狂乱の80年代(過去のバイク歴)

 

 実は昔、オートバイに乗っていた。別に隠していた訳じゃないんだけど。
 私が大学に進学したのは昭和59年、西暦で言うと1984年。つまりオートバイの歴史では「狂乱の80年代」と呼ばれたあの時代のまっただ中である。
 当然、私が乗っていたのは2ストのレーサーレプリカ車で、革ツナギを着て峠のワインディングロードでは膝を路面に擦りながらブイブイ言わせていたんだなあ。あー懐かしい。

 というわけで、私の過去のバイク歴を以下で簡単に。

 

<ホンダ MT50>

http://www.honda.co.jp/news/1979/2790620.html

 大学に入って通学の足に買った最初のバイクである。もちろん中古で。
 当時は車で通学しているやつなどほとんど皆無で、バイクを足にするのが普通だった。もちろん原付だけど。
 でも当時のバイクは原付でもパワフルだった。
 このバイクは空冷2ストローク単気筒のエンジンで、当時の自主規制値に少し足りない7psだった。既に原付の60km/h規制は始まっていて、新車はリミッターが動作するため60km/h以上出ないようになっていたが、中古で買ったのでリミッターはなく、80km/hまで刻まれたメーターを振り切るくらいのスピードは軽く出た。

 このバイクはオフロード車だったのだけど、ロード指向の私はロードタイヤを履かせて走っていたなぁ。岐阜から実家は100km少しと近かったため、帰省もほとんどこの原付で帰っていたような記憶がある。

 ちなみにこのバイク、アンダー400という雑誌の「毒舌ハマヤの再検証」というコーナーで「有名な兄弟車の影に隠れた無名バイクカタログ」に"今にも産卵しそうなエビが思い浮かぶ"というキャプション付きで紹介されていた(笑)
 このコーナー、"作ろうと思った人たちとお話をしてみたい"(HONDA VFR400Z '86)とか、"ホンダは三振振り逃げも全力疾走である"(HONDA CBS400 CUSTUM '83)等々、ハイセンスなキャプションが冴えまくっている(笑)

 さてここでクイズ。以下のキャプションは何というモデルのでしょうか?これ分かる人は相当の通(笑)。しかし通なら分かるはず(笑)
(1)おお350。おまえはオッサンクサイ
(2)俺のサイコガンが不人気を打ち砕く

 答えはこのページの最下段

 

<カワサキ Z250FT>

http://www.bikebros.co.jp/vb/sports/zeppanmiddle/zeppanmiddle-34/

 入学して1年経たないうち、年が明けて2月だったか3月だったかに中型自動二輪の免許を取った。ちなみに普通自動車の免許はまだ持っていなかったので、学科もみっちり受け、さらに卒検合格後にも学科試験を受けて取得した。

 父親はオートバイ乗りだったのだが、母親は二輪など絶対にダメだ、なんて言っていたので、免許は親に内緒で取った。バイト代と1月の仕送りのうち食費を全額教習費に投入したっけ。
 当然食費がない状態で2ヶ月近くを過ごしたので、極貧生活に耐えての免許取得だった。最後はパン屋でパンの耳をもらってかじっていた。パン屋のおばさんに「あらー、ワンちゃんに?」なんて聞かれてヘラヘラ「はぁ、まぁ」とか笑って誤魔化しながらもらってきていたが、実は自分のエサだもんね。
 それにしてもパンの耳ってどういう調理をしてもすぐ飽きるのが辛かった・・・

 で、免許を取ってすぐさま実家に帰り、取得した免許を親に見せて母親に文句を言うヒマも与えず、「これ、乗ってって良いよな?」って父親から半ば強奪してきたのがこのバイクである。

 このバイク、空冷4ストローク並列2気筒のエンジンで、出力は確か27psだったかと。非力なエンジンである。でも今のGSRも24psだったりするな。

 このバイクは本当にマス○ーベ●シ◎ンを覚えたサルのように乗りまくった。なんせ9月までのほぼ半年の間に2万km以上乗ったんである。
 ツーリングっても、きちんと計画して行くことなどほとんどなく、学校帰りにふと思い立ったらそのまま長野や鳥取まで行ってしまう、みたいな。

