大学時代後半 山小屋仕事人時代

 大学山岳部にはあまり長くはいなかった。ただ漫然と「続かなくなった」のではなく、極めて明確な理由があったのだが・・・
 その理由はとても正視に耐えないもので、それはあの時のメンバー全員にとっても同じだった。ただ、それぞれの立場によって受け取り方はかなり違ったはずだが、それでも「とても正視できない」という点では共通していた。そしてそれから目を逸らすことは、仲間達から目を逸らすことでもあった。
 こうして僕達は疎遠になっていった。
 数年後に山岳部が再び活発に活動し始めた時は、メンバーは私も含めてほぼ総入れ替え状態だった。

 山岳部を正式に辞めたのは、確か4年生になるあたりだったが、山行には3年生になった時点でほとんど行かなくなっていた。でも、山はやめたわけではなく、他にいろいろと相手を見つけてはあちこちに行ってはいた。OBとか他の山岳部の部員とかが多く、場所は奥美濃の沢が多かったように思う。北アルプスはほとんど単独行になった。従って、バリエーションルートはもうほとんどやらなくなった。(それでも源治郎とか八ツ峰下半〜上半とかは1人で行ったりしたが)
 しかしこの時期は、夏はほとんど山小屋でアルバイトをしていた。剣沢にて

 

 右の写真はいつだったか両親と弟を連れて剣沢に行った時のもの。目的は真砂沢の小屋にデポしたまま3年ほど経ってしまった荷物の回収だったが、当然のことながら既に処分されてしまっていた・・・


 実は高校1年生の時に既に山小屋にアルバイトで入っている。場所は太郎小屋チェーン。太郎平小屋と薬師沢小屋、スゴ乗越小屋と高天原山荘は同じ五十嶋氏の経営で、高1で小屋に入った時は高天原の小屋で1ヶ月間働いていた。
 大学の山岳部で夏山の時も、真砂沢での定着を終えて縦走に入ると、三俣で他のメンバーと別れて高天原に遊びに行ったりしていた。大学の時は3シーズン働いたが、この時はいずれも薬師沢の小屋だった。

 高天原は当時、大山夫妻が長い間小屋番をしており、薬師沢は小池さんが小屋番だった。(小池さんは現在は高天原)
 水が妙に私に合ったのか、薬師沢は私にとってはすこぶる居心地が良かった。

 7月の初旬はだいたい小屋番の小池さんと私の「2人きりの同棲生活」だった。お客もほこの時期はほとんど来ないし、大学生の短期アルバイトが入ってくるのも7月の20日以降である(私も大学生だったが)。最初のヘリが飛ぶのが例年7月10日頃で、7月1日に小屋を開けてからの10日ほどは、前年に小屋にデポした食糧で食い繋いでいた。必然的に保存が利くものしかなく、周囲の沢で採れる山菜が食事に変化をつける唯一の食糧だった。しかし、たまに来るお客さんは山菜を出すと喜んでいたが、毎日食っている我々はたまったものではなく、ヘリが飛ぶ日を心待ちにしていた。そのヘリの日が雨で延期になった時など、非常に暗いムードがたった2人の食卓を襲ったものである・・・

 7月初旬の仕事は、シーズンに向けての準備が主だった。
 準備、というと、当時はまだ布団に「シーツ」というものはなく、襟元だけカバーを付けていたのだが、そのカバーの縫いつけ。布団干し。このあたりは辛気くさくてお世辞にも楽しい仕事ではなかったが、周囲の登山道の整備は楽しかった。太郎への道、雲の平への急登の登山道、高天原への大東新道などを歩き、倒木が道を塞いでいる箇所や迷い道ができているところなどを整備した。この時期は1日歩いても誰にも会わず、小屋へは午後3時頃までに帰れば良かったので、非常に気持ちが良かった。

 いよいよお客が増え始めるのが7月の下旬頃。
 宿泊数はともかく、夕食数が最初に20を越える日は毎年辛かった。体が馴れていない。また、その頃はまだ小屋番と私の2人だけというのもある。
 そして本格的にシーズンが始まり、アルバイトも増え(小屋番を入れて5人、という体制がシーズン中の標準だった)、いよいよ最初に夕食数80を突破する日がやってくる。ちなみに小屋の食堂は一度に8人がけテーブルが4つなので32人しか収容できない。したがって夕食数が32を越えると必ず「入れ替え」が発生する。それも1人1人入れ替えていたら訳が分からなくなるので、入れ替えは必ずテーブルごとが基本だった。ただ、お客の方も早く食べたいので、1人空いたらそこに座ろうとする。それを制止して入れ替えを管理するのがまたけっこうたいへんなんだな。

