昭和56年 春期高体連(A隊)

5月14日〜16日 於 比良

メンバー 

3年

 鈴木 淳史 

 

2年

 西村 健一

 

1年

 堀田 尚吾

 

 山岳班に入ってこの高体連が2回目の山行。それにA隊はメンバーが3人しかいなかったという、かなりしんどい山行でありました。
 この頃はまだ家型テントが全盛でありまして、五テン、草テンなどが一線級で活躍しておりました。
 さて、堅田駅前での開会式が終わってバスで一路坊村へ。鈴木先輩が「今日のヤマはバスの中や」と言っておりました。

 1日目は行動がなく、夕食後はトランプなどをしておりましたが、やはり次の日の行動予定が気になって心ここにあらず、といった感じでした。

 2日目、この日は伊藤新道と小川新道という比良屈指の急登を通るという行程です。予想どおり、まず伊藤新道でバテてしまい、白滝山での下りでは橋の上でこけてしまい、牛コバでは時計を落とし、さんざんでした。それでもなんとかついていけたのは、例の高体連ペースと西村先輩がバテてくれたため、ペースが遅れた(A隊の)ことにあるようで、やはり体力はまだまだなかった、今頃思っています。
 その後、小川新道、武奈を登り、八雲に着いた途端に足がつってしまいました。僕の足がつるクセはこの時に始まった気がします。
 テントも設営して一段落した頃、「野球拳やるぞ〜」という先輩の声。やっぱりやんの、などと文句を言いながらもテントから出てきて持っていたものを着始めました。先輩方は「俺の純毛、貸したるぞ」などというありがたい言葉を我々一年生にかけ、完全に乗り気です。古川先生もいっしょになって「や〜きゅ〜う〜〜す〜るなら〜」と大声で歌うので、他校のテントからなんやあいつら、という目で見られていたに違いないと思います。
 さて勝負は池上とポンチョまで着込んで万全の態勢だった山本が弱く、着ていたものの半分くらいは既に脱がされていました。人が負けるのを見るのは楽しいもので僕もだんだん乗ってきて大声で歌ったりし始めたときに事件が起こったのです。
 それまで静かだった顧問用テントから突然、伊トカゲが出てきて中止を宣告したのです。盛り上がっていた雰囲気は一気に冷めて、後には伊トカゲの後を小さくなって顧問用テントの方へ歩いていく古川先生の後姿だけがありました。

 3日目、やたら距離が長くupdownの繰り返しでいい加減へたばっていたのですが、そこに救世主が現れたのです。
 ちょうどオーム岩での休憩の時です。そこで彼はビスケットをくわえたまま寝ておりました。そして行動開始のすぐ後で彼は足を滑らせ、我々1年生はその彼の荷物が大西先輩のそれと替えられるのを待ちながら十分休憩できたのです。もし彼がいなかったら、我々の誰かがこうなったでしょう。

ありがとう 横山典郎君

 それから彼はことあるごとにこの話を引き合いに出され、この話もずいぶんと脚色され、古川先生などは「横山、お前寝てるときに「おかぁさ〜ん」と呼んどったぞ」とか、いろいろと話が付け加えられました。これはやはり高体連という、いわば新人にとってはデビュー戦と言える舞台でのことだからではないでしょうか。彼の場合、そのデビューの仕方が華々しかったため、誰の頭にも「横山?ああ、あのオーム岩の」というイメージがすっかり定着しているものだと思うのですが、いかがなものでしょうか。
 それはさておき、それから岳観音で昼食をとり(ちなみに彼はこの時も寝ていた)、近江高島駅まで降りてきて閉会式となったわけですが、結局A〜D隊のいずれも優秀校を取ることはできませんでした。でも僕にとっては数ある山行の中でも特に思い出深い山行になっています。

by S.H

 

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