 転倒も、これまでのバイク人生でのほとんどの転倒をこのバイクでやった。雨の日のスリップダウン、信号待ちでの立ちゴケ、コーナーを曲がりきれずガードレールに張り付き、あらゆるパターンの単独転倒をやった。その代わり、以後乗ったバイクではほとんど転倒していない。

 このバイク、別に気に入っていたわけではない。これしか乗るバイクがなかったから乗っていた、という気持ちだった。ほんとはRZに乗りたかった。金もたいしてなかったのでこれに乗るしかなかったのだが。
 それが今、中古市場で60万近いとんでもない値段が付いていたりする。まあ生き残っている個体もほとんどないだろうから、希少バイクとしてのプレミアなのかもしれないが・・・
 たいしたバイクじゃなかったんだけどな〜。
 ただ、このバイク、発売当時は初の250cc専用設計ということで、それなりに人気があったモデルらしい。

 父親から奪って半年ほど経った85年9月のこと、いつものようにふと思い立って岐阜からR19を長野へ、そのまま上越に抜けてR8に出て、R8を大津まで走るという、ロングランをした。
 いつものように学校帰りに思いついてそのまま走り出したので、岐阜出発が夕方で朝に長野市に着き、富山市内でまた夜を迎え、翌日の昼頃に大津の実家に到着という強行軍だった。いつものことだが。
 今のようにコンビニや道の駅があるわけではない時代だったので、休憩も野宿も今ほど楽じゃなかったこともあって、仮眠している数時間以外はずっと走りっぱなしだった。いつものことだが。

 で、大津の実家で久しぶりに布団で死んだように眠り、その翌日岐阜まで帰ろうと大津市内を走っているときに突然エンジンが死んだ。プラグ周りから煙を吐いたので極めて重症であることは一目で判った。
 で、その時は近くのバイク屋にとりあえずバイクを預け、電車で岐阜まで帰ったのだが、後日マシンの様子を聞くとやはりエンジンが焼き付いていたらしい。終わりだー。

 実はこの直前にガソリンを入れたとき、これまでずっと25-28km/Lくらいだった燃費が、突如35km/Lという空前絶後の高燃費をたたき出していたのだが、あれはローソクが消える前の最後の灯火だったのか・・・

 というわけで、次のバイクに続く。

 

<スズキ RG250γ>

http://bike-lineage.jpn.org/suzuki/250gamma/gj21.html

 Z250FTが死んでしまい次のバイクを探さなきゃ、でも金もないしなぁ・・・と途方に暮れていた私の前に現れたのが、このガンマであった。
 行きつけのバイク屋に中古で並んでいたのである。値段は22万円。お、バイト代を当て込めばローンで買えるぞ。
 2ストのスーパースポーツには乗りたかったので、大喜びでこいつを買った。

 27psから45psだもん。最初はそのパワーに度肝を抜かれたよ。
 低速トルクの細さは巷で言われているほどには感じなかった。レプリカといえど、ガンマはまだハンドルも思ったより高くてポジションも楽なもんだったし。今で言うツアラーっぽいポジションだったな。

 でもこのバイク、例によってサルのごとく走り回ったのだが、乗っていた期間があまりに短かった。85年の9月から翌86年の正月まで、わずか3ヶ月あまりしか乗っていないのである。

 この事件も大津で起きた。前のFTが死んだのも大津だったし、このガンマが死んだのもやはり大津だった。
 正月、例によってバイクで帰省していた私は、正月に友達と遊ぶために大津市内に向けてバイクを走らせていた。
 渋滞の横をすり抜けていたその時、突如目の前に車が現れたかと思うと既にすっ飛んでいた。
 沿道にある宿泊施設に入るために右折待ちをしていた車が、前を空けて譲ってくれたトラックがいたために右折したらトラックの横から私のバイクが出てきた、という典型的な右直事故。
 私の方は救急車にも乗ったのだが、身体には特別ダメージはなかった。バイクはフレームが曲がってしまい、見事に廃車。

 走行距離は3ヶ月で1万kmほどだったかなぁ。またしても次のバイクを探すハメになったのであった。

 

