好きな山あれこれ−剣岳

 この山は私の中ではもう別格である。挫折も含めて自分の登山の全てがある山だから。まあ源治郎と八ツ峰の主脈とそれぞれのフェース群、それに三の窓周辺のチンネとか小窓の王といった岩場、とオーソドックスなところしか行っていないのだが。変わったところでは八ツ峰のマイナーピークに行ったくらいである。登攀と言うよりほとんどヤブこぎだった。
 岩場ではなんといってもチンネの左稜線が大好きだった。岩登りは下手な私にも技術的にもちょうど良かったし、何よりあの桁違いの高度感が好きだった。小窓の王南壁も高度感は凄かった。しかし人工登攀があまり好きではなかったので、リピートして行くことはなかった。(フリーは下手、人工は嫌い、では攀るところなんてないのだが)
 でも、剣の何が良いって、実はあの雪渓の登下降なのである。岩場へのアプローチが楽だし、それ以前にそのアプローチ自体が楽しいではないか。まあアプローチの楽さについては、8月に入って上の方が切れてくるとやたら厄介になったりしたものだが、それでも雪渓の登行は楽しかった。
 剣定着の際は真砂沢にBCを張り、毎日毎日長治郎雪渓を登って6峰フェースに行ったり、そのまま長治郎を登り切って三の窓に行ったりしていた。剣沢雪渓から長治郎雪渓に入ったあたりから見上げた光景がたまらなく好きだった。見上げれば白い雪渓が急傾斜でせり上がり、その彼方に6峰フェース群や長治郎の頭などの岩稜が黒光りし、さらにその向こうに抜けるような青空である。これで脳みそがとろけなかったら嘘である。

 剣岳のBCとしては剣沢の方がメジャーだが、我々も含めて大学山岳部はたいてい真砂沢に定着していた。というか、剣沢に定着している大学山岳部ってあまり聞いたことがない。剣沢テント村は「社会人のムラ」、真砂沢は「学生のムラ」だった。たまに社会人が真砂沢にテントを張るとすぐ判った。なぜなら、夜になると「うるさい!!」という怒鳴り声が聞こえたら、それは社会人なのである。
 体力があり余っている学生は、あまり夜が早くない。また、日程が長いのでそんなにセコセコと早寝しないのである。隣にテント張っている部とも仲良くなれば、夜に宴会だってやるのである。その日ハードな行程をこなしてきて疲れ切っているパーティーは、多少隣で騒いだって気にも留めず眠っている。
 まあ夜遅いと言っても10時まで起きている連中はさすがにいない。ほとんどのテントは9時過ぎには寝静まってしまうのだが、8時過ぎに騒いでいたと言って怒る学生は皆無だったので、その時間帯に怒鳴り声が聞こえたらそれはまず間違いなく社会人のテントだった。
 ただ、8月もお盆が近くなってくると真砂沢にもだんだん社会人が増えてきて、ずいぶん暮らしにくくなった。
 通過していくだけ、あるいはほんの数日滞在するだけの社会人とは違い、学生は何週間も真砂沢で生活しているので、なかなか夜8時には寝れないのよ。入山してしばらく経つと「身体が山に馴れる」状態になる。入山初日は室堂から50kg担いでくるのでむろんヘロヘロだし、2日目の雪上訓練で長次郎雪渓の上部に行っただけでもけっこうきつい。それが入山10日目ともなると身体が「山に馴れる」という状態になり、6峰フェースを2本やってきたくらいではまったく疲れを感じなくなってしまう。こんな状態で8時に寝ろというのは拷問である。
 まあむろん、よその大学と宴会でもしていた日には「すんませ〜ん」とか言いながらそそくさと退散するのだが、夜8時半に普通に小声で明日のルートの打ち合わせをしていても、時に怒鳴り声が飛んできた。なぜか真砂沢ではそういう問答無用でいきなり怒鳴るのは100%社会人だった。

 真砂沢テント村の住民であるパーティーは、下山の前の夜に大騒ぎするのが習わしだった。
 真砂沢小屋の横に雪崩避けの石垣があり、そこを「お立ち台」と呼んでいた。そのお立ち台を使う権利があるのは翌日下山のパーティーだけ、というのもムラの掟だった。
 夕方、食事の支度をしていると突然、「我々○×大学山岳部はぁ〜!本日をもって18日間の日程を終了しぃ〜!明日下山いたしま〜す!よってぇ〜!今夜は少々お騒がせすることになりますがぁ〜!ご容赦のほどよろしくお願いしま〜す!」という怒鳴り声がテント村に響けばそれが合図であった。ムラの全員、お立ち台の下に集まって下山パーティーを中心に大騒ぎするのであった。
 最初は、お立ち台の上で「自分はぁ〜!チンネのcクラックで〜!トップなのに墜落しましたぁ〜!すいませ〜ん!」などとやっているのだが、酩酊するに従って狂騒状態に拍車がかかり、結局脱ぐのがこれまた掟であった。まあ全員ではなく、たいてい1年生が脱がされていたのだけれども。中には全員フルチンで踊っていたパーティーもいたが。1回だけ女の子が「私も脱ぎま〜す!」と怒鳴って脱ぎ始めたことがあったが、その時は全部脱ぐ前にその大学のOBによってお立ち台の上から引きずり下ろされていた。
 何年か後、どこぞの女子大の山岳部が3人全員、すっぽんぽんになってお立ち台の上で踊り狂ったという噂を聞いたが、真偽のほどは定かではない。
 こういう夜にも社会人はいたはずだが、この「下山前夜祭」の時に社会人が怒って怒鳴り込んだ、という話は聞かない。まあ相手は50人とも100人ともつかない学生の集団である。怒鳴る度胸がある人もいないか。

