♪や〜りの穂先で♪

 

 エッセイのコーナーに書くのは久しぶりである。しかも純粋な山ネタは、なんと5年ぶりなんである。
 いろいろ書くことを思いついても、前振りや導入部の書き方を上手く思いつけなくて、「ま、なんか良い出だしを思いついたら書くか」なんて構えているとそのまま本題まで忘れてしまったりして、このコーナーからキーボードが遠のいてしまった。

 

 

 みなさんは「アルプス一万尺」という歌をご存じか?
 ♪アルプス一万尺 小槍の上でアルペン踊りをさあ踊りましょ♪ という歌なのだが、この歌詞自体が何かの替え歌だと思う。小槍の上で、なんてローカルネタだもの。
 ご存じない方のために蛇足の解説をすると、小槍というのは北アルプスの槍ヶ岳の隣にある小ピークである。ここには登山道はないので、小槍にはクライミングをしないと登頂できない。
 従って、小槍の上でアルペン踊り(どんな踊りか知らんが)を踊っている人間がいれば、そいつはクライマーで小槍のいくつかあるルートを登攀して小槍に至ったわけであるな。何年か前のヤマケイだったかで、本当に小槍を登ってピーク上で踊る企画があったのを思い出す。
 で、この歌の要点は、小槍は一般登山道からよく見える、という点なのである。
 「うわぁ〜、すご〜い。あんなところ登ってはる〜」と一般登山者から賞賛の目で見られるのを計算に入れた、ちょっとばかり生臭い歌、なんだな〜。
 確かにクライマーという人種は、そういうところがあるな。私もそういうのは好きである。関西弁の女の子ならなお嬉しい。

 だからこの歌、小槍だからこそ成立する歌なのである。
 これが、♪アルプス一万尺 チンネの上でアルペン踊りをさあ踊りましょ♪ なんて歌が成立するか??
 チンネなんて視界の限り、クライマーしかいない。つまり何を踊ってもクライマーからしか見られないんだぞ。
 チンネのピークで踊っていても、横を通過するクライマーから「こいつら、気ぃ触れたんとちゃうか?」という冷たい視線を浴びるだけである。
 チンネのピークでパーティーの仲間に、「さあ、ここでアルペン踊りを踊ろう!」と誘っても、「1人でやっとれや」と置いて行かれるだけであろう。その先の懸垂下降のポイントではロープを回収されていたりして。

 このあたりはまだ前振りである。

 このアルプス一万尺の替え歌があるんである。ポピュラーな替え歌なのか、我々の山岳部あたりでしか歌われていなかったローカルな替え歌なのかは知らないが。
 その替え歌はこうだ。

♪や〜りの穂先で小キジを撃〜てば 小梨平に霧が舞う♪

 

 みなさん、この替え歌、知ってる??

 解説は不要だと思うのだが・・・一応してみる。

 槍の穂先というのは、言わずもながの北アルプスの槍ヶ岳の頂上のことである。
 小キジというのは、私は登山者には一般的な隠語だと思うのだが、それが私の勘違いだった時のために一応解説する。
 キジを撃つ、というのが排便の隠語だということは、みなさんご存じですよね?

 「おい!なに人のこと踏んでくれてんねん!何しとんねんな」
 「あ、ごめんごめん。ちょっとキジ撃ちに」

 ってな感じで使う言葉である。
 女性の場合は「お花摘み」という言葉もあるが、キジ撃ちほど一般的ではないような気がする。
 ちなみにキジ撃ちが排便を意味するのは、しゃがんでいる姿がキジ撃ち猟の姿に似ているからだ、という説があるが、キジ撃ち猟なんて見たこともしたこともない人間がほとんどであるので、なんだかピンとこない。
 しかしここで重要な点は、女性の場合は小用でもしゃがむ、ということである。つまり女性の場合は大小に拘わらず、用足しの場合はキジ撃ちまたはお花摘みと言うのである。

 やっぱりお花摘みはキジ撃ちほどポピュラーな言葉ではないのだろうか。
 とある女性は、いつだったか沢登り中の休憩の時に、「わし、ちょっとキジ撃ってきます」と茂みの中に消えていったし。

 前振りがどんどん横道に逸れていくのだが、そういうわけで女性はキジ撃ちという言葉ひとつで足りるわけだが、男はそういうわけにはいかんだろう。
 だから男の場合は、小用の場合は小キジ、というのである。やっと小キジまでたどり着いた・・
 余談だが、おならのことは空キジという。みんな知ってるよね?