<ヤマハ TZR250 (1KT) 初代ストロボカラー>

https://lrnc.cc/_ct/16957672

http://bike-lineage.jpn.org/yamaha/tzr250/1kt.html

 ガンマが廃車になってまたしてもバイク探しとなったわけだが、前回と違うのは私はしこたま金を持っていたのである。
 ガンマの修理費が保険金と事故相手から出てきた。見積もり修理費と全損額の差額は事故相手が「人身事故にしない」という条件で出してくれたのだ。
 これでガンマのローンを返済し、残額を頭金にして改めてローンを組み直して買ったのがTZRである。初めての新車。

 当時、いきつけのバイク屋の紹介で、ヤマハの営業所で棚卸しのバイトをしていたのだか、この前年(85年)の秋にバイトに行ったとき、営業所の倉庫にTZRがずらりと並んでいた。エンジンもかけさせてもらって、これは欲しいっ!!!と思っていたのだが、あまりに高いバイクだったのでこれはとても買えないなと諦めムードだったのに、数ヶ月後に買ってしまうとは。

 当時はバイクの値段がとんでもない勢いで上昇していた時代だった。
 80年に出たRZ250が35.8万円。これは当時の250ccクラスの価格としてとんでもなく高い、というわけではなかったが、このRZに対抗して出てきたホンダのVT250Fが39.9万円。これは「高ぇ〜」と思った。でもこのVTがバカ売れしたのよ。
 そりゃー売れるよな。水冷V型2気筒なんて、当時の水準から見れば夢のメカニズムだもん。空冷パラツインしかなかった時代に水冷Vツインだぞ。
 それもハーレーのような「雰囲気のためのVツイン」ではなく、「速く走るためのVツイン」というのは当時は世界的にも例がなかったのでは。

 このVTをきっかけにオートバイの値段が上がり始め、39.9万が高いと思ったのにRZRだMVXだガンマだと、あっという間に40万台半ばまで価格が上昇する。
 でもまだ他のモデルが49.9万円と40万台を死守していたのに、TZRはいきなり54.9万円である。バカ高いが、これはバカ売れする、と思った。とりあえず視覚的には、あのごっついデルタボックスフレームはこれだけで5万円の上乗せを納得させるものがあった。

 乗ったらまたこのTZR、まさに「名車」だった。
 エンジンは低速から2スト250ccとしては図太いトルクがあって、それが息継ぎもトルクの谷もなしに回転数を上げるに従ってトルクを増すという、非常に扱いやすいエンジンだった。
 でもパンチも強烈で、ガンマと同じ45psなんて嘘だろ、と思ったものだ。ガンマが45psならTZRは60psくらいあるぞ、と。

 ブレーキがまた良かった。
 当時はフロントダブルディスクがスタンダードだったが、そこに敢えて大径シングルのディスクブレーキ。このブレーキがまたとてつもなく効いた。効くだけでなく本当にコントローラブルだった。ステップをガリガリ擦るほど深く寝かせて走っている最中にフロントブレーキを躊躇なくかけることができたほど。
 コーナリングの最中に対向車がはみ出してこようが路面に砂が浮いていようが、ライン変更も自由自在にできた。
 自分自身が一番乗れている時期だったということもあるだろうが、TZRでは転倒する気が全くしなかった。事実、TZRは2台で7〜8万km走っているけど、一度も転倒していない。ステップに付いていたバンクセンサーが3ヶ月で削り取れるくらい走っていたけど。

 

 この時期、中古のポンコツTZ(市販レーサー)とポンコツ軽トラを買って、鈴鹿で走ったりもしていたし、ヤマハが開催していた袋井のテストコースでの走行会にもほぼ毎回参加していた。
 ポンコツTZよりTZRの方が速かった。ストレートではTZが220km/hくらい出たので辛うじてレーサーの面目を保ってはいたが(当時の最新のTZは多分軽く260km/hくらいは出ていたのでは)、コーナーはTZRの方が安心して攻めることができた。
 そのTZRでも、袋井の後半にある高速S字の切り返しではフレームがたわんでゆさっと揺れた。4速で入って6速で抜けるS字なので、切り返しは160km/hオーバーでしているのだが、さすがにその速度域ではフレーム剛性が少し足りなかったんだね。

