山に目覚めてしまった中学時代

 父が山が好きで、物心つくかつかないかくらいの頃にはよく家族で近場の山にハイキングに出かけたらしい。小学校5年生まで奈良に住んでいたので、大台ヶ原とか冬の金剛山とか、朧気に記憶がある。
 父にしても夏山の一般縦走あたりまでの山しかやらなかったようだが、若い頃の写真を見ると白馬や後立山、槍ヶ岳周辺と北アルプスの主要地域はあらかた歩いていたようだ。どの写真を見てもチロリアンハットにベストを着てニッカーボッカ、とまさに「おおっ、昭和30年代!」と言いたくなるほどキマッている。視線もカメラ目線ではなく、山稜を遠い目をして眺めていたり、なんだかやたら格好いい。自分がそういう写真を撮ってもらおうと思っても、目だけ笑っていたりするのでダメである。ま、「ええかっこしぃ」の父だからこその写真だな。
 ちなみに靴は土踏まずにスパイクがついた紺のキャラバンシューズで決まりである。つい先日、ヤフオクで「新品」と称して出品されているのを見てひっくり返ってしまった。いったいどうやって保管していたんだろう・・・
 それと布製のダブルヤッケ。これも「正統派ダンディ山屋」の必須アイテムだったのだろう。実は今でも欲しかったりする。

 「山」というものを初めて意識したのは、小学校4年生の時に連れられた立山だった。昭和50年のことである。その年オープンしたばかりの立山高原ホテルに泊まり、浄土山あたりに登って黒四ダムから大町に抜けた記憶がある。
 なんせ「別世界」である。小4のガキにもなにやらこの世のものとは思えない美しさは少しは判る。まあ、当時の両親は景色にあまり興味を示さない私を見てがっかりしたらしいが。

立山高原ホテル前にて みくりが池 

立山高原ホテル前
ちなみにこの年(昭和50年)に開設したばかりだった

みくりが池にて

 決定打だったのはその3年後、中1の時の雲の平だった。太郎→雲の平→鏡平→新穂高という3泊4日の小屋泊まり山行。雲の平もちょっと「この世」ではないものなぁ。三俣〜双六の道で

 右の写真がその時のものである。
 背後に硫黄尾根が写っているので、撮影場所は三俣〜双六の道のどこかだろう。



 それで山が好きになってしまって、いきなり「1人で登る」と言い出すあたりが、私がちょっと変わっているところなのかな?まあそれを認めた親も親だが。

 その頃は滋賀県に住んでいたのだが、雲の平の翌年の中2から1人で比良を登りだした。むろん日帰りで積雪期は素直にオフシーズンだったから、初めての比良は忘れもしない(今無理矢理思い出しているが)4月だった。ルートもはっきり記憶していて、正面谷→金糞峠→シャクナゲ尾根から北比良峠→武奈ヶ岳→ダケ道→イン谷口、というものだった。
 以後、ほぼ1ヶ月に1度のペースで比良に行くようになった。当時の比良は滋賀国体で登山会場になる前で、まだメインルート以外は指導標が完備されていなかったり枝道がやたら出ていたりで迷いやすいルートも多かった。2回目に行ったリトル比良で、オトシの湿原で大迷いしたっけ。

 山馴れてない中学生、しかも単独行とあって、行く本人は大緊張の連続だった。当時は比良のガイドブックは皆無で、辛うじて昭文社のエアリアマップがあるだけだった。それがまた「緊張しながら辿ると」とか「落石がありそうで楽しんではいられない」など、脅かすような文章なものだから、マジでビビっていた。
 ちなみにこのエアリアマップの「比良山系」であるが、今年の5月に久しぶりに登るために最新版を買ったのだが、紹介文が25年前に中学生の私が購入した時のものとまったく変わっていないのは如何なものか。挿入されている写真類までまったく同じである。
 しかも正面谷など、25年前とは大きく様相が変わってしまっているルートまで「改訂」されていない。著者も替わっているのにどういうことだ?
 それとやはり25年前から最新版に至るまで、比良に生息する動物としてクマとカモシカが挙げられているが、本当か???
 あれだけ比良は歩いたけど、クマやカモシカは気配すら感じたことがないぞ。
 だいたい、道を外れて適当な方向の藪に突入しても、1時間も藪こぎすれば別の登山道に出てしまうほど縦横無尽に道が張り巡らされ、山中のどの地点からでも2時間もあれば下山できてしまうスケールの山に、カモシカはともかく熊が住めるのか??
 ・・・今度滋賀県の自然保護課にでも聞いてみよう・・・

 それはともかく、その「小さなスケールの山」という点で、比良は「山登りを覚える山」として絶好だった。人も多く、迷ったり怪我したりしても、たいていなんとかなってしまう。また、その小さなスケールの割に変化に富んでいて、荒れたガレ谷から草原の稜線、ちょっとした雪渓(4月までは)と、まあそれなりにひととおりの要素が揃っている。中学生がビビリながら山を覚えるには良い山だった。

 父とも登らなくなったわけではなく、中3の夏には父と弟の3人で大雪渓から白馬に登った。白馬鑓から鑓温泉というオーソドックスなコースだった。
 だが、中学生ともなると一人前に反抗期のまっただ中であり、父と一緒に行動するのはちとしんどかった。

 家が比叡山の麓なので、比叡山にもよく行った。こちらは正規のハイキングコースではなく、道標も何もない治山用の林道を好んで歩いた。
 また、家の裏手からそのあたりの適当な沢を水がなくなるまで詰めてみたり、という遊びを良くしたのは、当時からバリエーションルート指向の芽生えがあったのか。

 そんなわけで高校に入った時、迷わず山岳部に入ったわけである。

 

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