山と動物たち

 私にとって山が好きということと動物好きということ、それから獣医師という仕事は、根っこが一緒だったりする。
 まだ1歳にもなっていない頃、奈良公園でシカに顔面を蹴り飛ばされたらしい。記憶はもちろんないのだが、その直前の写真が残っており、どうやら子鹿に喜んでハイハイで飛んでいったら親鹿が飛んできてカポーンと蹴り飛ばしたそうな。今でも右の頬に酔うと浮き出てくる傷跡はその時のものだそうだ。
 他にも子供の頃、犬に喜んで手を出してガブリとやられたことは記憶にあるだけでも一度や二度ではない。それなのにトラウマにもなんにもならずに動物好きは治らなかった。
 よく、「小さい頃に犬に咬まれたせいでトラウマで犬嫌いになってしまって」と言う人がいるが、私はそのセリフを聞く度に「どうせあんたはトラウマを持つほどの高度な精神構造をしていないんでしょ」と言われているような気がして少し傷つくのである。

 将来の職業として獣医師というものを意識したのは高校1年生の時だった。
 当時の私の高校は、変わった先生が多く、相対性理論しか話さない物理の先生や中国史しかやらない世界史の先生など、自分の好きなことしか授業でやらない先生が多かった。進学校のくせに「受験勉強は自分でやりな」というスタイルの先生ばかりだった。
 生物の先生もそういうタイプの人で、2時間ぶち抜きの実習枠を使って1年生の1学期からいきなり高度な実習をやりだした。一番最初にカエルの解剖シリーズが3〜4週間続いたのだが、最初こそいわゆる「腑分け」でいわゆる「解剖」だったのだが、次の週から高度な内容になった。
 「無頭ガエル」というのを作るのだ。読んで時のごとく、「頭がないカエル」である。どうやって頭をなくするのかというと、ハサミで頭をチョン切るのである。口を開かせてハサミを入れ、チョキンと・・・
 で、下顎をクリップで挟んでぶら下げ、太股のあたりを電気刺激すると、足がピョコタンと跳ねて電極を蹴り落とそうとする。どういうことかというと、「反射」には大脳は関与しないという「脊髄反射」の実験なのである。
 余談だが、カミさんが思いつきでいい加減なことをベラベラ喋る時、「脊髄反射でものを言うな」と怒るのは、つまり「頭で考えてから喋れ」ということなのである。
 その翌週は「神経筋標本」を作った。これはカエルの足を股関節から外して太股の皮をベロンと剥き、さらに太股の筋肉を除去すると骨に沿って座骨神経が露出する。この座骨神経を電極で刺激すると足がバタンバタンと暴れる。
 無頭ガエルくらいならまだしも、神経筋標本となると大学で生理学実習でやったことである。高校生のくせにけっこう高度な実習だった。少なくとも指導要領には載っていなかっただろうことは間違いない。
 この一連のカエル実習のエキセントリックなことは、「1人1匹」だったことだ。もちろん女の子も含めて、である。
 そのカエルも先生が用意するのではなく、「自分で捕まえてこい」ということだったので、私は1匹300円でカエルの捕獲を請け負い、けっこうな小遣いを得た。
 カエルはエーテルで麻酔して解剖するのだが、効きが甘く腹が全開でハラワタをまき散らしながら教室中を逃げまどうカエルがいたり、捕獲して実習までの間に情が移ってしまい、泣きながら解剖しているやつとかがいたりして、なかなか教室の中は阿鼻叫喚の巷であった。

 その実習が私にはやたら面白かったのである。
 今このご時世でカエルの解剖に目を輝かせていたりすると、「攻撃性の芽生えがある」とかなんとか解釈されてマークされてしまうのだろうか・・・
 それでまあ、いつのまにか獣医学科を受けていたりしたのであった。

 獣医科の学生の生活って、「動物のお医者さん」というマンガがあって最近テレビドラマ化されたりもしたが、まぁあんなものである。あのマンガ、私が現役の学生の頃に連載されていたが、かなりあちこちからこまめに取材して書かれていたようで、私の身の回りで起きた出来事に似たエピソードもいくつかあった。あまり生々しいことはさすがにマンガにはなっていないが。

 元々野生動物には興味があったのだが、入った研究室が臨床繁殖学講座とは名ばかりの、実体は「野生動物学講座」に近いものだったこともあり、期せずして野生動物に関わりを持つことになった。(入る前は講座の実態なんてよく判らないものだったりする)
 当時の助手の坪田先生が(現在は教授)北大でクマの研究で学位を取った人で、その坪田先生について卒論を書くことになったため、彼が岐阜大学に来て立ち上げたツキノワグマ研究グループに半ば強制的に入れられてしまった。まあ創設間もなく金もなく、あまりたいしたことはできていなかったのだが、私が卒業してから予算が付いてクマに発信器を付けて追跡したり、かなり面白いことになっていたらしい。私はクマもさることながら、入る山で見る沢や壁に目移りしてしまう、あまり熱心でないメンバーであった。