 ヤマハの走行会は自分のマシンで走るわけではなく、ヤマハが用意するバイクで走ったので、当時ヤマハから出ていたレーサーレプリカはほとんど乗った。
 後方排気TZR(3MA)は高速S字でもフレームがまったくよれず、ほぼレーサーそのものと言って良い走りだったが、これで一般道を走るとあまり楽しくないんだよな・・・剛性が高すぎて一般道の速度域では板に乗っているみたいなつまらない乗車感だった。
 高剛性が必ずしも楽しくない、ということが判った。

 FZR400Rも乗った。
 当時の400ccクラスではレースでも結果を出している優れもののマシンだったのだが、袋井で乗ると別に楽しくはなかった。
 TZRの軽さに比べると重くて、コーナーでは「よっこらせ」とマシンを倒すと後はアクセルを開けるだけで他に仕事がないのである。TZRだと倒し込みはスパッとカミソリのようだし、コーナリング中もアクセル開度や路面のギャップによって絶えずマシンが姿勢や進路を変えようとするので、その対応でけっこう忙しかったのに。
楽に速く走れるのはFZRだったし、現にタイムも出るのではあるけれど、楽しいのは断然TZRだった。袋井だと後方排気TZR、一般道だと初期型TZRが一番楽しかった。(VツインTZRは袋井では乗っていない)
 パワーウエイトレシオではなく、「バイクの絶対的重量は極めて重要な性能のひとつ」ということが判った。
 そんなわけでサーキット走行経験後、ビッグバイクに急速に興味を失っていった。

 

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TZR250と

 

 上の写真はツーリング中に同行した車から撮ってもらった写真だと思う。滅多に写真は撮らなかったので、ほとんどこれが唯一の写真。
 革ツナギの上からジャケットを着ているので、秋か春の寒い時期だったのだろうな。
 ヘルメットはアライのだが、もしかするとアストロである。今でもあるぞ、このモデル名。
 顎やシールドのベンチレーターはこの頃が最初だったと記憶している。頭頂部のベンチレーターはこの数年前に出ていた。

 

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ここにならんでいるバイク、みんな判る人は通だね〜

 

 これもツーリング中に仲間のバイクを並べて撮った写真。私は当時カメラを持っていなかったので、誰かに撮ってもらい、その写真をもらい、さらにそれが現存していないとここに載せることもできないわけで。

 ここに並んでいるバイク、全部判る人はよほどの通だね。

 一番奥がホンダのVT250F、初期型である。RZに対抗して39.9万円という当時としてはバカ高い値段で登場し、バカ高いのにバカ売れしたモデルである。出力はRZと同じ35ps。

 その手前がホンダのNS250R。2ストVツインのレーサーレプリカである。
 この前のモデル、ホンダが初めて250ccクラスに投入した2ストマシンであるMVX250が「焦げ付きマシン」と揶揄されるほどエンジン焼き付きのトラブルが多かった。ホンダも本格的な2ストは初めてだったし、無理もないとも言えるが。
 当時のGP500でフレディ・スペンサーがタイトルを取ったマシンであるNS500のイメージを前面に押し出して宣伝していたが、デザインは似ても似つかないし、細かいことを言うならエンジンのレイアウトだって違う。NS500が前1、後ろ2のV型3気筒だっのに、MVXは前2、後ろ1のV型3気筒。レイアウトが逆じゃん!
 まだ各メーカーが市販車とレーサーの見分けが付かない、というほどストレートなレーサーレプリカを作る踏ん切りが付かず(運輸省の認可の問題もあったかも)、あれこれ試行錯誤していた時期のモデルではあったが、こんなV型3気筒なんてエンジン、もう4ストでも出てこないだろうな・・・と思うと貴重なマシンだった。

