同 窓 会

 今年(平成17年)の正月、高校のクラスの同窓会があった。
 卒業して数年のうちには1〜2回あったような記憶もあるのだが、少なくとも15年振りくらいである。
 そんな久しぶりの同窓会だというのに、42人のクラス中、実に27人もの出席者がいたのであった。特に女子は17人中12人である。
 ・・・ま、当時から普段は勉強もせず遊んでばかりのくせに、こういうことになると異様にまとまりが良いクラスだったが。

 この3年5組は、当時何十年振りかに成立した、珍しい「理系の生物化学」クラスだった。
 当時のカリキュラムでは、理科は生物・地学・化学・物理のそれぞれTを1〜2年生の間に履修し、3年生になると理系文系にクラスが分かれ、文系は理科のUを1科目、理系は2科目履修していた。なので「1組は文系の地学クラス」というような具合だったのである。
 が、理系は理科2科目といっても事実上、物理化学クラスしか成立していなかった。
 私は2年生の時には既に獣医科に行きたいと思っていて、しかも物理は定期試験で30点以上取ったことがないくらいズタボロの成績だったので、是非とも生物化学を取りたいと願っていたのだが、先生からは「人数を集めれば可能だが、ここ何十年もできたことないし無理じゃない?」なんて言われていたのだった。

 が、同じように「理系だけど物理はいらん」というやつは何人かいて、誰だったかもうあまり記憶にないのだが(確か今回は欠席したS木氏が一枚噛んでいたような)、いろいろ画策した挙げ句、ひょんなことから当時2年10組にいて学年で一番可愛いと男共の間で定評があったY川さんを生物化学に1票投じさせることに成功したのだった。
 で、「Y川さんが生物化学を取りたいらしい」という噂を流したら、学年を1周して返ってきた頃には、「この学年の可愛い子はみんな生物化学を取るらしい」という噂に尾鰭が付いていた。
 ・・・というわけであっという間に男が25人、集まった・・・

 ま、この同窓会で歴史上希だった生物化学クラス成立の過程については、いろいろ話し出すやつもいて、この話だけでなくいろんな人のいろんな思惑や画策が交差していただろう事は間違いがないのだが・・・

 3年になって間もなくの頃、この同窓会にも来ていたM田氏が「こんなはずじゃなかった〜」と歯がみしていたのを憶えているのだが、それはつまり「この学年の可愛い子はみんな」という部分を真に受けていたのだろうと・・・失礼なやっちゃな。

 まあそういう不純な動機で生物化学を選択したやつが多かったのは事実で、その証拠にこのクラスは理系クラスのクセして「隠れ文系」が非常に多かった。というか男は数人を除いて全員隠れ文系だった。

 そういうクラスだったので「学業成績」は悪かった。定期試験でも共通一次でも、クラス平均点はいつも堂々の学年最低だった。
 進学でも、共通一次で400点代の成績なのに(当時は1000点満点だった)、「来年の下見や」なんて言いながら大阪大学に願書を出して足切りに遭い、その下見すらさせてもらえなかった世の中を舐めきったやつもいたりして、散々な状況だった。というか、男で現役で大学に入れたのは数人だった。ほぼ全員浪人。
 ただし、女子がほとんど全員現役で進学したので、クラス全体の進学率は学年トップで、一時は青ざめていた担任の先生を左遷させずに済んだ次第である。

 ん〜、11月になってからも放課後はみんなでバレーボールしていたもんなぁ。担任の先生がその横を「君ら、たまには勉強してくれよ〜」と言いながら情けなさそうな顔をして帰宅していったものである。

 今回の同窓会の会場となった料亭の社長に収まっているF島氏の家は、当時肉屋を営んでいたのだが、その店舗の2階は我々の溜まり場であった。何かあるとそこで朝まで飲んでいたのであった。
 確か共通一次の前日も「共通一次結団式」とかなんとかいってそこで飲み、二次試験の日が近づくと、遠方の大学を受けるやつは試験日の2日前くらいには旅立ち、近場の大学を受けるやつは前日、すぐ近くの大学の場合は当日行けば良いので、試験日(当時は国立大学は全て同日に二次試験が行われていた)の3日前くらいから連夜「二次試験壮行会」をやっていた。私も確か二次試験はF島氏の肉屋の二階から直接岐阜に旅立った。
 F島氏のお父さんは一度、「高校生のくせに酒なんか飲むんじゃねぇ〜!」と怒鳴り込んでこられたが、お母さんはとても理解があって、と言って良いのかどうか判らないが、トイレで便器を抱えて半死半生になっているやつを介抱し、夜中につまみがなくなったら1階の店舗から適当にウインナーなんぞを持ち出すことを黙認してくれ、朝は登校時間になってもピクリとも動かない学生共を箒で叩き起こしてくれたのであった。ほんとにお世話になったのである。

