MYOJINDAIRA 〜 TAKAMIYAMA

 この山行は我々が1年生のときの琵琶湖国体期間の休みを利用して行ったものである。もちろん個人山行で先生には内緒である。
 2泊3日の行程でなかなかの山行であった。しかしそれは全体的に見た場合であって、いろいろと苦難もあった。おれはその山行の何日か前に登山靴を買った。それを買うまではあのいまわしいキャラバンシューズをはいていたのだ。当然のこととして、その山行にその登山靴をはいていった。ほとんど足ならしもせずに・・・
 最初はまっさらの登山靴で意気揚々として登っていった。しかし、しかしそれからが悪夢であった。徐々にかかとがいたくなりだし、しばらくすると一歩歩くごとに悲鳴をあげたくなるほどになった。だいぶん登ったところで、どうにもがまんができなくなって、横やんに靴をかえてもらった。横やんはまだそのときキャラバンだったので、そこまでの行程の水たまりかなんかで靴の中はびしょびしょだった。しかしそんなことはいってられず、キャラバンで登っていった。
 しばらくすると横やんもたえられなくなり、しかたなくキャラバンを横やんに返し、おれは池上のどっかで拾ってきたという登山靴を借りた。さすがにその靴はネンキが入っていて、とても快適だった。
 やっと目的の明神平についた。そこはもとスキー場であったというだけあってすばらしいところであった。でも、なんでそんな山奥でリフトもなんにもないところにスキー場をつくったのか不思議である。つぶれるのは当然である。
 次の日はそこいらの山をサンサクしておわった。
 問題は最後の日である。その日の行程はかなり長いものであった。出発後、いきなり水無山という山の長い急斜面を登らねばならなかった。そこでいきなり体力の消耗を強いられた。

伊勢辻山

メモによると伊勢辻山という山の山頂らしい(記憶にない)
やはりメモによると、猛烈なヤブこぎの最中だったらしい(やはり記憶にない)

 

 それを登ってしばらくいくと、ものごっつ背の高い枯れたササの中をあるくはめになってしまった。ほとんど人のとおらないところなので、獣道なんかに迷いこんでしょっちゅう地図をひらげるありさまだった。



 やっとのことで最後の登りである。高見山へたどりついた。しかしそう甘くはなかった。登りかかるとすぐに雨がふりだした。その時点で我らが五人組の一人、M・I君はすでに疲れきっていた。
 雨がひどくなりだしたので休むこともできずひたすらのぼりつづけたが、M・I君はダウン寸前であったので、先頭を歩かすことにした。先頭に出るためにおれの横を通った時、彼の顔を見るともう死人同然ですでに目に光はなく、声もでず、表情のかけらも見られなかった。きっと彼はその後、無意識で登っていたのだろう。だが、そういうおれも雨で体温はうばわれ、本当に死んでしまうのではないかと思った。もうろうとした頭の中で・・・
 頂上に着いた!!死なずにすんだ!!そこにはブロックでつくった小屋があった。かなり大きなもので入り口には戸もなにもなかったので、中は多少暖かいとはいえ、体は冷えきっているため歯はガチガチなった。運よく薪があった。しかしおれにはそれに火をつける元気もなく、堀田シャンが一生けんめい火をつけようとしてくれた。が、その薪は異常に太くて結局火はつかなかった。しかしシャツなんかをきがえることはできたのでだいぶん暖かくなり、つかれもとれた。ふと外を見ると皮肉なことに雨はやんでいた。そこで小屋の外にでて、みんなで記念撮えいをすることにした。普通にとっただけではおもしろくないので、ジェブロンを組もうということになった。ジェブロンとは横やんいわく戦闘機のある飛行たいせいで、正面からみるとボーリングのピンをならべたようにみえるのである。

高見山山頂のジェブロン飛行隊? 
おそらくこれがその時の「ジェブロン飛行隊」の写真
誰が誰かは本文参照のこと

 

 今、そのときの写真を見てみると、池上はえらそうに先頭で口を引きしめており、堀田しゃんはどこを見ているのかよそ見をし、おれはいやらしそうに笑った顔をし、横やんは肩をすくめて目を細め、石島には表情がない。その後ろに広がる山々の稜線付近には冷たそうな雲がある。やはりS56年にとっただけあって、池上をのぞいた4人の顔はとても幼い。



