故郷から10000チェーン(・・くらい?)

 

 ちなみにチェーンとはアメリカで使用されている長さの単位で、1チェーンは約20.11mに等しい。
 さらにちなみに私の実家がある滋賀県大津市は、直線距離で約250kmくらい。
 というわけで、10000チェーンと言うにはちょっと足りないのだが・・・どうしても"故郷から10000・・"というフレーズを使いたかっただけなので、細かいことはまあ良いのである。元ネタ知ってる人だってそうは多くなさそうだし。

 というわけで今回は地方、方言ネタである。タイトル考えるのに3週間かかったのだ。

 私の両親は父親が岡山、母親が大阪の出身で、私自身は大阪で生まれたわけである。なので未だに本籍は大阪の千里丘にあったりするのだが、そこは今ではただの道路になっているそうである。結婚した時に自分の戸籍を作らなければならないわけだが、その時に本籍の場所を変えなかっただけなのだが、実はその番地は1−1、1−2というように2つに分筆されていたんだそうな。
 「どちらにします?」と役場の人に聞かれたのだが、どっちだって良いんだけどその場所には今は何があるのか聞いてみた。すると1−2は今は道路になってます、ということだったので1にしたのだが・・・今探すと、そもそもその前の番地からないんだけど。
 どうせ両親が最初に住んでいた場所とかなんだろうが・・・

 で、私には大阪の記憶はなく、物心ついたときは奈良にいた。奈良で小学校5年生までいて、その次は今でも実家がある滋賀県の大津市に高校を卒業するまで住んでいたわけである。大学は岐阜に7年いたと。

 で、富山に来て最初にビックリしたことがある。

 新採は最初に2週間ほどの研修を受けたわけだが、その時になんだか偉い人が出てきてこう言ったのである。
 「富山は東京、大阪、名古屋の日本3大都市から等距離にある、日本の重心のような地域です」

 ほんと、心底驚いたのだよ。東京・大阪・名古屋のどこからも等しく遠いというべきだろうが?それ言ったら、青ヶ島や鳥島だって東京・大阪・名古屋からだいたい等距離だぞ、と心の中でツッコミまくっていたのだった。

 

 それと富山に来てちょっと不思議だったのは、こちらでは佐々成政という武将がけっこう人気がある。
 この人は山やには初の厳冬期北アルプス横断の記録保持者として名を馳せているわけなのだが、正直堅気の人に知名度がある人だとは思ってなかったのだった。それがけっこう富山の人で佐々成政の研究家がいて、本も出版されて本屋に平積みで置かれていたりするのである。

 ちなみに話が横道に逸れるが、富山の本屋は凄い。富山県でもたかだか人口100万人、富山市では30万人しかいない都市だというのに、大きな本屋のチェーン店が3つも覇を競い合っているのである。
 おかげで富山の本屋はやたら充実している。TSUTAYAとコラボしてDVDのレンタルやセルと一緒に・・・なんてのは初歩の初歩である。
 とにかく富山の取り柄は土地代が安いことであり、そのメリットを最大限生かした巨大店舗もできている。入り口付近で見取り図を見ないと、何がどこにあるのか見当もつかん。
 その店にはところどころにPCが置いてあって、探したい本の検索ができ、在庫がない本はその場で注文票まで出力できる。
 またソファやイスが何カ所も置いてあって、「立ち読み」ならぬ「座ってじっくり読む」ことすらできるのである。ジュースの自動販売機まで店内にある。
 ここまで大きな店舗でなくても、あるチェーンは本屋とカフェが一緒になってるし、なんせ激化する競争のおかげか何か、やたらサービスが充実しているのである。もちろん品揃えも抜群で、岐阜では市内に1カ所しかなかった専門書が置いてある本屋も、富山では3〜4カ所はあるんだよな。
 住人の平均知能指数を取ったら間違いなく日本でもトップクラスになるはずのつくば市お寒い本屋事情を考えると(なんせ同市には"富山レベルで言う"まともな本屋は1つもない)、文明と文化は違う、と思うわけである。ちなみに実家がある滋賀県も本屋事情はかなり寒い。

