Space Battleship ヤマトを観たよ

 

 この雑談ネタ、気がつけば1年以上更新してない。
 なので山とはもはや何の関係もないネタなのだが、久しぶりに更新してみる。

 何の話かというと、映画「Space Battleship ヤマト」の話なのである。何を隠そう、私はバリバリのヤマトリアルタイム世代である。ファーストヤマトの本放送の最終回の時、当時仲が良かった友達と岡山の親戚の家に遊びに行っていて、ヤマトと裏番組だった「猿の軍団」とどちらを観るかで血を見るような争いをした挙げ句、負けて最終回を観れなかった苦い思い出を未だに引きずっているほどである。だから未だに「猿の惑星」も嫌いである。

 なので映画のYAMATOには正直あまり期待はしていなかった。実写だとどういう絵になるのかという興味と、下手なモノ作っていたら笑ってやろうくらいの気持ちで観に行ったのだが・・・

 いやいや、やられてしまったわ。こりゃあいいわ。おもしろかった。かなり凄い映画である。

 が、ネットで見ると高評価と酷評の真っ二つなんだよね。映画を観て受け入れられない人は徹底的にダメだろうな・・とは思っていたけど。

 でも、ちょっと酷評を見るとなんというか、ちょっと大人げない意見が多いのが気になる。仮にもヤマト世代なら、俺と同年代以上、少なくとも40代以上のはず。その割にはあまりにガキっぽい感情的反発が多いような気が。

 というわけで、ちょっと弁護してみる。

 

 まず前置きである。

 

 まずヤマトが好き、といっても、あの一連のアニメを無条件に受け入れている「大人」はいないだろう、と思っていた。でもけっこういることが判った。ネットに感情的な酷評を書いている人は、まずそういう人が主体になっているようだ。

 ヤマトってけっこう無茶な話なんだよ。

 ファーストヤマトはまあ良かった。「さらば宇宙戦艦ヤマト(以下「さらば」)」もまあ後に感じる問題は既に内包していたものの、あれで終わりならまだ良かった。
 その後だなぁ、ヤマトがおかしくなってしまったのは。

 まず「宇宙戦艦ヤマトU」をテレビで放映したとき、結末を大幅に変えてしまって「さらば」だと自爆して終わる話を主要人物共々生き残らせてしまったのが始まりである。誰もが「・・・まだ続けるつもりだな?」と思ったものであった。
 案の定、続けて「新たなる旅立ち」、「ヤマトよ永遠に」、「宇宙戦艦ヤマトV」そして「完結編」と粗製濫造期に入るわけである。

 「さらば」も、命令を無視して勝手に出航し、これまた勝手に他国(彗星帝国)と交戦状態に入ってしまうわけで、リアルに考えるとただの危険分子である。いくら悪者だからといって、自衛隊の軍艦が勝手に○朝×に攻撃を仕掛ければ、ただの過激分子でしょ??

 まあ「さらば」の場合は、彗星帝国は最初から次には地球を狙っていた、という設定だったので交戦状態に入るのが早いか遅いかの違いだけ(なんてことももちろんないのだが)だったのでまあいい。
 でも、「新たなる旅立ち」では、一方的にデスラーと交戦状態にあった暗黒星団に攻撃を仕掛けるのである。どちらが悪いかとか何の判断もなしに。

 むちゃくちゃだ、と子供心(もうけっこういい年だったが)にも思ったものだ。

 そこに見えるのは、自分たちこそが正義であって、自分たちの考えに合わない者はすべて悪である、という思想である。
 この思想は危険だ、と思った時点であまりヤマトは観なくなってしまった。

 危険といえば、「さらば」のラストの特攻も嫌いだった。
 自己犠牲が嫌い、というのではない。特攻すればok、という思想が嫌いなのである。

 あの場面でヤマト一隻が体当たりしたところで、あの巨大戦艦が毛ほどのダメージも受けるとはとても思えない。
 事実、あの彗星帝国を倒したのはテレサの特攻である。いや、テレサが反物質でできた人、という設定も「お〜い」と小学生の当時ですら思ったものだが、それは百歩譲る。テレサが特攻すれば、確かにあの巨大戦艦も吹っ飛ばせそうである。