 同窓会では、なんせ15年振りに会うやつらばかりなので、「あんた誰?」と思わず聞いてしまうやつもいたが、ほとんどのやつは顔を見合わせて思わず笑ってしまうくらい変わっていなかった。
 男はともかく、女の子達があまり変わっていないのはちと驚いた。高校生の頃、綺麗だった子はちゃんと今でも綺麗だったし、あまりそうでもなかった子も(失礼なやっちゃな)ちゃんと綺麗になっていたし。
 驚いたのは担任の先生がまったく変わっていなかったことか。老けてないんである。あの1年は相当神経をすり減らしたはずだが・・・さては我々が卒業してから肩の荷が下りて若返ったか。

 その宴席のさなか、幹事がビデオを放映しだした。
 そのビデオとは、学園祭で教室発表に放映したものと、体育祭の集団演技(マスゲーム)のビデオだった。これがまたウケた。

 当時の学園祭は、1〜3年の各クラスが「ブロック」というものに分かれて競う形式だった。
 つまり、1年5組、2年5組、3年5組が一緒になって「5ブロック」というものを作るわけである。各学年10クラスあったので、ブロックは1から10の10ブロックできるわけである。
 で、文化祭が2日、1日おいて体育祭があったわけだが、それぞれのブロックで「教室発表」と「ステージ発表」、そして「集団演技」に分担してそれぞれ企画を練るわけである。
 1年生の時はまだ学園生活そのものが新鮮だし先輩も怖いので(なんせ中学を卒業したてのおぼこい1年生から見たら、3年生は怖いオッサンもいいところだった)マメに参加し、2年生の頃は中だるみであまりこういう集団には積極的に参加せず、3年生になったら「これが最後」という想いで燃えに燃える、というのがパターンだった。
 なので滋賀県では文句なしダントツの進学校だったのだが、3年生の夏休みに勉強なんかしているやつはほとんどいなかったのであった。

 我が5ブロックは、特に集団演技班が燃えていて夏休みは毎日練習していた。私はステージ発表班だったのだが、それなりに熱心にやっていたのだが結果が思わしくなかったので今ではあまり記憶になかったりする。(都合の悪いことは忘れることにしているので・・・)
 山岳部の山本と横山がいた10ブロックでは、教室発表班が特に燃えていて、なんでも「特撮映画を作っているらしい」という噂は我々にも聞こえていた。その映画の撮影のため、夏休み中に敦賀まで出かけたらしい。

 余談だがこの特撮映画、面白かった。
 今みたいにどの家庭にもデジタルビデオカメラがあるという時代ではなかったので、撮影機材を準備することも大変だったし、ましてデジタル編集なんてできるわけもないので特撮といっても今から見ればちゃちな代物ではあった。
 海辺に立ってなにやら叫ぶと字幕が出てくるのとか。そのシーンを撮るためにわざわざ敦賀まで行ったらしい。なぜ琵琶湖じゃダメだったのだろう?
 傑作だったのは「人間自動販売機」のフィルムだった。
 なんのことはない、牛乳を飲むところとかパンを食べるところを撮影してそれを逆回しするだけのフィルムなのだが、「牛乳下さい」と100円玉を渡すと、受け取ったやつが口からグビグビと牛乳をビンの中に出し、その牛乳を受け取ったやつがまた美味そうにそれを飲む、という一連のシーンは、腹が痛くなるほど笑った。パンはもっとえげつなく、口をくちゃくちゃしていたら口の中からパンが出てくるんである。笑った笑った。

 他に面白かったのは、当時の膳所高の社会の先生には、思想的にたいへん偏っている方が複数おられた。それもちゃんと右に偏った先生と左に偏った先生の両方がおられたので、その両先生の対談を企画したブロックがあったのである。これは前評判も非常に高く、立ち見が出るほどの盛況だった。もちろん両先生、マジである。最後は掴み合いになったくらい非常に興味深い議論であった。

 教室発表に限らず、全ての出し物は審査を受ける。
 その審査員も各ブロックから選出されていて、私も審査員になっていたのだが、教室発表ではこの10ブロックに満点を入れた。

 で、問題の我が5ブロックの教室発表に出されたフィルムなのだが・・・
 H谷氏が上半身裸で縛られ、身体に砂糖をまぶされた上でアリをどっさりと盛られる、という趣味の悪〜いものだった。
 これを40歳目前にして公開されたH谷氏も気の毒といえば気の毒であるが・・・
 ちなみに我が5ブロックの教室発表は、10ブロック中8位だったのである。これでまだ下に2ブロックもあったんか??