 ま、携帯がないとはぐれたら二度と巡り会えないような本屋やスーパーがあるのは、なんせ土地代が安い富山ならではなのだが。

 話が逸れた。佐々成政の話である。
 意外に佐々成政、富山では人気があるんだよな。この人、元々は尾張の人で織田信長のいわば進駐軍だった人でしょ。その前に富山にいた国主はなんて人かほとんど知らないけど(「信長の野望」というゲームでは神保氏が越中にいることになってるが)、その人を蹴散らして富山に入った経緯はよく語られていないのである。
 一般的な歴史では存在感がなかったりあまりよく言われていない人でも地元ではけっこう人気がある、ということはよくあるが、でもその場合はその人はたいてい元々地元の人なんだよな。岐阜の斉藤道三も、一般的には「まむし」とか言われてあまり良いイメージはないけど、岐阜では道三めんなんてブランドもあったりしてそれなりに人気がある。初めて岐阜に来た時、この看板を見て私は、「うぇっ、不味そうっ!」と思ったのだが・・・マムシとリンクしたもんな、イメージが。
 井伊直弼、吉良上野介などもこのパターン。

 でも、佐々成政は進駐軍のくせにけっこう人気もあるし、でもそうするとさらに不思議なのは、その佐々成政と犬猿の仲で結局腹を切らせてしまう豊臣秀吉が、不人気というわけではないのである。
 ・・・有名人が来たら、誰でも良いのかな?

 私は滋賀県の大津市だが、西の比叡山の麓であった。明智光秀が最後にいた坂本という土地である。
 ここでは、小学校で「織田信長は鬼畜」と習った。鬼武者というゲームがあるが、まさにあんなイメージだった。当然秀吉だってよく言われているわけがない。
 だいたい地元の山を「探検」と称してほっつき歩いていると、通りすがりのじいちゃんから「比叡山焼き打ちの時、勝家はこの道を鬼のような顔をして登っていったのじゃ」みたいな、"見たんかい!"と今ならツッコむようなご教示をいただいたものであった。
 坂本を始めとする西琵琶湖では、「信長は鬼畜、光秀は正義の志」だと思って育ったのだった。

 ところがである。琵琶湖の東、近江八幡や安土といった地域で小学校時代を過ごしたガキ達は、我々とは逆に「信長は固定観念にとらわれない天才、光秀は大恩ある主君に弓を引いた罰当たり」と教えられて育ってくるわけである。
 彼らは高校になってようやく一緒になるわけで、その時に「歴史というのは偏った見方が普通である」ということを学んだというわけである。結局どちらかの立場からしか物事を見れてないのである。

 そういう感覚から見ると、富山で佐々成政と秀吉が同列に扱われているのは不思議だった。
 でも、要するにそれは、進駐軍が来てもその進駐軍が追い払われても、ここの土地の人達の生活には何ら関係がなかったからなのだろう。近畿地方だと、比叡山の坊主はもちろん信長が勝つか光秀が勝つかは死活が分かれるところだったろうし、その頃はもう近世の経済が成立して商人も多かったわけで、勝ち馬に乗れるかどうかで浮沈がかかる人が多かったのだろう。その点、富山は当時ではまだ殿様同士で勝手になにやらやってる、みたいな雰囲気があったのかな。

 「日本の三大都市から等距離」発言もそうだが、まあよくも悪くも田舎者、という感じはしたな。
 最近では新幹線の話なんかでもそう思うけど。ないところって、どうしても欲しくなるのかね。みんな新幹線が通ったらこれだけ都会から人が来てくれる、という皮算用をするけど、人が流出するという計算はあまりしないのね。
 それにこの人口の都市にこれだけ金をかける価値があるのかという議論もあまりせずに、「とにかく欲しい」が先に来るのね。飛行機便と食い合って共倒れにならないといいね・・・富山−福岡便はもうなくなってしまったし。新幹線できたら東京便もなくなったりして。

 

 それはともかくとして、大津の実家のすぐ近くに西教寺という大きな寺があって、そこには明智光秀の墓がある。
 ガキの頃は西教寺の中は遊び場だった。隠れん坊をする時は、エリアを限定しないと広すぎて探せないくらい広い寺だったので遊び甲斐があった。
 西教寺は今でも正月帰省した時は除夜の鐘を突きに行くが、何人坊さんがいるのかと思うほど大勢の坊主がいる。その中に、当時既に腰が直角に曲がったヨーダのような坊さんがいたのである。数年後にスター・ウォーズの「帝国の逆襲」でヨーダが初登場した時、その西教寺の坊さんを思い出したのは言うまでもない。
 が、当時は我々ガキどもの間ではただの「妖怪」であった。「妖怪じじい」と呼ばれて恐れられていたのであった。別に妖怪じじいは我々に何の悪意も持っていなかったに違いないと今は思うのだが、なんせ寺の境内で遊んでいて妖怪じじいが出現すると蜘蛛の子を蹴散らすように逃げる、というのがもはや遊びの一部になっていた。

