深田百名山と岩崎百名山

 つくづく日本人って「カタログ化」が好きな国民だと思う。
 百名山以前にも「日本八景」とか百景とか、つまりキリのいい数字で物事をリスト化する、という行為が日本人は大好きである。日本に住んでいるとそれはごく自然なことに思えてしまうが、でも「イタリア百名山」とかがあるという話は聞いていないし、ましてそうやってリスト化された山に登山者が集中するという話も聞かないので、これは日本人に独特の性向なのだろう。
 オリジナルの日本百名山という書物は、別に山のカタログでもリストでも何でもなく、純粋な文学作品だったわけだが(私も言葉の綾ではなく本当に擦り切れるほど読んだので、合計3冊買った)、深田氏の意図しないところで日本人のツボを直撃した結果がこの現状、というわけなんだろうな。

 新たに岩崎元郎氏が「新日本百名山」というのをリスト化した。
 まあ詳しいリストに興味がある方はこちらから見ていただくとして、一言で言うと深田百名山の半分近くの山を入れ替えている。
 選定のコンセプトは、おおまかに言って「各都道府県から最低1山ずつ」、「中高年にも安全に登れる山」、「下山後の温泉なども視野に入れて」ということらしい。
 そんなわけで百名山が集中していた日本アルプスから五龍岳、鹿島槍ヶ岳、薬師岳、黒部五郎岳、水晶岳、鷲羽岳、常念岳、笠ヶ岳、北岳、間ノ岳、悪沢岳、聖岳、光岳などがどっと落とされ、代わりに岐阜大日岳、武奈が岳、愛宕山、三瓶山などが加わっている。

 元々百名山ハンターではないし好きな山が深田百名山に入っていようがいまいが落とされようが残ろうがどっちでも良いので、リストの是非についてあれこれ言うことには興味がない。
 ただ、リストを見ているとなんとなく選定のコンセプトが見えてくることは確かである。

 まず一般的に「ハードな山」が落とされている。北海道のトムラウシ、飯豊山、水晶岳、鷲羽岳、空木岳や南アルプス南部の山々などがこれにあたる。中高年向きのリストということで宜なるかな、という感じが。
 北岳と間ノ岳を落としておきながら農鳥岳を新たに入れているのが一見不可解だが、これは「縦走をもっと楽しんで欲しい」というコンセプトなのだそうだ。なるほど、農鳥岳はそれ単独で登るのは難しく、たいてい白峰三山縦走で登るピークだからなぁ。小賢しい浅知恵という気がしないでもないが。

 後立山連峰で白馬岳は不動というのは良いとして、五龍岳と鹿島槍ヶ岳を落として唐松岳を入れている。明らかにリスト落ちした2山より体力的技術的にハードルが低い山である。
 「縦走を楽しもう」というコンセプトで深田百名山を登るとすると、この2つの山を同時に登るためには八峰キレットを通過しなければならない。また白馬も、となれば不帰の瞼も加わってしまう。だから唐松岳だけなのか。でも、白馬もリストに入っているし、この2つを同時に、ということになるとやはり不帰の瞼は通過しなけりゃならないのだが・・・
 ま、そんなこと言ってたら北アなんてどこにも行けないのであるが。

 ちなみに一般ルートとしてはおそらく日本でも屈指の難コースである剱岳がリスト落ちしていないのは(いくらなんでもこの山を落とすわけにもいかないだろうけど)、「中高年にも挑戦する気持ちを持って欲しい」ということだからだそうで、してみると剱岳は岩崎百名山の最終目標、というわけか。

 リスト全体を見ると岐阜の大日岳とか武奈が岳など、良い山がいくつか新たにリスト入りしている。してみるとそれぞれの山の地元の人にとってはそれほど奇異なリストには見えないのかもしれない。
 それでも日本アルプスに注目してリスト落ちした山、リスト入りした山を見てみると、かなり奇異な感じが否めないのだが・・・

 早い話、かなり「恣意的なモノ」を感じるのである。
 むろんこれは岩崎氏本人の商売も絡んでいる話(岩崎氏と登ろうツアーなるもの)なので、純粋に個人の好き嫌いで選んだ深田百名山と毛色が違うのは当然の話なのだが、その商売を抜きにして考えても、「中高年にはハードな山を避けて」という意図は見え見えである。
 これ、中高年の人は(私ももうじきそう区分される歳になってしまうが)バカにされていると感じないのだろうか???

