高天原山荘の今昔

昭和56年 

昭和56年当時の高天原山荘

平成15年現在

平成15年現在の高天原山荘

 上の写真は私が高校1年生の時にバイトで入った当時の高天原山荘である。昭和56年、すなわち1981年である。
 下の写真は今年平成15年の9月末に高天原に行った時に撮影したもので、この間22年間である。

 変わっちょらんなぁ〜

 細かいところを指摘すれば、現在では小屋の2階部分にテラスが付いたり、小屋奥のトタンのボロっちい建物(厨房である)が少しまともな2階建ての建物に進化していたり、ということはある。一番大きな違いは、写真ではよく判らないが小屋の前に広いテラスができたことだろう。
 それでも印象として、まるで22年前にタイムスリップしてしまった錯覚を感じるほどに変わらないのは、小屋の本体建物にほとんど手が加えられていないことが原因のようだ。
 いや、人間の手は加わっていないかもしれないが、自然界の力は加わっている。屋根のラインに注目して欲しい。とうとう真っ直ぐなラインがなくなってしまった。
 そうかぁ、昔はしゃんと建っていたんだぁ、この小屋は。と上の写真を見つけてちょっと感動してしまった。
 下の写真で小屋の正面に窓がいくつか見えるが、この窓枠は歪んでしまって不規則四角形になってしまっている。そこに長方形の窓がきちんと嵌め込まれているのは、冗談でもなんでもなくかなり感動的な光景である。
 小屋内部も、水平な床がほとんどなくなってしまったので、中でしばらく歩き回っていると平衡感覚が微妙に狂ってくること請け合いである。この小屋は夜の照明はランプのみなので、暗い中にボーっと浮かび上がるほの暗い赤いランプの光り、そこに床が傾いているとくれば、素敵な酔っ払い体験が体験できることは保証したい。

 小屋の内部がどう変わっているか、という点については、私の22年前のバイトの記憶では細かなところまでは覚えていないのでよく判らない。
 第一、高校1年生のバイトなんてロクに戦力になるはずもなく、今から思えばゴマメ扱いしてもらっていたので小屋の隅々まで知り尽くすというような仕事はしていなかったのでなおさらである。

注)
 ゴマメというのは一言で言えば「集団の中でルール適用外の特別扱いをする人物」のことである。
 主に子供達が遊ぶ時、さらに年少の子供を入れてあげるときに適用する。例えば鬼ごっこをしているとして、そのゴマメは捕まっても鬼にはならなくて良い、とか、ほぼルール無視の何でもありということになる。
 年少の子供は自分も大きい子達と対等に遊んでいるつもりになるのだが、実はしっかり保護優遇されているということを一言で表現する言葉だった。
 例えばいちいち細かいルール適用を決める必要がなく、「この子ゴマメね」の一言でその場にいる全員(ゴマメ本人を覗く)に完全に意味が通じる。また、その子が遊びの中で少々行きすぎた行為があって被害を被った子がムカッときても、近くにいる他の子に「だってその子ゴマメだから」と窘められればぐっと我慢せざるを得ない、とか。

 ここまで書いて思ったが、実社会にもゴマメ扱いされている人、いるなぁ・・・

 今、息子に聞いてみたら、そういう遊び方をすることはあるものの、それを一言で言い表す言葉はないという。つまり自分より年少の子供を遊びの中に入れてやるということを完全に日常のこととして受け容れてはいないと言うことなのだろう。

 このゴマメであるが、地方によってありとあらゆる言い方があって非常に面白い。それも県とか郡とかいう単位ではなく、もしかしたら町内ごとに違うのではないか、というくらいバリエーションが豊かであるようだ。考えてみればこの言葉、子供社会で成立する言葉であり、子供の社会は極めて範囲が狭いから当然なのかもしれない。つまり、小学校の学区ごとに同じ意味で違う言葉が成立している可能性があると思うのだが。
 誰か調査してください。

 カミさんの育った地域では、これを「ヒヨコ」と呼んでいたらしい。なんだか雰囲気はすごくわかる。
 富山県の東部地方、黒部市のある地域では「ハエボボ」というらしい。なんだか汚いぞ。

 


 

 ゴマメの話はさておき高天原であるが、小屋内部で変遷が私にとって判りやすかったのは厨房である。
 昔の高天の小屋の厨房は、当時の私から見てですら狭くて使いにくいものだった。流しは隅っこに狭いものしかなかったし、配膳台が小さなのが2つか3つに分散していたのも辛かった。
 高天の小屋はあれから何人か小屋番が代わり、今は小池さんが小屋番をしている。
 あの小池さんが、あの高天の厨房をそのまま使うわけがない、と思っていたのだが、今年の9月に行ってみると果たして厨房は大改造されていたのであった。
 配膳台は2つに分散されてはいるものの、かなり大きなステンレス板を張ったものになっていた。コンロも昔は3つか4つくらいしかなかった記憶があるのだが、今では6連装になっていた。
 一番違っていたのは流しである。私が大学時代バイトしていた薬師沢の小屋の当時の小屋番がやっぱり小池さんだったが、薬師沢の流しはとても使いやすい。写真を撮っていないのでもうひとつ説明しにくいのだが、大きなステンレス板を張った流しが厨房の中程に設置してあり、壁際を除く3方からアクセスできるようになっている。その壁際の真ん中に大きめの水槽があり、水源から引いた水はまずその水槽の中に入るようになっている。その水槽からオーバーフローした水が流しの中に流れ込むようになっているのである。薬師沢の小屋も高天原の小屋も、水源は沢の水なので流しの水は出しっ放しである。蛇口さえ付けられていない。
 この流しの何が使いやすいのかというと、とにかく広いので多人数が一度に仕事をすることができる。3人並んで洗い物をしている向かいで米とぎができるのである。また、水が水槽に一度貯まるようになっているので、多量の水が必要な時、例えば米とぎやお茶や汁物などの水を確保する時には、水槽から柄杓で直接水を取れば良かったりするあたりがとても使いやすい。
 その薬師沢の流しと同じようなものが、少し小型だがしっかり高天原山荘の厨房にも設置されていた。薬師沢のももともと小池さんの発案で彼の手作りであるので、高天にも同じ物を作るであろうことは予想はしていたのだが。
 ということで、私は勝手にその流しを「小池印の流し」と呼ぶことにした。

 でも、厨房は変わったけど食堂や客室は22年前からほとんど変わってない。床の傾斜が増してきたくらいである。
 まあ早い話が、何が変わったって自分が一番変わったということである。具体的に何が変わったのかは淋しいので書かないが。
 自分がこれだけ変わってしまっても、変わらずにいてくれる場所があるというのは、なんだかとっても嬉しかったりする。

 

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