 さらに蛇足だろうが、小梨平とはご存じ、上高地のキャンプ場があるところである。これで替え歌の意味、通じたよね?

 前振りが長かったが、要するに今回は小キジの話なのである。あのタイトルと出だしからこの展開は読めまい。

 

クライミング編

 

 小キジがなぜネタになるのか??
 それはハーネスを着けていると小キジ撃ちが極めて不便だからである。今のレッグループ式のハーネスに前立て付きのまともなパンツの組み合わせであれば、まあそれほど苦労せずに小キジが撃てるかもしれないが、当時はシットハーネスといって股間をハーネスのテープが通るタイプのものであった。トロール社のシットハーネスがほぼ100%のシェアを占めていたなぁ。私はへそ曲がりなので敢えて当時出たばかりのゼロポイント(モンベルのクライミングブランド)のシットハーネスを使っていたが。
 これだと腰回りの正面にハーネスのテープがその存在を主張しているので、チ○チ○を非常に出しにくい。
 さらに当時は、パンツにジャージを履いていた。登山用なんかじゃない体操服のジャージパンツである。当然のことながら、前立てなんてない。前立てのないジャージにシットハーネスの組み合わせは、これはハーネス装着状態のままチ○チ○を出すのはほとんど不可能である。
 ハーネスを脱ぐか緩めればまだなんとかなるのだが、壁の中でハーネスを外すことはできないし、緩めることもちと無理である。

 チンネの中央チムニーを登攀していた時のことだが、そもそも三の窓で準備しているときから小キジを撃ちたかった。ハーネスを外してまっとうに小キジを撃つのはこれが最後のチャンスだったのだが、なんとなくいそいそと壁に向かう相棒を引き留める気が起きないまま、壁に取り付いてしまった。
 中央チムニーって何ピッチで中央バンドに出るんだっけ?もう昔のことなのでよく覚えていないのだが、何ピッチ目かのビレイポイントでどうにも我慢できなくなった。
 そのピッチは私がリードしていたので、下では相棒がコールがかかるのを待っているのだが、これはもはや我慢できん、一刻の猶予もならん!
 まずは何とかして小キジを撃ってから相棒をコールしよう。
 破裂しそうになる膀胱の張りに耐えつつ、高まる内圧の唯一の逃げ場である我が愚息の括約筋をひたすら励ましながら(解剖学的には括約筋は息子の付け根にあるのだが、心情的には「息子よ!もう少し耐えてくれ!!」って感じ?)、ハーネスのベルトの下からジャージを引きずり出し、なんとかジャージとパンツをずり下げて、思い切り邪魔なテープを何とか避けてようやく息子を引きずり出した。
 もうそんな余裕もないのだが、一応下にいる相棒にかからないだろうな、と確認しながら、いざ解放!!!

 あ〜、ハーネスのテープで尿路が圧迫されて思うように出てこない。いかん、これ以上はダメだ・・・とテープを手でぐいっと横に引くと・・・

 いや〜出るわ出るわ。なんて勢いだ。まるで消防の放水車のような勢いで空中に飛び出ていく。

 ところで、この日はえらく風が強かったのだ。
 勢いよく空中に放出された我が小水は、1mほど飛んだところでほとんど直角に右に向きを変え、そのまま風に乗ってどこまでも飛んでいく・・・そしてその先は・・・
 放尿の快感に身を委ねながら、どこまでも我が小水の行く先を追いかけると。

 隣に北条・新村ルートというルートがあるのだ。そのビレイポイントからトップが数m登って最初のランニングビレイをクリップしたところだった。
 ふと、そのトップが動きを止め、上を見上げて手をかざす仕草をした。そして下を向いてパートナーに何やら声をかけている。テラスでビレイしているパートナーも首をかしげながら手をかざしている・・・