 ・・・だとすれば、別にヤマトが特攻する必要はないじゃん。

 事実、「U」ではヤマトは特攻を回避してテレサ単独の特攻で彗星帝国を倒したようにストーリーが改変されている。

 自分たちだけが正義で、かつ特攻賛美。
 これって、当時はまだ身近な歴史であった第二次世界大戦時の日本軍そのものじゃないか。

 

 もうひとつ、ヤマトをあまり観なくなった理由は、科学考証(言い換えればSF考証)があまりにもデタラメなことである。

 ファーストでは、14万8千光年の距離を1年で往復しなければならない、という危機感が常に漂っていたわけだが、たった1年後の「さらば」ではテレザート星への距離は物語中で明かされてはいなかったものの、かなりの距離を気軽に往復している。
 極めつけは「永遠に」のクライマックスでは、ある銀河系の中心部から数回のワープを連続で行い、瞬時にその銀河の全貌を見ることができる距離までワープしている。

 ・・・いったい何十万光年ワープしたんだ??

 このワープ能力をもってすれば、イスカンダルなど午前中に往復できるじゃないか。性能がアップしたといっても、インフレにもほどがあるぞ。

 

 まだまだあるぞ。
 スターシャと古代守の子供のサーシャが生まれてたった1年で成人して出てきたり(しかもラストではお決まりの「自己犠牲」で自爆する)、最後にはなんと沖田十三まで出してきた。
 さすがに「完結編」で沖田十三が出る、と聞いたときには呆れ果てて、結局未だに観ていない。

 まあ、結局、私が好きなのはファーストヤマトだけ、ということなんだけどね。

 

 さて、そういう「ヤマト」を実写化するという。

 観てみたい〜。でも観るのが怖い。そういった気持ちだったわけである。

 

 さて、以下はバリバリにネタバレなので映画を今から見に行く人は読まない方がいいと思いますよ。

 

 

 

 

 まず、あのヤマトはそのまま実写化はできない、と思った。「原作」と敢えて言うが、あのアニメをそのまま実写化したのでは、とても正視できないほど醜悪なものになりかねない。

 まず、ガミラスの設定は原作のままではダメだ。
 あれは今となっては誰にでも判るが(当時も大人は判っていたろうが、ガキの自分にはそこまで判らなかった)、アニメのガミラスはモロにナチスのカリカチュアである。
 これを今の時代に実写で見てしまうと、きっと吐き気がするほど醜悪だぞ。もしくは失笑して白けるか。

 これ、映画ではうまく回避した、と思う。
 個であり全体である集合生命体、という設定自体は特に目新しいとは思わないが、イスカンダルの設定と併せれば立派にオリジナル、と言えるし。

 ちなみに映画を見ていてガミラスの正体がわかったとき、私は小説版の宇宙戦艦ヤマトを思い出した。豊田有恒原案・石津嵐著の小説があるのだが、これはアニメとは大幅に違うオリジナルストーリーである。アニメの制作過程でも豊田有恒は関わっているらしいので、何が原作かオリジナルのヤマトかは判然としないのだが、こちらの小説版は実は非常におもしろい。SF小説として非常に良くできている、と思うのだが・・・
 これを映画化すればかなり面白かった、と思う。ヤマトファンにはもっとそっぽを向かれそうだが。

 以下、小説版「宇宙戦艦ヤマト」のネタバレ

 その小説ではスターシャはイスカンダルの地下に設置された巨大コンピュータ、という設定で、ガミラス人はスターシャが想像したイメージ・ライフ、という設定だった。だから映画とはかなり違うのだが。
 この小説、アニメとは大幅に話が異なっていて、島大介、真田佐助(この小説での真田の名前)といった主要キャラが物語の途中でバタバタ死んでいく。結局、イスカンダル到着時点でヤマト乗員で生存しているのは沖田、古代、森を始めとする僅か8名、という凄まじさである。特に島大介の一件は当時読んでいて顔面蒼白になったほどショッキングだったなぁ・・・
 で、イスカンダルとガミラスの設定が前記の通りであるので、沖田は古代と森ユキだけを別の船(キャプテン・ハーロックのファントム号である)に乗せて地球に返し、ヤマトはイスカンダルに特攻をかますのである。つまりスターシャを破壊すればガミラスも消滅する、という設定である。スターシャはイスカンダルの地下全体に張り巡らされた巨大コンピュータなので波動砲でも破壊しきれず、体当たり・・・と。