 話が横道に逸れたが、そんなわけでMVXでいろんな意味でコケたホンダが、マジになって出したのがこのNS250Rである。今度は素直にVツイン。当時の市販レーサーであるRS250と共通イメージを持たせたレプリカ、というところか。
 なんでMVXの話を出したかというと、このMVXの焼き付きの多さに困惑したホンダは、このNSではオイルの混合比をやたら高く設定してきたのである。
 おかげでこのNS、今度は「煙幕マシン」と揶揄されるほど白煙を派手にまき散らすマシンになってしまったのだった。

 2ストはオイルをガソリンと混ぜて一緒に燃やすので・・という説明は面倒なので省略。

 こんなマシンを造りながらも、次のNSR250Rでは一気に2ストレーサーレプリカの王座を奪還してしまうのだから、ホンダってやっぱり底力があるメーカーなんだな。

 その手前が私のTZR。

 その手前はスズキのGF250。4スト並列4気筒のマシンである。
 実はスズキはこのGFの前にもGSX250FWだったかで250ccの4気筒バイクをコツコツと造っていたメーカーなのである。
 バブル期にマツダが1800ccのV6エンジンを造り、見事に大コケしてしまったことを覚えている人も少ないだろうが、小排気量のマルチエンジンって、ユーザーと多分エンジニアが共有する夢なんだと思う。すんごい回りそうでしょ。
 でも実際にはフリクションロスが大きくなってしまって、思ったようなスカッとしたエンジンにはならないのである。スズキのFW、そしてこのGFもそんなマシンだった。
 それでもこのGFは普通に乗るにはずいぶんマルチらしい気持ちいいバイクにはなっていたのである。ツーリング中にバイクを交換して500kmほど走った感想だけどさ。

 と、コツコツと250マルチを造っていたスズキだが、その後ヤマハからFZ250フェーザーというマシンが出た。このマシン、これまでの小排気量マルチの常識を覆す、16,000rpmまで一切のストレスなしに一気呵成に吹け上がるエンジンを持ったバイクで、これをきっかけに250ccクラスに一気にマルチブームがやってきた。
 コツコツとマルチを作っていたスズキは忘れ去られ、このジャンルはヤマハのFZR250RとホンダのCBR250Rの一騎打ち、みたいな雰囲気になってしまったのだった。カワサキは最初から蚊帳の外だったが。

 CBRのエンジンなんて、レッドゾーンが19,000rpnだぞ。こんなに回るエンジン、他にはもうF1のエンジンくらいしかないぞ。いや、当時のF1はターボ時代だったしそんなに回らなかったし。
 そんなエンジンが載ったバイクを、たかだか50万円そこそこ出せば買えてしまうという、素敵な時代だったのだ。

 そんなわけでこのGF、個人的には哀愁を感じるバイクなんである。コツコツやっていても成功するとは限らない、と・・・

 一番手前がスズキのGSX250E。そんなこんなのハイパワーレプリカ狂騒とは無縁の、確か28psくらいの大人しいパワーを少々重い車体に積んだ空冷並列2気筒という何の変哲もない機械から穏やかに発揮するバイク。レプリカブームの中でもけっこうしぶとく細々と売れていた。

 というわけで、全車250ccである。当時のバイクブームは250ccが牽引していたのは間違いない。車検のある400ccなんて学生が乗れるかって。
 当時の250ccは十分すぎるほど速かったので、400ccに乗る必要性も別に感じなかったし。

 

<ヤマハ TZR250(1KT) ブラックカラー>

 ある年の夏、山小屋のバイトを終えて数ヶ月ぶりに下界に帰ってきたら、俺のTZRがなく、金が目の前に積まれていた。
 夏の間、友達にTZRを貸していたのだが(当時は友達同士で気軽にマシンの貸し借りをしていた)、彼が左折トラックに巻き込まれて廃車にしてしまったらしい。身体は無事なのでそれは良かったが、俺のTZRがー!と悲嘆に暮れたものだ。

 でもまあ、よく考えてみればTZRも既に4万kmを超えていて、そろそろオーバーホールしなきゃ、と思っていたところだったので、その金で迷わず再びTZRを買った。今度は黒のTZR。

 