 その日の夕食数は、毎日入る無線で折立のバスの乗車人数を連絡してくるので、その数字を基に小池さんが予想を立てていた。とはいっても、太郎で泊まる人、薬師沢まで入る人、素泊まりの人なども計算に入れねばならず、小池さんの予想もしばしば大幅に外れた。
 たいてい、昼食の時に小池さんがその日のメニューと夕食数を発表する。夕食の仕事にかかるのは予想数によっても違うが、だいたい午後2時から3時頃だった。3時を過ぎると小池さんは帳場で受付にかかりきりになるので、厨房はバイトできりもみしていた。時折手が空くと帳場に行って、その時点での夕食数を聞いて予想とのズレを修正しながら夕食の準備をした。小池さんの方から厨房にフラっと現れて夕食数と朝食数、弁当の数を書いた紙をペタリと厨房の柱に留めていくこともあった。

 毎年7月末に一度ピークがあり、だいたい夕食数で80から90を経験した。不思議なもので一度80を経験すると50は楽チンになるもので、ピークを過ぎると後は60〜80で推移するのでしばらくは楽なものだった。・・・・お盆までは・・・・
 盆の3日間は毎年地獄だった。ピークは私が働いていた3年間は毎年8月13日だった。それも年々増え続け、1年目の夕食数は135、2年目は157、3年目はついに178という夕食数を記録した。数字まではっきり覚えているもの。
 8/13は毎年、午前11時には既に夕食準備を始めていた。
 私は「飯炊き」という、山小屋アルバイトの中ではステータスな分担だった。が、そこは小さい小屋のこと、飯炊きだけではなく、汁物(みそ汁とかスープとか)とお茶、それとキャベツの千切りが私の担当だった。
 その飯炊きは、3升炊きの圧力釜が3基あったのだが、8/13は毎年、午後早々には3基とも3升を炊きあげ、それを手持ちのお櫃全部に入れて毛布にくるんでいた。夕食は午後5時からで、8/13は前倒しで4時半には食事を出していたのだが、1回転目を出す頃には既に圧力釜は2回転目が炊きあがっていないと間に合わなかった。汁物も巨大な寸胴で作ったものを、半分くらいに減ったところでさらにお湯を足して味を付け直さないと足りなかったし。

 忘れもしない3年目の8/13。もう朝から「今日がピーク」というのは判っていたのだが、寄りによってその日の朝、小屋のストッカー(冷凍庫)が壊れた。
 緊急にストッカーの中の冷食を処理しなければならない。そこで小池さんが出したその日の夕食メニューは、「イカリング」であった。
 イカリング、と聞いて連想するのは、冷凍の衣まで既に着いているあれでしょ?普通。
 その日、ストッカーから出てきたのは、大きなイカそのものであった。イカを切って、衣を付けて、そいでもって揚げて・・・死んだ。

 毎年、8/13は仕事が全て終わるのは夜の11時頃だった。普通の日だと8時には終わって自分たちの夕食なのだが。しかもお客が100人を越えると寝る所もままならない。畳一畳にフトン1枚、フトン1枚に1人という普通の部屋割りだと、いいとこ80人しか泊まれない小屋に190人寝ているのである。
 夜、階段でガタガタ震えているお客がいるので聞いてみたら、トイレに起きて部屋に帰ると寝る所がないと言う。そりゃそうだ、8畳間に16人詰め込んでいるのだもの。部屋に行ってみてもどうにもならない。毛布とフトンを1枚引っぺがしてお客さんに渡し、それで廊下で寝てもらうしかないんである。食堂もテーブルを小屋の外に出してそこに30人くらい寝ているので、私達は食堂で食事ができず、厨房で食べているし、食事が終わっても裏口から外にでなければ帳場の裏にある我々の部屋に帰ることすらできない。女の子のバイトは通常は1部屋「女性部屋」を割り当てられているのだが、この日ばかりはその部屋もお客さんに明け渡し、我々と一緒に雑魚寝である。
 で、夜の11時頃、ようやく横になれた・・・と思ったら翌朝は2時起きだ。まあこんなのは3日間だけなので耐えることができるのだが。