 この「下山前夜祭」は8月に入るとほとんど毎日のように開催されたが、我々はたいてい一番遅くお盆過ぎまで真砂沢にいたので、その頃は学生より社会人の方が遙かに多く、従って前夜祭ができるような雰囲気では既になかった。だからいつも他人の前夜祭に参加してバカ騒ぎするだけで、自分たちが前夜祭をやることはついになかった。

 毎年7月末から8月半ば過ぎまで真砂沢に定着していたわけだが、その間学生だけのムラから社会人のムラに変容していく様を見ていた。
 まずテントが違う。学生は大所帯で入っているので、ダンロップの6人用などの大型テントが圧倒的に多かった。我々はいつも家型テントだったし、他にも大きな家型テントを持ち込むパーティーもいくつかあった。山岳用のドームテントは確かに軽量で耐候性も高いのだが、数週間の生活を過ごすには少し辛いものがある。今だったらモンベルのムーンライトの7型とか9型でベースキャンプを張れば、さぞ快適な生活を送れるだろうと思う。
 それが8月に入り、社会人が増えてくるとダンロップでも4人用とか2人用といった小型テントが増えてくる。なぜか当時の大学山岳部はダンロップが圧倒的だったので、エスパースやアライのライズシリーズのテントが増えてくるのも、社会人が増えてきた証だった。

 食糧事情もかなり異なり、学生の方が贅沢なものを食べていたような気がする。体力にものを言わせて食材を持ち込むから。ただし、見た目は決して良くない。洗い物を増やしたくないので、たいていのものは米に何かをぶっかける方式の食事で、2つも食器を使うような食事はあまりなかった。見た目も華やかで何かカタカナの料理名だな、というようなものを食べているのは例外なく社会人だった。
 大学山岳部は2週間雪渓に突っ込んで保存していたがやっぱり緑色に変色してしまった豚肉を、カレーで誤魔化しながら食べているような食事が多かった。カレーにしても「肉が腐っている」のはよく判った。別に腹もこわさなかったが。
 学生が贅沢なものを食べるのは、いわば「瞬間芸」である。
 我々は毎年スイカを1個丸ごと持って入山していた。入山時の荷物は50kgを軽く超えるので、それにスイカが1個追加されたところで辛さはたいして変わらなかった。1年目の時はスイカを担いでいたやつが入山時に剣沢の雪渓で転倒して割ってしまい、入山初日に剣沢雪渓のど真ん中でスイカパーティーを開くハメになってしまったが・・・我々のパーティーだけでは食べきれないので、道行くパーティーみんなにお裾分けして、ようやく割れたスイカを処理することができた。
 また、合宿中に出入りするOB達がパイナップル丸ごと5個とかブドウを両手一杯とか、そういうものを差し入れしてくれるので、新鮮な果物や肉には定期的にありつくことができた。
 他には油と中華鍋を持ち込んで天ぷらをやっているパーティーもいたりした。私がそれを見た1年目は真砂沢のテント場で天ぷらを揚げていたが、次の年は八ツ峰の6峰のピークでやっていた。スイカにしても天ぷらにしても、それは長い定着生活の間に1回きりなだし(さすがに何回もやるほどの食材は持ち込めない)、その1回の時はムラ中の羨望の視線を受けながら食べるのがまた気持ちよかった。だから「瞬間芸」である。
 まあ、そういうものを「贅沢な」と感じること自体が、ちょっと違うような気はする。定着を終えて縦走に出る時に3週間ぶりに室堂を通るのであるが、その時室堂ターミナルで食べたソバが死ぬほど美味かったことを考えれば、やはりロクなものは食っていなかったのだろう。

 定着中、必ず1日は「晴れの日停滞」がある。雨がちな年ならまだしも、天候が良い年であれば入山から下山までずっと晴れていることも珍しくなく、そんな時に3週間毎日行動していたら身が保たないので、停滞日を作るのである。どうせ予備日はたっぷり余っているし。
 真砂沢には晴れの日でもたいていそのように停滞を決め込むパーティーがいて、快晴の真っ昼間でも川を見てボケッとしているやつや、ホットケーキを一生懸命焼いているやつなんかがいた。これも社会人が多くなってくるとあまり見られない光景だった。
 晴れの日停滞はだいたい多くのパーティーが日程消化にメドが立った8月初旬に多かった。我々もその頃に停滞することが多かったのだが、たまたま7〜8パーティーが同じ日に停滞を決め込み、快晴だというのに30人くらいの人間がテント場に残っていたものだった。昼間から合同宴会が始まったのは言うまでもない。酒類はそれほど多く持ち込めないので、たいてい真砂沢の小屋で買っていた。