 うわぁぁぁぁぁ

 こちらが風上なので声は聞こえないのだが、きっと、

 「おい、雨が降ってきたか?」
 「まさか、雲ひとつないぞ」
 「でも、なんかパラついてるぞ」
 「あれ?確かにパラついてきてるな。狐の嫁入りかぁ?」

 みたいな会話が交わされているのが手に取るようだ。

 風で飛んでいく我が小水は、細かくなって霧雨状になっているのだが、その線上には間違いなくそのパーティーがいる。
 ちようど地形の関係でクライマーはこちらに背を向けているのだが、振り返って上を見れば、私が豪快に放尿しているのが見え、狐の嫁入りの正体が明らかになってしまうはずである。

 やっべぇぇぇぇぇ

 いつ振り返ってこちらを見られるか、やべぇぇぇぇぇぇ
 止めたい。でも止まらない。もう止まらない。止めたいけど止まらない。
 ならば早く終わってくれ!
 しかし溜まりに溜まった我が膀胱には、よほどの量の水が貯蔵されていたらしく、いっこうに終わる気配がない。
 気が気でない私の焦りとは関係なく、たっぷり2分は彼らの上に原因不明の霧雨を降らし続けたのであった。

 

沢登り編 その1

 

 ハーネスを着けていると小キジを撃ちにくい、という悩みは本来沢登りの時も変わらないはずである。
 でも、沢ではあんまり悩んだり焦ったりした記憶がないんだよな。

 何故かというと、沢では水中でそのまま放尿、という必殺技が使えるからである。

 これって沢では普通でしょ?
 つい先日、気まぐれに人の沢登りのブログを見ていたら、ウエットスーツを着ていると小用を足しにくくて困る、なんて記事があって驚いた。
 その記事は胎内川の遡行記録の中にあって、つまり私など足下にも及ばないバリバリの超人系の沢屋さんである。今の沢屋さんってそうなの?

 私の学生の頃もウエットスーツなるアイテムは存在していたのだが、バカな学生であった我々はそんなものを使うことなど思いつきもせず、岩登りも沢登りも縦走もまったく同じジャージにTシャツのスタイルでやっていた。
 当然上部に雪渓があるような地域の沢や秋の沢では水がけたたましく冷たく、徒渉なんて泣きそうになるくらい冷たく寒かった。
 そんな中、水中での放尿は腰回りがほんわかと暖かくなり、このクソ寒いのに放出せざるを得なかった貴重な熱量をほんの少しでも取り戻したような幸せ感があったものだ。

 ちなみに深くても膝まで、なんていう水量の少ない沢ではわざわざ水中放尿なんてしないので、その場合はクライミングの時と同じ悩みを抱えることにはなる。
 が、そんな沢ではハーネスを着けて行動することなんてほとんどなかったので、その場合は素直に普通に小キジを撃てばいいのである。
 腰や胸までの徒渉が当たり前とか泳ぎが頻繁に入る沢では、迷うことなく水中放尿であった。
 何の問題もない河原をてくてくと歩いているとき、パーティーの1人がふらふらと隊列を離れて川に入っていき、流れの中程で悠然と立ち止まって景色を見回し、やがてブルッと身震いして再び悠然と隊列に戻ってくる、なんて光景は日常であった。

 南アルプスの深南部に栗代川という沢がある。赤石沢のように超メジャーではないが、沢好きな人はたいてい知っている沢である。
 その沢に行った。
 もう20年も前の話なので細かいところは覚えていないのだが、ただ龍神の瀬戸の圧倒的な美しさだけは今でも目に浮かぶ。知らない人は検索してみてください。写真ではあの圧倒的なスケール感はちっとも伝わらないのだが・・・

 少しくらい写真、撮っておけばよかったかな。
 当時は防水デジカメなんてモノはもちろんなかったし、カメラは濡らすとオシャカだし荷物は少しでも軽くしたいし、そんなわけで沢にカメラを持って行ったことがほとんどないのである。

 龍神の瀬戸は栗代川でも上部にあるのだが、ここに到達してゴルジュの中を覗いたときは思わず「うおぉぉぉぉ」と腹の底から叫んでしまった。
 まあ今となっては格好良くて綺麗だった、という記憶しかないのだが、その現場では当然感動と共に「ここを突破できるのか・・・?」という不安感や緊張、いろいろな感情が渦巻いていたはずである。