 こんなミエミエの誘導に乗ってしまう人っているんだろうか・・・と思ったのだが、よく考えてみれば深田百名山のブームこそが「誘導に乗る」実績そのものであった。まあ今回もある程度「岩崎百名山ハンター」なる人達が出現してしまうのであろうか。
 それでもまあ、深田百名山よりメジャーになることはないだろうけど。メジャーになってくれて北アの水晶岳とか黒部五郎岳や薬師岳がもう少し静かになってくれれば個人的には嬉しいのだけど、そこまでの期待はできまい・・・

 根本的な話をすれば、そもそも「百名山ブーム」が好きではないのは、一言で言えば「登る山くらい自分で決めれんのかい」ということだったりする。
 まあ私が大学山岳部出身で、いわゆるアルピニズムというものがまだ残っていた空気の中で登山を覚えたことも多分にあるのだろうけど、その価値観とは真っ向から食い違う。もう私の時代は既に日本国内で未踏ルートなどほとんど残っていなかったが、それでも初登攀こそ価値があり、困難な登山にこそ価値がある、という価値観が色濃く残っていた。「冬山合宿を八ヶ岳でやるくらいなら山岳部なんて解散すべきだ」なんてマジに言う人がたくさんいたのである。
 そういうのも嫌いだった。なんで他人に自分の登山の価値を決められなければならないのだ?

 まあなんだかんだ言ってミーハーなくせに捻くれ者なので、単に「人と同じことをするのが嫌」というのがアルピニズムも百名山ブームも嫌な最大の理由かもしれない。
 でも、かつてのアルピニズムから金とヒマさえあれば誰にでも達成できる百名山ハントに主流が移ってきたことは、なんとなく世相を反映しているようで寂しくなるのだが、それが岩崎百名山になるとハードな山が落ちて各都道府県満遍なく、という「金とヒマさえあれば」によりいっそう拍車がかかっているようで、こんなものが主流になったらもっと侘びしいだろうな、とは思う。

 そもそも例えば剱岳に登ったら、うようよしているクライマーを見て「いつか源治郎からも登ってみたい」とか「剱岳の初登頂ルートである長治郎雪渓から登ってみたい」とか思わないのでしょうか?
 薬師岳に登ったら、黒部川の対岸に赤い顔して寝そべっている赤牛岳を見て、「この山にも行ってみたい」とか思わないのでしょうか?
 水晶岳に登ったら、遙か足下にポツンと草原や池が見えて小さな赤い屋根の小屋が建っているのを見て、「あそこに行ってみたい」とは思わないのでしょうか?
 槍ヶ岳に登ったら、北鎌尾根からヘルメット被ったクライマーが登ってきたのを見て、「いつかは自分もここから・・・」と思いませんか?
 光岳に登ったら、一応「南アルプス」はここで終わりのはずなのに、まだ南の方角に見渡す限りの山並みが続いているのを見て、「あそこには何があるんだ」って思うでしょ?思わない?
 白馬岳に登って、遙か北の日本海まで続く道があるって知ったら、「歩いてみてぇ〜っ!」って衝動に駆られませんか。
 百名山を登ったら、全ての山でいちいちそういうのがあるはずだと思うよ。で、そこでそう思ってしまったら百名山なんて登っているヒマはないはずなんである。そんなに人生長くないぞ。

 そういう誘惑を感じないのか、はたまた感じてもそれを振り切って次の百名山ハントに出かけてしまうのか、そのあたりが反感を持っているわけでもないのだがどうにも私には理解できないところである。

 そういう山への欲求というものが皮相的になれば、どうしたってその山に対する地理的知識その他諸々だって皮相的になってしまうだろう。
 白馬の大雪渓を通過する機会が1/100に過ぎないならば(しかも下降することはなかったりして)、雪渓歩きの技術拾得に対する姿勢も皮相的になってしまうだろうし、岩稜歩きだって同じことである。100名山の中で本格的に岩稜歩きの技術が必要な山って剱と穂高くらいなものではないか。
 で、結局それが行き着いた先が何も下調べせずに普段の装備だけ持っていけば登れてしまうガイド付きのツアー登山であったり、その結果のひとつが中高年事故の多発ではないのかな?
 だとすれば、単にリストを変更してハードな山を落とした岩崎百名山が、その根本的な解決になるわけではなかろう。登った山の数でしか自分の登山を語れない登山者に新たな目標を与えるだけのような気がする。

 最後にどーでもいいことだが、深田百名山でも岩崎百名山でも無視され続けている鈴鹿と比叡山が不憫な今日この頃である。

 

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