満天の星空

 子供の頃、学校でガリレオ・ガリレイの話を習った。
 彼は望遠鏡の発明者で、自分が発明した望遠鏡を夜空に向け、木星に輪があることや火星に運河のような模様があることを発見したそうな。
 その彼の「発見」の中で、1つ納得できないことがあった。
 それは、「彼は天の川が星の集まりであることを発見した」ことである。

 「うっそでぇ〜」と思ったものである。
 天の川が星の集まりであることなんて、望遠鏡で見なくても一目瞭然ではないか。昔の人はそんなことも判らないくらいバカだったのか?と子供心に思ったものである。

 その長年の疑問が解けたのは、高校1年の時に太郎小屋にバイトで入った時だった。
 入山して2日目くらいだったか、夜に何気なく小屋の外に出てふと上を見て肝を潰した。ぼーっと光る白い帯がドドーンと頭上を横切っている。しばらく呆然と見ていて、ようやくそれが天の川だと言うことに気づいた。それは「星の集まり」などではなく、地平線から地平線に夜空をとんでもないスケールで横切る、ただの白い帯だった。一瞬で納得した。こりゃ星だとは判らんわ。
 天の川だけでなく、とにかく星の数がとんでもなく多いのである。普段見慣れている星座が判らない。北斗七星ってどれ?星の海に埋もれてしまって星座が判らないのである。(ちなみに死兆星も5つくらい見える)
 北極星も普段なら近くに明るい星がないおかげで一目で判るのだが、それがすぐには判らない。
 初めてこの星空を見た時は、「綺麗」などという感想ではなく、恐怖を感じた。マジでビビッた。
 その時は隣に同じバイトの高校生の女の子がいて、つまり「何気なく」というのは嘘でそれなりの目論見というものがあったわけなのだが、上を見た瞬間に隣の女の子の存在は頭から吹っ飛んでいた。
 今でも「今夜は見れる」という夜に星空を見る時は、「さあ見るぞ」という気合いが必要だったりする。見ていても「綺麗」という気持ちよりは畏怖の方が強い。

 周囲が暗いところではそれなりに星も多く見えるが、これだけ圧倒的な星空というのはやはり空気が澄んでいる高所でないと無理なのか、標高の低いところでこれだけの星空を見た経験はない。立山の雷鳥沢でも何泊もしているが、ここでの星空も圧倒的で怖い。真砂沢でも長く暮らしていたのだが、あまり夜空は記憶にない。谷筋で空が狭いからだろうか。これは高天原や薬師沢も同じである。
 薬師沢で「白い帯」の天の川は何度も見ているが、あれだけ空が狭いとあの圧倒的な平伏したくなる迫力は出ない。
 雷鳥沢は夕方、立山が真っ赤に染まる風景も素晴らしい。夕焼けといえば高天原の真っ赤に染まる水晶岳も捨てがたい。
 だが、「夕焼け」も現実とは思えないほどの迫力を持った風景という点では星空と同じなのだが、こちらはひたすら手放しで「綺麗〜」とうっとりして眺めることができるのに対し、夜空は歯を食いしばって恐怖に耐えながら見る、という感じである。
 この夕焼けもあれだけの圧倒的なスケールの山が染まるから魂を抜かれてしまうのであって、写真にするとただの「綺麗な写真」である。実際に見た記憶があればこそ、写真を見た瞬間にその時の空気の臭いまで脳裏に蘇って魂が抜けてしまうが、実際に見たことがなければ「綺麗な写真だね」で終わりなんだろうな。

 夜、雷鳥沢のテント場で地面に横になってボケ〜っと空を眺めていると、星というより天空全体がグリグリと回転するのが判る。星がゴチャゴチャしていてよく判らない北極星周辺も、ボケっと長時間眺めていると回転の軸が判る。ああ、これが北極星か、と思う。
 眺めていると、確かに「地球は自転している」と理屈ではなく感覚的に判る。
 大昔の人は地球が自転していることを知っていたのに、ある時期の人々はこんな見れば一目瞭然のことも信じようとしなかった。ああ、それが宗教というものなんだな、と思ったのは10数年前の青年の頃の私でした。

 今この夜空を息子達に見せたら、絶対ビビって泣き出すぞ、と思う。私なんか高校生だったがビビって泣きそうだったのである。
 今年立山に息子達を連れて行く一番の楽しみは、実はこれなんである。
 去年の10月は月が明るくていまいちだったが、今度はほぼバッチリのはずである。

 

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