<ホンダ VFR400R>

http://www.honda.co.jp/news/1987/2870219v.html

 学生時代に最後に乗ったバイクである。
 TZRは気に入っていたのだが、何かひょんなことから400ccに一度は乗ろう、ということになってしまい、バタバタとVFRになってしまった。
 FZRは袋井で乗っていて、速いし良いバイクなのは判っていたけれど、楽しいかというとTZRよりずいぶん落ちる、というのが私の感想だったので、それならV4エンジンのVFRなら楽しめるのではないか、と思って選んだわけ。

 ちなみにプロアームになる前の型。

 上で一度はそう書いたのだが、よく考えて調べてみるとちと違う。
 写真が1枚も残っていないので記憶だけで推測しているのだが、はっきり覚えていることは、ヘッドライトは異形四角形の単眼だったことと、タンデムシートはシングルシート風に段差が付いたテールカウルに装着されていた、当時のレーサーレプリカの定番のスタイルだったこと(今でもそうだが)、この2点である。
 で、調べてみると、VFR400Rという車名のモデルは3型あるのだが、最初のNC21型はサスは通常の両持ちスイングアームで異形四角形ヘッドライトなので、私が持っていたのはこの型と思っていた。だけどこの型の画像を見ると、シートは前後一体式なんだよね。
 次のNC24型が異形四角形ヘッドライト、シングルシート風シートカウルを満たしていて、こいつはプロアームなんである。そしてその次のNC30型はヘッドライトが丸目2灯なのでこれは違う。
 というわけで、私が乗っていたのはプロアームのNC24型で間違いなさそうである。

 確かに楽しかった。並列4気筒のFZRのような重ったるさがなく、ひらひらと倒し込んだり切り返せるのはTZRに少し近い感覚だった。
 エンジンも良いエンジンだった。アイドリングからベタベタにトルクがあり、そのままのトルクで6,000rpmまで吹け上がり、そこからガツンとトルクが増して10,000rpmまで一気に吹けた。これでもう十分なくらいハイパワーなのに、10,000rpmを超えてから14,000rpmまで腰を抜かすほどのパワーがあったなー。
 並列4気筒エンジンの繊細な感じがなく、ドバーッという感じで超フラットトルクのまま回転が伸びていく感覚は、それはそれで新鮮だった。

 ただ楽しいかというと・・・まあ楽しくないことはなかった、くらいか。

 ホンダのV型エンジンて、VTのVツインもそうだけど、とてつもなくトルクもパワーもあって速いエンジンなんだけど、色気がないんだよな。
 まあある意味、2ストの「パワーさえありゃ色気なんてどうでも良いでしょ?」的な説得力はあったが・・・
 でも2ストには2ストの色気があったし(それも凄い色気)、V4にはV4の色気があったんだろうか。私には判らなかっただけで。

 運動性は、さすがに幅が狭いV4エンジン。よっこらせという重さはまったく感じず、TZRと同じような感覚で振り回せて楽しかった。

 転倒と言えば、狭い道でUターンしようとして1回立ちゴケした。これが単独転倒としてはZ250FT以来、他車絡みを入れてもガンマ以来の久しぶりの転倒だったので、かなのショックだった。ステップが折れてしまったが、一番傷ついたのは私の心・・・

 このVFR、案の定、車検代が出せずに人手に渡った。だから400なんてやめときゃよかったのに。

 

<カワサキ KMX125>

 就職してから知人に譲ってもらった、MT50以来久々のオフロード車。2スト単気筒エンジンだった。
 3年ほど乗っていたが、国道を走行中に突然エンジンが焼き付き、しかも後輪ロックまでしてしまい、すんでのところで大事故になるところだった・・・

 以来、約20年、バイクには乗っていない。

 

 

レーサーレプリカブームって・・・

 あの80年代ってなんだったんだろう。今の各メーカーのバイクラインアップを見ていてそう思う。
 レーサーレプリカブームは終わったと重っていたが、どうもリッターバイククラスに移行してまだ続いているみたいな。
 でも・・・リッターバイクではそれらしく走らせることなどとてもできまい。腕もプロレーサーなみの力量が必要だろうし、そもそもリッターエンジンのパワーを叩きつける路面なんて、一般道で存在するわけもないし。たかが45ps程度だったから、一般道に叩きつけることもできたのだよ。