 そのビデオが終わると体育祭の集団演技のビデオになった。
 これはむちゃくちゃ完成度が高く、私も文句なしの満点を付けたしほとんどの審査員が満点を入れて、ダントツの1位になったものである。
 今見ても「俺ら、すごいやん」と唸るほど見栄えが良い演技で(私は審査員席で見ていたのだが)、終わったときは拍手喝采であった。
 で、当然のことながら、ビデオを見終わった後は学園祭の話題で盛り上がったわけだ。

 ちなみにこの学園祭の我が5ブロックの成績は、文化祭のステージ発表と教室発表が共に8位、体育祭の競技点と集団演技が1位で、そして総合優勝を勝ち取ったのであった。ま、「文化」がまるでダメで「体育」が抜群、というのはいかにも5組らしい・・・と言われたもんだが。

 で、その日は「祝勝会」ということで、クラスに家が旅館を営んでいる女の子がいたので、その旅館でまず一次会をやったのだった。
 ブロックの祝勝会なので、当然1年生の女の子なんかも来ていたし高級旅館だったので、そこではあまりハメははずしていなかった。でも酒はしっかり飲んでいたと思うが。先生も何人かいたぞ。
 当時は飲酒に対してはそれほどうるさくなかったような。膳所駅前の王将でも普通に飲んでいたもんなぁ。もちろんさすがに制服姿でビールを注文するほど図々しくはなかったが、完全に常連だったので店の人も私達が高校生だと言うことはよ〜く承知していたわけである。でも、ビール頼むと出してくれたぞ。膳所駅前の王将の2階の座敷席は、よく宴会に使った。学校から予約の電話入れてたぞ。

 で、そこはそことして当然3年5組の男共は、そのまま二次会のF島氏の肉屋2階へ雪崩れ込んだわけである。
 そこではそれこそ全員が血反吐を吐くくらい飲んだ。朝まで飲んでいた。
 朝、登校時間になっても誰も死んだように横たわり、動かない。
 私はたまたま入り口近くに倒れていたのでF島氏のお母さんに叩き起こされて登校した。今にして思えば、絶対凄まじいまでに酒臭かったはずである。
 登校すると、男子のほぼ全員が肉屋の2階で飲んでいたわけだから当然のことなのだが、男子はほとんど欠席していた。私を入れて5人登校していたかどうか。女の子達が嫌〜な顔をして、「なんて臭いさせてんのよ」なんて言ってたので、相当酒臭かったらしい。そりゃそうだ。つい2〜3時間ほど前まで飲みさくっていたんである。

 そこへ朝のホームルームの時間が来て担任の先生が入ってきたのであるが・・・
 それはそれは情けなさそうな顔をして、開口一番「やっぱり・・・」と呟いたものだった。
 「学園祭での君らの団結は素晴らしかった。それを誉めたいと思っていたけど、今朝のこの状況を見たら僕には君たちを誉めることはできません」と情けない顔をして言われたのだった。
 私はその時、酒浸りのどよ〜んとした頭でぼんやりと「この先生、こういう情けな〜い顔がよく似合う人やなぁ」なんて無責任なことを思っていたのだが、そういう顔が板に付く人にしてしまったのは間違いなく我々であった、のだろうな、やっぱり。