 面白いんだけどな。ま、話が横道にそれるので戻す。

 そんなわけで映画のガミラスの設定は私は気に入った。
 一緒に観たカミさんは、最後だけ妙に人間臭くなるガミラス(=デスラー)が気になったようだが、私はあまり気にならなかったし。

 これに対し、拒否反応を起こすヤマトファンが多いのは、まあ判る。デスラーを観たかったんだよな。
 でも、いざ原作通りのデスラーを実写で観たら、そいつらも吐き気を起こすか失笑すると思うんだけどな・・・

 この設定ではガミラスが地球に遊星爆弾を落とす理由が判らない、といってる輩もいる。
 この設定だとガミラスはどこでも生きていけるから、地球を放射能まみれにする理由がないではないか、というわけである。

 ・・・ガミラス人が放射能がある環境でないと生きれない、という原作の設定を何の疑問もなく受け入れているんだ・・・

 原作のガミラス人は放射能がないと生きれない→地球を放射能汚染するために遊星爆弾を送った、という設定の方がよほど笑止だと思うのだけど。
 その設定そのものもだが、その程度の理由なら何故にわざわざ14万8千光年も離れた地球を??という疑問も多々あったぞ。近所に適当な星はなかったのか?

 ああいう生命体であっても遊星爆弾の理由はいくらでも考えられるでしょ。
 「他の生命の存在を許せないので、根絶やしにするための遊星爆弾」という設定でいいじゃないか。石津嵐の小説版もそういう設定だった(遊星爆弾という名前はなく、ただの核ミサイルだったが)。
 そもそもそんな理由を、あの人間とはまるで異次元の生命であるガミラスがいちいち説明してくれる必要もないし(改造している、とご親切に説明してくれたが)、その程度は脳内補完すればする話である。いちいち説明してくれたら、「まるで異次元の生命」という感覚が薄れてしまうし。

 そもそも異星人と地球人はコミュニケーションが不可能なほど価値観も何もかも違う、という設定は100年以上も前からSF小説にはあったわけで、原作のヤマトはお子様向けに「移住」などという判りやすい理由付けをしただけである。「移住するなら何故に地球を放射能まみれに?」という当然の疑問をクリアするために「ガミラス人は放射能がないと生きれない」なんて無茶な設定をしてきたわけで、そんな無茶の上塗りではお子様はともかく大人(この映画のメインターゲットは当然ヤマト世代だろ?)は騙せまい。

 なのでガミラスの設定を見て、この映画の制作者はSFとしてまっとうなモノを作ろうとしている、と安心した。

 いや、それを言い出せば何故にわざわざ2世紀も前に沈没した軍艦を改造などする?という疑問を持たれてしまいそうだが。そこは100歩譲って観てくれ。そこだけはまともに考えるとヤマトワールドが崩壊してしまうから。絶対新規で建造した方が安いよなぁ。

 

 もうひとつの懸念。

 スターシャや森ユキを誰がどう演じる?というのは心配していた。
 あの2人(サーシャも含めると3人)は、原画もイメージももはやホモ・サピエンスには演じることが不可能だぞ。誰がどうやってもぶちこわしになってしまう・・・と心配していたのだが・・・

 これも上手い、と思った。

 イスカンダルの2人はああいう設定で出すのを回避したし、森ユキは設定を大幅に変えることでヤマト世代が勝手に膨らませている森ユキのイメージ(もはや妄想に近い)をぶち壊すことを見事に回避した。

 そういう設定なら、黒木メイサはマッチしていたよな。今まで彼女はたいして好きな女優ではなかったのだが、ヤマトを観て少し好きになった。
 前半の勇ましさの割には、後半のガミラス=イスカンダルでは受け身に回ってしまって少し物足りなかったが、まあ仕方ないか。

 

 キャスティングといえばキムタクの古代進も危惧はしていた。
 観るとキムタクはどこまでいってもキムタクであったが、ちゃんと映画のヤマトの世界にははまっていたので違和感なく観れた。
 キムタクも特に好きな俳優ではないのだが、これはこれでありかと。