 で、400ccクラスは火が消えたようだし、250ccクラスなんて時代が70年代に逆戻りしたかのようである。ただし2スト抜きで。
 そもそもヤマハなんて250ccクラスのロードバイクをラインアップすらしていない。この冬に遂に出るそうだけど。

 この状態でオートバイ市場が冷え込んでいると言ってもなぁ・・・ラインアップに魅力がないから売れないのか、売れないから開発費をかけることができず、魅力的なモデルを造ることができないでいるのか。
学生がバイトして買える価格帯のクラスに魅力的なモデルがないと、市場全体が冷え込んで当たり前である。100万超のリッターバイクを買える金が余っている中年しか相手にできないラインアップではね。

 

 ブームはいつか終わる。これはユーザーである私たちも、メーカーもよく判っていた。
 あの時期に出たセローは今でもモデルチェンジを重ねて売られているロングセラーになっているし、レプリカの次に来たネイキッドのブームだってそもそもメーカーが仕込んで我々ユーザーが反応したものである。

 レプリカブームは、行くところまで行ってしまったので、いわば終わるべくして終わった。
 最初のガンマはデザインや3,000rpm以下を表示しないタコメーター、アルミフレームといったマテリアルで勝負したモデルだった。ホンダのMVXのような試みもあったが、TZRが「市販レーサーと同時開発」という必殺技をひっさげて登場して以来、ブームはそちら方面に一気に加熱したが、そこについて来れたのはぶっちゃけホンダだけだった。それもそのはず、当時2スト250ccの市販レーサーを造っていたのはヤマハとホンダだけだったから。
 スズキのRGVガンマやカワサキのKR250などは、上の500ccのイメージを背負わせたりしていたという点では確かに「レプリカ」だったが、ホンダのNSRとヤマハのTZRは、レプリカというよりは市販レーサーに保安部品を付けただけ、という存在にモデルチェンジの度に近づいていった。

 あ、カワサキのKR-1は、もはやレプリカではなく、当時の速いマシンの文法通りに造ったオリジナル、だったな。それが受け入れられる雰囲気の市場ではなかったけど。

 そんなふうにレプリカとは言えないくらい、動力性能も運動性能もレーサーそのものに近づいていったが、それとともに一般道で乗るにはつまらなくなっていった。
 エンジンの振動緩和なんて毛ほども考えなくなった結果、ハンドルにもステップにもブルブルビリビリ振動が絶えず来るようになったし(単気筒の振動とは違ってやたら高周波なので、あれが好きという人間はまずいない)、何よりフレームの剛性が上がりすぎて一般道のスピードでは板に乗っているみたいな愛想も色気もない乗り味になってしまった。

 何より個人的に「レーサーレプリカ」に見切りを付けたのは、ガンマもTZRもみ〜んなVツインになってしまったことだったかな。
 レースでの速さを追求すれば、各メーカーがいろいろな理想や思惑を掲げて開発していっても、結局は同じエンジン形式に収束してしまうわけで、だったらもうどのメーカーのバイクも同じじゃん、とシラけてしまったのだった。

 余談だが、今のF1もつまらない。
 エンジンが最初からレギュレーションでV6という形式を決められてしまい、あろうことかそのバンク角までレギュレーションで決まっている。
 こんなの、自動車メーカーが参入する意義があるの?

 V8あり、V10あり、V12あり、フラット12あり、V6ターボありでいろんなメーカーがそれぞれの理想や思惑で開発したいろんなエンジンが入り乱れる昔の方が楽しかった。排気音聞いただけでエンジンメーカーが判ったし。

 

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あの頃のバイク乗り

 レーサーレプリカには乗っていたが、当時の多くのレプリカ乗りが熱中したような「峠族」ではなかった。基本的には最初のZ250FTに乗っていたときの乗り方、つまり思い立ったらその場で長距離のツーリングに出かけてしまう、というスタイルはTZRでもVFRでも変わらなかった。ただ、その最中に出てくるワインディングロードは本気で攻めていたけど。あ、これもFT時代と変わらないか。
 学校帰りにそのまま出発してしまうので、教科書を秋田まで持って行ってしまうなんてことも多々あった。そのくせレインウエアも持っていなかったりして。
 まあそのうち、レインウエアくらいはタンクバッグに常備しておくようになったが(少し賢くなったか)、計画性はますます薄れ、むしろ「無計画な旅こそ旅」みたいな感覚があったので、旅先であれがないこれがないとドタバタすることは毎回のことだった。