 だいぶん休けいしたのでそろそろ出発することにした。そこからあとはひたすら下るだけで、かけるようにおりていった。
 バス停についた。足がメチャメチャ痛かった。歩けないほどだった。「足痛いーーーー!!」と叫んでいると、おばあさんが一人、家の中から出てきて何やかんやとたずねたのを覚えている。
 そのおばあさんは3日間ではじめてあった人だった。

-by KEIGO

 2日目の行程を執筆者の山本はサラリと「次の日はそこいらの山をサンサクしておわった。」と流してしまっているが、この日は薊岳を往復した。

 いろいろ調べてみたら、なんでも現在では大又から明神平への登山道が閉鎖状態になっているとか。また、薊岳に下からダイレクトに登る登山道も存在するらしい。
 当時の薊岳は明神岳から尾根伝いに行く道しか存在しなかった。また、その道も「道」というにはあまりにも心許ない道だった。わりと明瞭な尾根筋なので迷うことはないのだが、細い踏み跡程度の道で、この時は秋で落葉が道を覆い隠してしまっていた。頻繁に交差する獣道の方がよっぽどしっかりしていた。
 シカらしき糞やヌタ場もたくさんあり、そのようなところでは強烈な獣の臭いがした。

 明神平の夜も印象深かった。シカの鋭い鳴き声がうるさいくらいだった。
 今から思えばちょうど繁殖期だったようで、あちらの山でシカが鳴けばこちらの谷で応えるシカがいる、という具合に、シカの競演が繰り広げられていた。一度、テントのすぐそばでシカが鳴いて驚いたことも。

 この2日目の薊岳と明神平の夜、シカの競演で私のこの山域に対する印象が決まったようなもんである。
 山が深く、人気がなく、獣臭く、道が頼りない山、=すっげぇ面白い山、である。

 今行ったら・・・・どうなんだろう。登山道もかなり整備されているようだし、それなりに登山者もいるようだし、昔ほど獣臭くはないかもしれないなぁ。
 昔片思いしていた可憐な少女に20年ぶりに会ったらすっかりおばちゃんになっていた、という人生の悲哀を味わってしまうのだろうか・・・例えどんなに素敵で魅力的なおばちゃんになっていたとしても、俺はあの可憐な少女に惚れていたんだぁ!と叫んでしまうもんだよな・・・

 

2014.08.22 追記

 

 2014年の同窓会に、堀田氏がなんと当時の計画書を持ってきた。持ってるのか!
 計画書には現地でコースタイムを書き込む欄があるのだが、それに律儀にきちんと時刻を書き込んでいる!!

 いやはやまったく、持つべきものはマメな友人、である。

 これでも部の正式な山行の計画書と比較すると屁みたいに手抜きである。提出しなくていいからな。

 

hs_myozin_time.jpg

当時の計画書(コースタイム記入欄)

 

 上写真からコースタイムを書き起こしてみると・・

 

日付

時刻

場所

天候

備考(というより現時点からの感想)

1981.10.14

13:50

大又 発

 

 

11:25

不動板橋

 

 

15:40

明神平(幕営地) 着

 

10/15

11:15

明神平(幕営地) 発

サブ行動 

 

12:45

薊岳

 

 

15:30

明神岳

 

明神平帰着時間は未記録 

10.16

6:30

明神平(幕営地) 発

 

 

 

6:47

水無山 通過

 

 

 

7:05

国見山

 

 

8:46

伊勢辻山

ヤブ、きつし 

 

9:55

ハッピノタワ

ヤブ、きつし 

 

10:45

雲ヶ瀬山

 

 

12:10

高見峠

 

 

13:07

高見山 着

わずか1時間だが寒くて辛い登りだったなぁ・・ 

 

15:10

高見山 発

小雨

 

 

16:10

小峠

もう晴れていたのか・・・ 

 

16:35

登山口 着

 

 

 こうして見ると、まだ1年生だけあってコースタイムの付け方に慣れてないな、さすがの堀田氏も。
 明神平に帰着した時刻を記録し忘れていたり、通過と着と発の時刻も曖昧だし。

 いや、俺はほぼまともに付けた記憶がないので、とやかく言えないのだけどね。

 

 

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