 日が経ち、8月も半ばになってくると社会人の割合が次第に増えて、ムラもそういうのどかな雰囲気ではなくなってきた。毎年入山したばかりの時は、「縦走なんてどうでも良いから全日程、真砂沢にいたい」と思うものだが、お盆も近くなるとなんだかムラの雰囲気がギスギスしてくるので、もういいやとばかりそそくさとキャンプをたたんで縦走に出発するのであった。
 この肩身の狭さ、7月に間違って真砂沢に迷い込んだ社会人パーティーも感じていたんだろうな。

 真砂沢ってよく考えてみればちょっと特殊な場所なのである。
 真砂沢より下には池ノ平以外にテント場はない。また、ルート的にも真砂沢より下は黒四ダムか阿曽原に抜けるしかルートはない。黒四ダムにしろ阿曽原にしろ、そういう一般ルートを歩く人で真砂沢にテントを張る人は滅多にいない。定着中に数パーティーというところだった。つまり、真砂沢にテントを張るパーティーの大部分が岩登りを目的としていて、しかも1日ではなく複数泊の定着キャンプを張るのである。こんなテント場、よく考えるとあまりない。剣沢は幕営して剣岳を一般ルートで往復し、その後縦走に行ってしまうパーティーも多いが、真砂沢にクライミングギアを持たないパーティーがテントを張ることは、ほんとに3週間の定着中数パーティーいただけだった。
 そんなわけで多い時では200人を越えるテント村の住人のそのほとんどが岩登りをしに来た大学生、という極めて特殊なムラだったわけである。居心地が良かったはずである。
 そこに彷徨いこんできた社会人はさぞ居心地が悪かっただろう。だからといって怒鳴り散らさないで欲しいが。

 剣岳の何が好きかって、山の大きさや姿もさることながら、真砂沢という居心地が良い場所(今行ったら悪いかもしれんが)があったこと、そしてあの大きな山の中に一般ルートが別山尾根と早月尾根の2本しかなく、あとの広大な山が全部クライマーの遊び場所だったこと、だろう。どこで遊んでも周囲の光景が豪快で大きく、しかも底抜けに明るくて楽しかった。

 ピークには拘らない私だが、剣岳の頂上はやはり大好きな場所の1つだ。合宿中に1〜2回だったが、源治郎尾根や長治郎雪渓を登って本峰に登ると、やっぱり頂上っていいなぁと思った。

 ちなみにうちのカミさんは、初めての山が山岳部のOBに連れられての剣である。合宿中のパーティーに合流して翌日、長治郎〜本峰〜平蔵谷の剣岳黄金ルート(私が勝手にそう呼んでいる)に連れていった。快晴の日に雪渓を登って剣岳本峰に登り、雪渓を下る。これ以上楽しいルートは日本には他にないのでは。
 カミさんの2回目の山は雲の平だった。7月初旬に私が連れて行ったのだが、雲の平はまだ山小屋が閉まっていて登山者も誰1人いなかった。この日も良い天気だった。人っ子1人いない雲の平で、山々を眺めながらウトウト昼寝するなんて贅沢な経験、いったい何人が持ってると思う??
 3回目は一般ルートからの剣。実は私も剣の一般ルートは初めてだった。それまでは本峰からカニの横バイを経て平蔵のコルまでの下りルートしか知らなかったのだ。
 それにしても剣の一般ルートにはビビッた。前剣の鎖場で「こ・・・これが一般ルートかぁ?」と驚き、カニの縦バイでは「これ、本峰南壁のA4やんか」と驚いていた。本峰南壁には右からA1〜A3の3本のルートがあるのだが、そのA3の隣にカニの縦バイがあるんだ。鎖がなかったら完全にVのルートだよなぁ・・・まあ正味1ピッチしかないから誰も攀らないだろうけど。
 カミさんを連れて一般ルートを登った時は小雨が降っていたのだが、それも頂上に着いた頃には少し良くなり、雲の合間から山々が顔を覗かせるダイナミックな光景を楽しめた。
 ・・・・そりゃカミさん、山をナメてしまうわけである。いい目にしか遭ってないもんなぁ。

 それにしても剣の一般ルートにはほんとに驚いた。ここを年間何千人も通って、事故が毎年数件というのは信じられない。
 連れていく立場からすれば鎖場はやはり気持ちが悪い。落ちてもどうしようもないではないか。夏の早い時期で雪渓が安定しているなら、長治郎でも登った方がよっぽど技術的には易しいと思う。傾斜はあるのでアイゼンは履かせるとして、もしなんだったらザイル出して確保した方が鎖場でハラハラしながら見ているよりなんぼか気が楽だ、と思う。
 あの2峰の懸垂下降さえなければ、源治郎尾根が一般ルートとして最も適しているんだろうなぁ・・・
 

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