 ちなみにその少し後で聞いた話によると、その時先生は私達を「誉める」どころではなかったのである。
 実は、件の一次会の時、確かに我々は飲酒していたのであるが、1年生の親から学校に対して、この飲酒についての苦情が来ていたそうなのである。
 ま、親にしてみれば「天下の膳所高」に子供をようやく入れたと思ったら、その息子(または娘)が酒を飲んで帰ってきた、というわけでショックが大きかったのだろうとは思うが、その親も普通は子供が3年生になる頃には飲酒くらいでは動じなくなるのが普通であるのだが・・・(ほ・ほんまか?)
 今じゃどうか知らないが、当時は外からは随一の進学校で真面目なガリ勉の集団、のように思われていたらしい膳所高だったが、入ってみると膳所高生は何が得意って聞かれて胸張って「遊ぶこと」と言えるくらいみんな遊んでいた。勉強は浪人してからすれば良い、高校生の間は遊ぶぞ!というムードだったし、そういうことを広言する先生もいたりした。
 授業も、そもそも先生が「受験」を想定した授業をする先生が少数派で、1年かけて中国史しかやらない世界史の先生がいたり、極右(あるいは極左)の思想に偏った授業しかやらない政治経済の先生もいたのは前述の通りである。
 生徒の方も授業で受験勉強をするつもりはさらさら無かったので、「あの先生の授業はおもろい」と聞くと、自分のクラスの授業をサボって聴講に出かけたりもしていた。もちろん自分の授業をサボられて(机とイスまで持って出るのでなかなかばれにくいが)怒る先生もいたが、逆に「俺の授業なんて聞かなくてもいいから、自分の聞きたい講義を聞きに行け」とけしかける先生もいたりした。

 そんなわけであの一次会では、ちゃんと我々の間では「一次会は1年生も来るから抑えよう」と打ち合わせまでしてあったのだが、それ以前の「飲酒した」時点でアウトだったわけであった・・・

 で、担任の先生としても父兄から苦情が来た以上、我々を叱らねばならなかったわけであるが、叱りたくても叱る相手がいなかったわけで・・・なんせ男子はほとんど欠席だったから。
 その挙げ句が「誉めたくても誉めることができない」というセリフになってしまったわけで、今から思えばさぞ複雑な葛藤があったのだろうと。

 ま、あれで叱られるのであれば、1年間の間に退学になっていただろうけど。

 という話で盛り上がったわけであるが、先生も、「君たちにはずいぶんごにょごにょさせられたけど、でも楽しかった」と言ってくださったのであった。
 そのごにょごにょの部分がちょっとだけ気になるが。

 その後場所を変えて二次会、さらに三次会と続き、午前11時半から飲み始めてたっぷりしっかり午後10時までぶっ続けで飲み続けていたのであった。先生も三次会の途中までしっかりつき合ってくれたのだった。

 F島氏宅2階で飲んでいた頃、毎回のように真っ先に潰れるため、決まって悪戯されてしまうやつがいた。酔いつぶれている彼はいつもすっぽんぽんにされ、チ○チ○の先から尻の穴まで、身体中耳なし法一状態に落書き(しかも油性のマジックで)されてしまっていたのだった。
 いつもF島氏のお母さんに、「あんたはまた落書きされて!」と呆れられながら朝、必死に落書きを消していたのだが(だからやつは毎回飲んだ翌朝は遅刻していた)、いつぞやは腕の後側にされた落書きを見落としてしまい、そのまま電車に乗ってしまうという悲劇をも味わっているそうである。ちなみに書かれた落書きとは・・・言わずとしれたオ○コマークであった。(関西では3文字なのだ)

 で、そのK川氏は、この日も三次会のさなか、寝てしまったのであった。
 すると誰とはいわんが、某氏がカラオケ屋の店員を呼び止めて「お姉さん、マジック貸して」と・・・
 で、K川氏は哀れ、額にマジックでデカデカと落書きされてしまったのであった。ただ、その落書きが例のあのマークではなかった、という点が「俺達も大人になったよなぁ」と実感したところなのであった・・・

 終わり近くになって彼も復活したのだが、我々は誰も落書きについて彼に教えることはしなかった。ただ交代で彼に「頑張れよ」とか「めげるなよ」なんて声をかけていたのだが・・・
 ところが、実は二次会から3年1組の同窓会と合流していたのだが、我々の掟を知らない1組のやつがK川氏に、「お前、なに落書きされとんねん」と指摘してしまったのだ!
 やつは「40ヅラ下げてこんな顔で電車に乗れるかぁ」としっかり消してしまった。残念。
 でも、これが例のあのマークなら、確かにそんなもん額に書かれたまま電車に乗ったら、それはもしかすると彼の社会生命を左右しかねないかもしれん、と思ったが、この落書きならけっこう良いかもよ、こういう配慮をするようになったあたりが、「俺達も大人になったよなぁ」と実感したところだったんだけどね・・・

 この同窓会、楽しかったのでまたやろう、ということになった。
 いつやる、という時期については「10年後くらい?」という案もあったのだが、今回ですら既に1名の物故者がいるくらいなので、10年も経てばまた脱落者が増えるかもしれん、ということで「5年後だな」ってことになった。
 幹事さん、お世話かけますがよろしくお願いします。

 

Back to up