 当時のクマの調査は糞を持ち帰っての分析や円座(秋にクマが木の上で採食行動をする際に木の枝を折って尻の下に敷くために、樹上に"木の枝のイス"ができる)のカウント、定点での直接観察などが主だった。
 定期調査で山に入る時はいつでも「直接観察」を願うものだが、それが叶ったのは数回で、ほとんどの場合は1日中カモシカにつきまとわれるだけで終わったものだった。カモシカは好奇心が強く、一度見かけるとたいてい後をついてきて下手すると1日中つきまとわれた。なぜかカモシカがいるところにはクマはおらず、朝カモシカを見かけると「あ〜、今日もダメか」とガッカリしたものだった。

 一度だけ、ほぼ半日以上という長時間の直接観察に成功したことがあった。
 谷を挟んだ対岸の尾根の中腹にいたクマを見つけたもので、しかも支尾根を挟んで離れた場所に2頭同時に観察できるというラッキーな日だった。これは縄張りの範囲がかなり特定できるのでデータとしてはこの上ない。
 ちょうど春の新緑の頃で、下生えはまだきつくなく、観察には絶好の条件だった。
 クマはブナやミズナラの木の上に登り、新芽を無心に食べていた。太い枝の上にペタッと尻をつけて前足で枝をたぐり寄せて食べる姿は、これはかなり愛らしい。しばらく見ているとそのまま枝の上で仰向けになって器用に寝ていたりする。
 数時間するとその木は食べ尽くしたのか、木を降りてくるのだが、その降り方が愛らしい。両手両足で木の幹に抱きつき、そのままズリズリとずり落ちてくるのである。最後の1〜2mを焦って飛び降りようとして尻餅をついていたりする。これは可愛い。
 そんなわけで、「クマは怖い動物」という認識は、私にはない。
 「至近距離でクマに遭遇したらどうするべきか」とはよく議論されて、なかなかこれといった決定打がない話題だが、私は何度か至近距離でクマに遭遇したが、全て相手のクマの方が一目散に逃げてしまったので、その話題に答えを出すことはできない。雄雌を確認するゆとりすら与えてくれなかった・・・
 「死んだふり」などはちょっと想像するだにバカバカしいが、「斜面を下って逃げろ」というのは一見説得力がある。
 というのも、普通の犬や猫などの動物は、いわゆる解剖学的な「足の裏」を地面に着けて歩いているわけではない。彼らは足の指先で地面に立っているのである。カモシカなどに至っては足の爪先で地面に立っている。対してクマは踵を地面に着けているちょっと珍しい動物である。そのため急斜面の下りはどうしても苦手である。実際、急斜面を降りるクマを見たことがあるが、尻餅をついてズリズリとずり落ちるように斜面を降りていた。動作が子供っぽくてやけに可愛い。なので急斜面を下って逃げるのは有効だと・・・
 が、しかし忘れてやしませんか?人間だって踵を地面に着けて歩いている動物なのだ。解剖学的に「下りが苦手」な動物なのである。ましてや人間は二足歩行である。まだ四足歩行のクマの方がだいぶ有利である。
 ま、その前にそもそもまずほとんどの場合、クマの方が人間より先に逃げるだろうし、さらに逃げた人間を追いかけるなんてことはちょっと想像しにくいのだが・・・「逃げるものを追いかける本能」というのは狩猟動物のことであり、クマ(ツキノワグマのことでヒグマは違う)は狩猟動物ではない。

 私はまだカモシカの方がよほど怖いと思う。
 むろん、遭遇した時に相手の方が逃げる可能性が高い、というのはカモシカも同様であり、襲ってくる可能性はクマより圧倒的に低い。
 だが、やつらは角を持っているのである。しかも鋭いのを。

 富山に来てからカモシカの保護の仕事を最近までしていた。
 市街地に迷い出てきたカモシカや、どこかで怪我をして動けなくなっているカモシカが発見されると市町村を通じて教育委員会に連絡が入り(カモシカは特別天然記念物で重要文化財のため、教育委員会が主管なのだ)、必要があれば私が現地に行って治療なりをして山に帰す、という仕事である。
 とはいうものの、素人の市町村の職員にもすんなり捕まるほど弱っているカモシカは、もはや打つ手がないのであるが、問題は元気に飛び跳ねているやつで、これを捕獲することは極めて困難である。ネットなどではまず無理である。仮にネットに絡めることに成功したとしても、暴れまくるカモシカも抑えようとする人間も極めて危険である。
 よって吹き矢で麻酔を打つ、ということになるのだが、私はこの吹き矢が比較的上手かったため、「吹き矢の先生」と呼ばれてついに名前を覚えてくれなかった人もいた。
 ただこの吹き矢、射程はいいとこ10mで、そもそもそんな距離まで近づくのが不可能に近い。広い場所ではまず不可能である。人海戦術で追いつめても、輪になった誰かに突進して突破されるのがオチである。
 ちなみにそうやって追いつめようとする時、突進されたら絶対に踏み止まってはいけない、と指示しておく。つまり、突進されたら逃げろ、ということである。なんせカモシカは鋭い角を持っていて、突進する時は頭を下げてその角を突き出しながら走るのである。クマなら突進されて接触してからツメなり牙なりで勝負!というところだが、カモシカは突進して体当たりされた時点で身体に穴が空く。
 実際、他のカモシカとケンカして負けたと思われるカモシカを何度か診たが、あの分厚い毛皮を軽々とぶち破って足や腹に大穴が空いていた。
 立山の麓にカモシカ園というカモシカの飼育施設があって、そこのカモシカの診療もつい最近までしていたのだが、何度か注射したりして痛い目に遭ったカモシカは、私の顔を見るだけで前足で床をバンバン叩いて怒り狂うのだ。戦闘意欲満々である。