 何人かでツーリングするときも似たようなもので(事前にきちんと計画を立てようとする人間は仲間内にはいなかった・・)、夕方、「ラーメンでも食いに行く?」という会話がいつの間にか高山まで走る(岐阜県内だが200kmくらいある)ことになっていたりすることが何回あったか。その最中のせせらぎ街道では膝をごりごり路面に擦りながら走るわけだが。

 集団で走るときも、当時からよく見かけたマスツーリングのような、隊列を組んで走るなんてことはやったことがなかった。あんなの危ないじゃん。バイク同士が接近して走ると気を遣うし、抜きも抜かれも極端にやりにくくなるので他のバイクや車からは巨大な障害物にしかならん。
 なので集団ツーリングでも、「各自自分のペースで」が合い言葉だった。ただそのまま岐阜から高山まで走ると先頭と最後尾に1時間近い差がついてしまうので、途中何カ所か待ち合わせ場所だけ決める、というやり方だった。
 当時は携帯などない時代なので、途中で誰かが事故でも起こすと他のメンバーに判りにくいという欠点はあったが、まあだいたい近くを走っているメンバーが気づいてくれたものだ。最後尾を走るメンバーが事故ると厄介だけど。

 煙幕マシンのNS250Rなんて、普通のマスツーリングでは絶対最後尾確定だぞ。仲間内では2ストマシンの方が多かったが、それでもNSの白煙は特大だったからなぁ。

 計画を立ててツーリング、というのは数回しかやったことないなぁ。
 友達と2人で山陽〜山陰の3泊4日のツーリングをした記憶はある。岐阜を深夜に出て尾道、太田、鳥取で泊まったかな。萩でも泊まった記憶があるけど、そりは別の時だったかも。GF乗りの友達で、途中何回か乗り換えて走ったのでGFは友人のバイクでは一番距離を乗ったバイクだな。
 でもその時も、宿まで決めていたわけではない。だいたいのルートだけは決めたけど、細かなルートはその都度打ち合わせて決めていたし、どこで泊まるかもその時次第。この街で泊まると決めてから宿を探す、みたいな。

 そういう無計画ツーリング、またやりたいなぁ。

 

 

−−クイズの答え

(1)はHONDA CB350Four '72
 この後に出たCB400Fourが今でも名車に数えられるモデルだったのに、こいつはデザインがださくてさっぱり売れなかった。
 キャプションは、その400Fourが「おお400。おまえが好きだ」というコピーで売られていたのに掛けてるのねw
 ちなみにそのコピーも、最初は「おお400。おまえは風だ」だったのが、暴走行為を助長するとかで替えられた経緯があるとか。
 加えて最初は408ccで出たのが、その直後に免許制度が変わって中型限定では400cc未満しか乗れないことになり、慌てて398ccに排気量を縮小して出したとか、何かといわくつきのモデルなんである。
 ちなみにこの350Four、うちのカミさんがその昔、乗っていたらしい。

(2)はSUZUKI COBRA '89
 ポストレーサーレプリカを各メーカーが模索していた時期に、GSX-R 250Rというバリバリのレーサーレプリカのネイキッド版として出たモデル。
 サイコガンというのは、コミックの「コブラ」と掛けているのは言うまでもない。
 ちなみに同時期、スズキは2ストレーサーレプリカのRGV250γのネイキッドモデルも出していて、こちらはWOLFというモデル名で、これも"名前負けしちゃダメ、ゼッタイ"というキャプション付きでこのコーナーで紹介されている。
 このキャプションはさらに難易度が高く、ウルフというのはスズキが70年代に出していた2ストモデルの名前なんだよね。さすがに私もリアルタイムでは知らない話である。

 ちなみにこのコーナーで紹介されているバイクはどれも不人気車だったのだが、ウルフは友達で乗ってるのがいたわ。コブラは見たことないけど(笑)

 

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