 が、ある時、仲間の1人が妖怪じじいに捕まったのである。えらいこっちゃ、大事件である。
 我々ガキどもは、妖怪じじいに捕まって拷問を受けている仲間を遠巻きに見守るしかできなかったのだ。近寄る勇気があるやつはいなかったな。

 で、その捕まった仲間はどんな拷問を受けていたのかというと・・・
 「鬼に魂を売り渡した信長を討ち果たした光秀は、哀れにも小憎らしい猿めに追いつめられてそこの竹藪まで逃げてきたところを土民に討たれて無念の死を遂げたのじゃ・・・」みたいな話を延々と聞かされたらしい。だいたい年寄りの話って「見たんか?」って突っ込みたくなるものなのだが・・・

 今から思えば、その妖怪じじいは子供達と仲良くなりたかっただけなのだったと思う。友達になりたかったんだよね。
 しかし、その仲間がようやく解放され、一目散に我々の元に逃げ帰ってきて放った第一声はこうであった。

「あ・・・あのじじい、戦国時代から生きとる」

 これでそのじいさん、それからガキどもによけい恐れられるようになってしまったのだった。
 ま、今となってはちょっとは悪いことしたと思ってるんだけどさ。もういくらなんでもこの世の人ではないだろうし(まだ生きてたらそれこそ妖怪・・というような歳だったぞ)。

 大津の比叡山って、子供心には物の怪が大勢いても不思議ではないような雰囲気がしたものである。富山の山は物の怪でも生きてはいられまいと思うほど厳しすぎるんだよな。ここに妖怪がいると言われたら、まず「どうやって越冬しているんだろう?」という疑問が先に湧いてしまいそうなのは、私がひねた大人になってしまったからなのだろうか。
 よく考えれば、自然林ってあまりそういう邪悪なものがいそうな気配には乏しい。そういう雰囲気って杉林とかちょっと人工的な林の方があるよなぁ。京都北山なんて確かに1人で歩くとちょっと怖かったりする。京都なんて考えてみれば怨霊には不自由しない土地だし。

 

 さて、富山にはもう16年もいて、1カ所に住んだ長さとしては一番長くなってしまった。よく考えれば2人の息子は「富山生まれ」なのである。こいつらはこの土地を自分が住む土地として何の疑問もなく受け入れることができるんだろうな。変な感じである。

 私は結果的にここに永住することになるかもしれないが、でもここに骨を埋める気も別にないし、富山が自分の土地だという気もあまりしてないんである。

 昔、富山に来て最初の頃、あちこちで「旅の人」と言われた。しばらく意味が判らなかったのだが、要するに「今は富山に住んでいても、どうせすぐよその土地に行っていなくなってしまう人」という意味らしい。
 私の場合、カミさんも富山の人ではなかったわけだし、家を建てることになってようやく「あれ?あんた富山にいるつもりなの?」と言われた。家建てたからといって永住すると決めつけてもらっても困るんだけど。
 どちらにしても、「旅の人」という呼ばれ方は、あまり好きにはなれないな。失礼な言い方だとも思うし。
 今でも若い県外出身者が「旅の人」と言われているのを耳にする。そんなことやってるから県外出身者の定着率が低いんだよ。

 

 そういや富山に来ていくつか判らない方言があった。

 「つかえん」は「使えない」ではなく「差し支えない」の省略形だと思う。要するに「差し支えない」の意味。普通は逆に取るよな。
 ちょっと古くなった道具等を出して、「これ、まだ使えるかなぁ」と聞いた時、「おお、つかえんちゃ」と返されたら、普通は捨てるよな。逆なんである。

 しかしなんといっても最も難解だったのは、「あんまとおっさん」である。
 先に種明かしをすれば、「あんま」は長男のことで「おっさん」は次男以下のことである。次男以下は十把一絡げなのだ。富山でも地方によって微妙なバリエーションがあり、おっさんは「おじや」などといいう言い方もあるらしい。

 つまり、田舎の人は長男は家に帰って親の面倒を見るという方程式があるため、県外でふらふらとしているような「旅の人」は次男以下だろう、と思うものらしい。
 なので

 「あんた、おっさんけ?」

 「いえ、まだ26です」

 というとんちんかんな会話をしていたわけである。3年くらい判らなかった。

 

 

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