 しばらくゴルジュに見とれていたが、私は小腹が減って手持ちの行動食をちょうど切らしていたので、ザックから行動食を出したかった。
 で、入り口ちょっと手前のバンドに上がってザックをおろして荷物の整理をしていた。
 その手前からずっと水中を歩いていたので下半身が冷えていて、少し暖まりたかったし。

 いばらくすると相棒がじゃぶじゃぶと瀬を進み、ゴルジュの入り口近くに歩いていった。腰上までの水深の場所まで歩いていって、そこで腕組みをしながらじっくりとゴルジュの中を見ていた。

 おお、やつはさっそくルートの偵察をしているんだな、と思いながら荷物の整理が済んだ私は行動食を口に入れながら彼の隣まで歩いていき、彼に、

 「どうよ、どこから行けそう?」と聞いた。

 すると彼はブルッとひとつ身震いをしてから慌てたようにこちらを振り返り、

 「え?なんか言った?」

 と言いやがった。

 

沢登り編 その2

 

 このときの相棒は上のその1とは別人である。

 このときは奥美濃のどこかの沢を遡行していた。地図にも名前がなく、結局沢の名前が判らないじまいだった沢をいくつも遡行しているのだが、たぶんそんな沢のひとつ。記憶が確かではないが。(実は奥美濃だったというのも確信がない)

 とにかく、この沢で10mほどの滝を高巻いていた。たいして高くない滝なのだが、やたら壁が立っていて非常にえげつない高巻きを強いられていた。まあ高巻きってとかくえげつないんだけどさ。

 その高巻きの最中、相棒が「小キジ撃ちてぇ」と言い出した。っても、こんなところでか?

 そこはほとんど垂直に近い急斜面の灌木帯で、地面からほとんど水平に生えている木の幹や根っこをホールドに登っているようなところである。それも水線からかなり高いところまで追い上げられて、しかも行く手に壁が立ち塞がっていて、その基部を右に行ったり左に行ったりしながら何とか弱点を探して抜けようと足掻いていたところだった。高巻き開始から既に2時間は経っている。もちろん灌木帯の中で行動しにくいのだがアンザイレンしての行動中である。

 彼が小キジを撃ちたいと言い出したときは彼がビレイしていたのだが、私がビレイポイントに着いて「小便するか?」と言ったときには、彼は「いや、ここではヤバいからもう少し我慢する」と言って、そのままビレイを交代して行動し始めたのだった。
 彼は少し上に見えるもしかしたら行けそうなルンゼに向かって登り始めたのだが、ほんの5mほどしか行かないうちに、「やっぱりダメだ。もう我慢できん」と言いながらハーネスの下のジャージをずらし始めた。

 「おいおい、セルフビレイくらい取れよ」と私が声をかけたら、彼は焦った手つきで手近な灌木にセルフビレイを取り、再び一物を引っ張り出すことに集中した。

 ようやくチ○チ○をハーネスのテープの横から引っ張り出し、いざ放尿しようとしたのだが、なんせこの傾斜である。素直に斜面を向いて放尿しようにもチ○チ○の先っぽが地面に接触してしまいそうなほどの傾斜なんである。まあ少なくともそのままではかなり大量のお釣りをもらってしまうような。

 で、彼はそのまま体を妙に不自然に捻って少しでも遠くに放尿しようとした。で、ようやく方向性が決まり、こちらに半ば背を向けるような体勢で放尿を始めたようであった。地面に勢いよく散水される音が聞こえた瞬間のことだ。

 やつがずりっと足を滑らせた。そのままセルフビレイにぶら下がるのか、と思った瞬間。
 何の抵抗もなく彼が墜落を始めた。セルフビレイは何の抵抗もなく抜けた。というよりそもそも焦って確認もせずに、地面から生えているのではなく単にそこに転がっている枯れ木にセルフビレイを取ってしまったらしい。それは後から聞いた話だが。

 私の斜め上から墜落を始めた彼は、私のすぐ横を通過してさらに墜ちていった。
 墜ちながらも彼はまだ放尿していて、私の横を通過していくときにしぶきが私の顔にかかった

 その時私は、自分のハーネスに付けたエイト環で確保をしていた。灌木を折ったりなぎ倒したりしながら墜ちてくるので墜落の速度は遅く、ロープをたぐり寄せる余裕は十分にあったし「止められる」という確信はあったので特に焦りはしていなかった。ただ、ハーネスの横からチ○チ○を露出させ、さらに放尿までしながら墜落していく光景の異様さに圧倒されていたが・・・