 お客さんが少ない時は、メニューもけっこう凝ったものを作るし、酒でも飲みながらのんびり食べていても別に誰にも冷たい目で見られないし、あまりに遅いと隣のテーブルに自分たちの食事を出して、「洗い物は一緒にやろ」とか言いながら自分たちも食べ始めたりもしていた。となると、「一緒にどうです?」とかいってお客さんと一緒に酒飲んだりもするのだが・・・同じ宿泊料金払ってもお盆だとこれだ。混む時期に山小屋泊まりだけはするべからず、と思ったものである。

 こうして地獄のお盆も過ぎ、いよいよめっきりお客さんも減って山は秋の気配を漂わせる。
 短期バイトはたいてい8/20くらいにはバイトが終わって帰ってしまうのだが、山小屋生活が楽しいのはここからなのである。
 最初のうちは短期バイトが居候で残って山をあちこち歩くことも多く、よく案内もしていた。赤木沢なんて何回行ったことか。

黒部川源流で 

黒部川源流で

 

 右の写真は、誰だったか短期バイトの女の子を2人ほど連れて赤木沢に行った時のものだ(と思う)。たぶんこの写真は赤木沢手前の黒部川本流のはず。


 

薬師沢小屋前にバイト集合

 

 右の写真は薬師沢の小屋でのバイト集合写真。
 私の他に2人ほど「高校山岳部編」で見る顔が混じっているのは、この2人もバイトに来ていたから。小屋は違い、手前右の堀田は高天原の小屋で、その後ろの山本は太郎小屋で働いていたと記憶している。

 多分この年だったと思う。許し難い事件があったのは。
 小屋を降りる時、長い禁欲生活に耐えてきた男の子3人は、帰りの車の中で「行くか」という相談をしていた。どこにかって?もちろん遊びにである。当時私は岐阜に住んでおり、近くには有名な金○園があった。
 しかし岐阜に帰り着いていざ、という時になって前列右に写っている堀田が、「お・・・俺はいいや」とか言い出した。山本と2人で説得はしてみたのだが、結局は仕方なく堀田は私のアパートで待ち、山本と2人で遊びに行ったのだった。

 そして月日は流れ・・・私の結婚式の二次会でのことである。
 堀田が何か喋れと言われてマイクを持った。そこでベラベラと喋り始めたのが何かっつーとだなぁ・・・
 「んでね、2人は石鹸の臭いをプンプンさせながら帰ってきよったんですわ」
 当然その場には私の女の子の友人も、その日結婚したばかりのカミさんもいた。
 ずぇったい許さ〜〜ん!!!


岩苔小谷大滝 

岩苔小谷大滝の下にて

大滝

拡大 あ、俺がいた

 

 シーズンオフでは赤木沢の他にもいろいろ行った。
 上の廊下は「小屋に午後3時までに戻らねばならない」という制約があったので、たいした所までは行っていない。それでも1回だけ谷中で一泊して下の黒ビンガのあたりまでは行った。
 その頃になると体が山に馴れているので、行動は鬼のように速い。よくビールを飲みに岩苔小谷の出合い(いわゆる立石)まで行ったが、そこから小屋まで1時間半しかかけていない。
 10月に太郎小屋で居候していた時も、電話のバッテリーを下ろすのを手伝ってくれと言われて、1コ15kgのバッテリーを1人3つずつ担いで折立に降りた。この時は下りで1時間半かかった。
 私はこの時、折立のほんの少し手前で転倒してしまい、足首を酷く捻挫した。(後に靱帯が切れていたことが判明)
 その痛む足首を抱えて「早く小屋に着きて〜」と必死に登った結果、折立から太郎小屋まで1時間半で登ってしまった。その1週間、小屋で寝ていたが。足首がゴムまりのように腫れて靴も履けなかったし。

 右の写真は岩苔小谷の大滝の下で、ここは3回ほど行った。3回とも一緒に行った人は違い、1回目は上の写真にも出てきた高校山岳部の同窓生2人と、2回目はこの写真の時で小屋番の小池さんと、3回目はまた別のアルバイトとだった。

