黒部の鉄砲水

 薬師沢の小屋でバイトしていた7月初旬のある日の夕方のことである。
 その日は昼から雨が降っていたが、川は特に増水する気配もなく、水も濁ってはいなかった。7月初旬のシーズンオフだったのでお客はほとんどいず、のんびりと夕食の支度をしていた。
 私は厨房の窓際で確かキャベツの千切りを切ろうとしていた。小池さんと味噌汁の具は何にしよう、などと話している時、突然川の音が変わった。
 「ゴーッ」という音にふと窓から川を見たら、今まで少し茶色がかっていたものの透明を保っていた川の水が、急激に濁り始めた。濁ると同時に目に見えてぐんぐん水量が増え始めた。小池さんと2人して呆然と見ているうちに、あっという間に水量は「最大水量」に達してしまった。この間、1分も経っていない。
 小池さんも「こんな激しいのは10年以上小屋番をやっていて初めてだ」と言っていた。

 薬師沢小屋の窓から見た薬師沢。
 ほぼ平常水量だが、この写真は8月末に撮影したもので、7月よりは少ない。
 写真中央の岩は高さ約2m半ほど。
増水前の薬師沢
 増水時の薬師沢。
 最大水量の約90%といったところか?
 最大時には岩の頭を水が被る程度まで増えるが、この岩が見えなくなることはまずない。
 (数年後、一度だけあったそうだ)
増水後の薬師沢

 上の2枚の写真は、8月末に撮影したものだが、小屋の窓から見た薬師沢の平常水量と最大水量に近い増水時を比較したものである。
 その鉄砲水の時は7月だったので、平常水量自体は上の写真よりやや多かった。それが1分足らずの間に、下の写真より多い最大水量に達してしまった。見ていて鳥肌が立つ思いだった。
 小屋の前に出てみれば、黒部本流と薬師沢の合流点で茶色の薬師沢の濁流が未だ透明の本流の流れをせき止めているように、くっきりと色が分かれていた。その下は広い河原一杯に広がって濁流が流れていた。

 水位上昇は、この写真の位置で3mというところだろう。ここはそこそこ広い河原を持っているので、ここで3mということは、下部の廊下帯ではいったいどのくらいの水位上昇になるのだろう。立石付近の廊下帯で高巻き中に河床から7〜8m上でなぎ倒された草を見ることがある。つまり、ここまでは水が来るということだ。遙か下の河床を見ながら「ここまで1分で増えたら・・・」と考えると恐ろしい。廊下帯でなくても、極端な話薬師沢小屋のすぐ下の河原でも、1分の間に濁流が河原を埋め尽くして川幅一杯になったら、これは恐ろしい。逃げるヒマ、あるかな?
 つまり、早い話がもしこんな鉄砲水が起きた時に下流の沢筋にいたら、何をどうしたって助からん、ということなんだろうな。

 通常の増水では、平常水量から最大水量までにかかる時間は30分から1時間ほどである。30分だとかなり早く感じる。もしこの時に沢に入っていたら、30分の間に適切な判断をして安全地帯に待避できるだろうか。沢の中では増水時の安全地帯など存在しない場所も多いし、沢の水が濁り始めると途端に徒渉は極端に困難になる。安全地帯に待避するまでのルート選択の自由度が狭くなる、ということ。

 増水自体は7月だろうが8月だろうがいつでも起きたが、こんな鉄砲水は3シーズン薬師沢の小屋で働いていた間に2回しか見たことがない。その2回とも7月だった。まあ確かに7月は増水は多かった。雨が多かったから当然だが。
 7月は梅雨で雨が多く、沢の保水力に余裕がないため、急激な増水が起きやすいのだろうか。また、スノーブリッジの崩壊によって川がせき止められ、一種のダム崩壊のような状態にも7月の方が遙かに起きやすそうだ。

 なんにしても、7月に雨が降ったら沢には入らない方がいいなぁ、と思う。雨の日に沢に入らない方が良いのは7月に限った話ではないが、特に7月はリスクが高い、と思う。

 

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