 その時、ロープが引かれる方向を上に制限するために、私の顔くらいの位置に2本の灌木からアンカーを1つ取っていたのだが、その1本が弾けるように抜けた。
 これはヤバいぞ。もう1本も抜けてしまったら、真下からロープが引かれる格好になってしまい、態勢的に非常に辛くなる。ヤバいぞヤバいぞ。

 と焦り始めた瞬間、彼の墜落が止まった。太い灌木に引っかかったらしい。
 下を覗き込むと、灌木に仰向けに引っかかった彼は、まだ放尿していた

 ところでこの時、私たちは4人パーティーだったのである。私の下にもう2人いて、そのうち1人は女の子だった。
 彼はその女の子の目の前で止まった。横チン状態で放尿しながら

 しばらく静寂がその場を支配していたが、やがて一斉に大爆笑が起きた。一番下にいたやつなど、笑いすぎてずり落ちてセルフビレイにぶら下がっていた。

 

沢登り編 その3

 

 その2と同じやつである。ただしパーティーは男ばかり4人パーティーだったと記憶している。確かその2の事件と同じ年だったはず。

 舞台は今度は白山である。白山の尾白川のどこかの支流だったと・・・あまり自信ないが。

 このときも高巻き中の話である。
 手も足も出ないゴルジュに行く手を阻まれた我々が高巻きを始めて3時間も経った頃、またもややつが「小キジ撃ちてぇ」と言い出した。
 このときは随分高いところまで追い上げられてはいてそこそこ嫌らしい場所ではあったが、傾斜も前回ほど強くない樹林帯中でローフも出していなかった。
 なので小キジ撃ちたければ撃てないこともない状況だったのだが、前回の事故がトラウマになっているらしい彼は、やはりずいぶん我慢していたらしい。

 そのうち、

 「うん、沢に戻ったときに水に入れば同じことだよな」と独り言を言い出した。

 えっ?なに?まさか?するの?そのままで?

 そのまさかであった。唐突に立ち止まった彼は、やがてほ〜っと大きく息を吐き、ブルッと身震いをひとつした。
 高巻きを始めて3時間、もうあらかた乾いているはずの彼の腰から立ち昇る湯気
 ちょうど彼のシューズが私の目の前にあったのだが、ジャージの裾から滴がしたたり落ちていた。

 すっきりした彼は急に元気になって、

 「おし、さっさと沢に戻ろうや」なんてえらく威勢が良い。

 しかし。甘かったのだ。

 やがて沢に戻れそうな壁の切れ目があったので偵察で1人、懸垂下降で降りていったが、すぐに「あかんあかん。上も手が着けられへんわ」と言いながら登ってきた。
 その次の下降ポイントも同じ。なんて長い極悪ゴルジュだ。っても水平距離で数百メートルなのだが。

 すっきりしたはずの彼は、やがて腰が冷え始めて再び尿意を催してきたらしい。早く沢に帰りたくて下降を強固に主張する彼を引きずるようにして高巻きを続行するも、すっかり負のスパイラルに入ってしまったらしい彼は、さらに2〜3回、急に立ち止まってはブルッと身震いをするということを繰り返していた。

 壁が立ってきて何回かロープを出す羽目になる嫌〜な高巻きは続き、とうとうそのまま日没を迎えてしまった。もう秋で日も短かったし。

 時間切れである。

 かなり立った壁の中だったので、ロープでセルフビレイを取ってのビバークも覚悟したのだが、幸い狭いが傾斜が緩い場所を見つけたのでそこでビバークした。セルフビレイを取らなくて済む代わり、狭くて4人が密集した状態でビバークしたので臭かったが。

 けっこう冷えた夜で、腰回りが濡れている彼には辛い夜だったらしい。寒くて寝れなかったって。

 結局、沢に戻れたのは翌朝行動開始してから1時間後のことだった。
 彼が真っ先に水に飛び込んでいったのは言うまでもない。

 

 

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