほど仮眠したら、なんだか日間走行距離がリセットされてしまって、「さあこれからまた300km走れるぞ」状態になってしまった。これがいわゆる「激走モード」

 てわけで、足尾駅の写真を何枚か。

 

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 わたらせ渓谷鉄道 足尾駅

 

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下り線ホーム 最初に佳乃と千佳が立っていたのがあそこだな

 

 上り線の電車って、目の前の構内踏切の手前(写真の左側)に停まるんだよね。
 するってと、佳乃と千佳は汽車を降りてから、わざわざ踏切を素通りしてあっちまで歩いて行ってた、ということに。

 

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その場所を正面から見ると・・

 

 映画では右の電信柱に「かじかざわおんせん」て表示板が貼ってあったね。

 

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下り線ホームから駅舎側を あのベンチに幸と佳乃とすずが座った

 

 すずが汽車を追って走るシーンでは、一瞬すずが小さく左に進路を変えるのだが、それはこの踏切への降り口を避けたんだ、ということが現地を見たうえで映画をよーく見れば判る。判ったところでそれがなに?と言われたら返す言葉がないが。

 

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3人が座ったベンチ

 

 古いベンチと木のベンチの位置関係が、映画とは逆になってる。
 映画では「あしお」の駅名表示板がそのまま「かじかざわおんせん」になってただけで、「海抜六四〇米」の看板は、この駅のオリジナルをそのまま画面に入れていたんだ。まあそんな気はしたけど。

 

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下り線に汽車がやってきた 今じゃ珍しいディーゼル車

 

 こんな風に、下りの汽車は踏切の手前に停車する。そして降りた乗客が車両の前を横切って駅舎の方に行くのを待ってから発車していた。
 踏切の向こう側に停車すれば・・と思ったのだが、よく考えたら当然ワンマンカーなので、向こうに停車してしまうと後ろに行こうとする乗客から切符を回収するのが大変なのかも。

 

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今度は上り線に 「鎌倉に来ない?」 「行きます!」のシーンが

 

 上りの汽車。
 「鎌倉に来ない?」
 「行きます!」
 のシーンだ。

 そのシーンはちょうど写真奥の女性が立っている位置が、例のシーンのすずの立ち位置。
 そこから手前にすずが走ってくるわけで、踏切の降り口はちょっと気になるでしょ。

 

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上り側 この左のホームをすずが走っていった

 

 これは上り方向を見ているので、左が駅舎がある上りホームである。
 すずがこのホームを走っていくわけだな。
 ホームの端の柵が新しくなっているが、これは撮影の後で新しくなったのか、それとも元々これだったのを撮影時に古い木の柵にしたのか。

 

 

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