 ま、私個人的には「クマよりカモシカの方がよっぽど怖い」と思っているが、カモシカが突進してくるのは他に逃げ場がないところに追いつめてパニックになった時だけであり、他に逃げ場があるのにわざわざ人間の方に突進してくることはまずない。カモシカ園の人擦れしているカモシカはやったりするが。

 そんなわけで野生のカモシカを捕獲する時は、カモシカがパニックになる直前の距離で人の輪を止め、カモシカの前方にいる人に「踊って」もらい、カモシカがそちらに気を取られているうちに私が後方からそ〜っと近寄って吹き矢で麻酔を撃つ、という戦法が基本形だった。まあ成功率はあまり高くないのだが。

 カモシカは富山県の県獣であり、人々の関心は高い。春になると生まれたばかりの赤ん坊のカモシカがよく保護される。
 「親とはぐれてうごけなくなった」という通報が入るのだが、実は十中八九、親はすぐ近くにいるのである。人間が来たので出てこなかっただけだったりする。子供の方も人間に近寄られてパニックになって動けなかっただけだったりする。時間が経過するにつれ、元の場所に戻しても親と再会できる可能性が低くなっていくし、人間の臭いがついた子は親と会えても受け容れられなかったりするので、本来は「山で赤ん坊カモシカが1匹でうずくまっているのを発見しても接触しない」のが正解である。
 とはいうものの、保護する人は善意なのでちょっと困る。少なくとも無関心よりはまだずっと良いとは思う。苦慮した挙げ句、県から「赤ん坊を見つけても保護しないように」という広報を出したこともあった。

 また春先から初夏にかけては、年寄りの弱ったカモシカが保護されることも多い。たいてい足や腹に大穴が空いていて、他のカモシカとの闘争に負けたと思われる。
 カモシカの繁殖期は秋で、出産は春から初夏である。子カモシカは2歳くらいまで母親と一緒に暮らしているらしい。
 推測するに、一人前になって親から巣立ったカモシカが他のカモシカの縄張りに入って、そのカモシカと戦って縄張りを奪い、負けたカモシカが行くところがなくて人里に出てくるのではないだろうか。
 カモシカは基本的に単独で生活する動物で、縄張りは他のカモシカとは重ならない。(雄と雌は少しだけ重なっているらしい)
 そして縄張りの広さは生息数が増えても変わらない。つまりカモシカが増えると生息密度が高くなるのではなく、生息域が広がるらしい。
 そのことはカモシカの保護の仕事をしていて肌で感じた。
 腹に穴が空いたような重傷例はまず助からないが、足に穴が空いた程度の軽傷例なら、保護された人里近くの山で生きていけるだろう。すなわち、生息域が広がった、ということか。生きるためには他のカモシカがいないところを縄張りにする以外にないわけだから。

 そんなわけでカモシカの生息数は全国的に確かに増えており、従って人里近くで暮らすカモシカも増えている。
 ある市町村では完全な町中を縄張りにしているカモシカがいた。何度か捕獲の依頼を受けて行ったが、結局捕獲できなかった。その市町村では「保護」してほしいのではなく、「駆除」して欲しいと言うのだ。撃つ許可を出せと県庁にねじ込んだらしい。確かに岐阜県や静岡県など、一部の地域では害獣駆除でカモシカを撃っているが、特別天然記念物を撃つのはかなり敷居が高い。「被害額」も大きくなければ撃つ理由にならない。町の人の家庭菜園が荒らされるという程度では、では町で柵でも補助したらどうよ、となってしまう。
 なによりちょっと被害が出たらすぐ「駆除」というのは如何なものか、と思う。その一方で「豊かな自然と共存する町」なんてキャッチフレーズを打つのは違うだろう?
 「通学路にカモシカが出て、子供が怖がって学校に行かなくなったと苦情があった」なんて話も聞いたが、それでも田舎の子か?
 なにかとても淋しいのだった。


 

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