 役者としてはキムタクははっきり言って大根なのは間違いない。お世辞にも上手い役者ではない。
 でも、存在感が強烈、という役者は他にもいるよね。高倉健とか千葉真一とか。ちなみに高倉健のゴルゴ13も必見である。どこからどう見ても高倉健で笑ってしまうのだが、妙にゴルゴしている。千葉真一のゴルゴはいくらなんでもちょっと・・・だが。

 原作の古代、島、森といったメインキャラは、設定ではファーストヤマト当時でたかだか19歳のガキである。
 そのガキが班長といつた管理職に就いているのもリアリティがないのだが、古代など艦長代理にまでなってしまうのである。後にはガキのままの青臭い正義感を振りかざして他国と勝手に戦争まで始めてしまうのだが。

 そんなの、実写で見せられたらやっぱり正視に耐えないぞ。

 と思っていたら、主要キャラはきちんと年齢層も上げられ、それなりの過去や背負うモノがある設定になっていた。

 緒方直人があんな暑苦しい演技をするのには驚いたが。いや、まあキャストがみんな楽しんでいることは判ったが。

 

 という必要な設定変更をした上で、シナリオ構成もかなり頑張っていた、と思うんだよな。

 まあ、地球との更新シーンはちょっとくどい、とは思った。
 あれは原作では地球に交信相手がいなくて何も写っていないモニターを前に沈んでいる古代進を見て、これまで古代をあまり相手にしていなかった森ユキが古代に心を寄せ始める、というファンには重要なシーンである。だから映画で見せてくれたのは素直に嬉しい。

 しかし、原作では森ユキが生活班長で交信を仕切っていたからそのシーンを見ることができたわけで、彼女が戦闘要員になってしまった映画では「何も写っていないモニターを前に沈んでいる古代進」を見ることができないのである。いや、多少無理をすれば見せるシナリオは書けたのかもしれないが。

 だから、モニターの前の古代進と森ユキは映画では接触せず、島大介から森ユキが古代の過去を聞く、という流れになってしまった。
 それならそれでもいいのだけど、だったらあそこの尺は少し長すぎ、と思った。少しだれたもの。

 

 地球への最後のワープを終えたヤマトを見て、誰もが「イスカンダルで波動砲口に突っ込まれたミサイル、除去しないままで帰ってきたのか!」とツッコミを入れたと思われる。
 でも、それがラストの「特攻以外に手はない」という複線になるのだよな。なかなか高度なシナリオ展開だ。

 これに対して、「修理もせずに航海を続けるなんておかしい」とダメ出しをしている人がいた。

 でも、ガミラスの本体はガミラス星で叩いて壊滅させ、帰りは攻撃を受けずに帰ってきたわけでしょ。ガミラスは滅んだ、とヤマトの乗員は思っていたわけだし。
 僅かなガミラスの残存は地球の手前で待ち伏せしていたわけだから、事実ヤマトは攻撃を受けずに帰ってこれたわけで、ヤマトがガミラスが滅んだと認識している以上、波動砲口を修理する必要はなかったわけだ。

 それに第一、仮に修理したくてもできるわけがないじゃないか。ガミラス星で真田まで戦死して、地球に帰ってきた時点でヤマトの乗員は30数名まで減っていたわけだよ。修理したくてもできないでしょ。
 逆に波動砲口が直っていれば、「誰が直したんじゃ!」とツッコミを入れるべきところだろう。

 これなら「特攻しか手段はない」というのもギリギリ納得できる。「俺たちもまた生きるために行くんだよ」みたいなきれい事を言わなかったのも良しとしよう。特攻はして欲しくはなかったけどね。

 まあ、斉藤一がキャスティングされていた時点で、「さらば」と合体したようなシナリオになるのは見えていたし、ならば最後は特攻か・・・という読みも当然あったので、覚悟はできていたというのもあるが。

 

 という諸々のことは後で感じたわけで、観ているときはもう最初にヤマトが波動砲をぶっ放した時点で大喜びである。
 少なくとも観ているときは違和感なく観れたし、後でこのように細かく検証してみれば、かなり細心の注意を払って設定やシナリオを構成していることも判った。
 大満足である。DVD出たら買おうっと。

 

 でもこれ、ヤマト世代でない人に通用するかな?まして外国に?

 「なんでわざわざ戦艦を改造なんて手間がかかることを?」とか、「この形は下からの攻撃に決定的に弱いのでは?」といった正論を吐かれると反論できないのだが。

 

 

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