 岩苔小谷はあまり遡行されていない沢で、日本登山大系に載っていた遡行図も、「これは行ってから3ヶ月くらいしてから酔っぱらった時に書いたに違いない」と思うほどデタラメだった。
 1つめの魚留めの滝を越えてから、ゴルジュの中に滝が3つほどあって、まあそこそこ楽しめる沢だった。ザイルを使うほどではないのだが・・・
 この写真を撮ってもらった時は、撮影位置はまだゴルジュの中で、たいしたゴルジュではないのだが外傾したバンドの上にルートがあり、少しばかり嫌らしいところだった。そのゴルジュの中に小池さんが大判のカメラを三脚立ててなにやらやっていたので、「あんなところで・・・」と思っていた記憶があったりする。
 後で引き延ばして額に入れた写真をもらったのだが、半年くらい私が写っていることに気づかなかった・・・(どもすんません!)

 この岩苔小谷の遡行は、まさにこの大滝を如何に越えるか、が正念場だった。
 1回目に山岳部の同窓生と行った時は、滝の右手のルンゼを詰めた。非常に傾斜が強いルンゼを登り、滝の落ち口より少し高い地点からヤブの中をトラバースしたのだが、最後に行き詰まったのが雪崩か何かの跡で、木が全く生えていないところが3mばかりあり、そいつをトラバースしなければならなかった。
 ヤブの中のトラバースも、傾斜は完全に「岩登り〜」の世界なので、落ちたら無事では済まない(というか死ぬ)ところだったのだが、木にぶら下がりながら横切っていくのは、まあそんなに緊迫はしない。だが、何もない所はヤバイ。下を見ると滝壺まで一直線。
 でもそこを行ってしまった。ホールドは、コケに手を突っ込むと手首くらいまでは入ったのだが、それだけである。誰か墜ちて死ぬかなぁ〜?と思ったが3人とも無事だった。

 2回目に行った時、同じルンゼを詰めて小池さんに「去年はここからトラバースしてさぁ、えらい目に遭ったわ」とか言っていた。当然、そのルートは考える余地なく棄却である。
 結局、そのルンゼをさらに詰め上げ、尾根を1つ越えて沢筋に戻った。

 3回目。
 大滝の左手には岩でガラガラのガレたルンゼがあった。脆そうだし傾斜はあるし、岩は全部浮いていそうだったし、一見してそちらのルートは棄却していたのだが、この3回目の小谷に出る時、小屋番の小池さんが「あの右のルンゼを登って見ろよ」と悪魔の囁きを仕掛けてきた。
 「え〜っ?あそこはダメだよ〜」とか言いながらも、現場に来てじっくりルンゼを観察してみると行けそうな気もしてくる・・・谷は大滝の上で左に曲がっているので、確かに左のルンゼから行ければ後は楽だ。
 ま、行ってみっかと登り始めたら、まあ思ったほど脆くはないものの、なんとか登れる。少なくとも剣の池ノ谷ガリーより少しは楽かなぁと思いながら登った。
 ただ、ルンゼの中はまだいいのだが、両端の壁が立っているため尾根に取り付く島がないのである。最上部まで行くと壁が立って被っているので、適当な所で右に逃げて沢筋を目指したいのに、その適当な所がない。
 そのうち家ほどもある大岩がルンゼを塞いでいる場所に来た。下からも見えていたのだが、いよいよ右の方に逃げないと。
 一緒に行った人は長身で手足も長かったので、なんとか抜けて右のヤブに入れたのだが、そのホールドは私には届かないのよ・・・
 ま、最終的にはなんとかなったのだけど、薬師沢に帰って小池さんに「やっぱ左はダメだわ」と報告したのは言うまでもない。
 結局、2回目に小池さんと行った「右手のルンゼをとことん詰め上げて尾根を1つ越えて谷筋に戻る」ルートが正解、ということになった。


 

薬師沢の小屋の前で 

 右の写真の右端が小屋番の小池さん。
 真ん中の女性は、その数年前のバイトの人である。私が高校時代にバイトしていた時、太郎小屋にいた。実は綺麗な人で憧れていたんだよな〜。


 

小屋での宴会

 

 小屋での宴会風景。
 一緒に飲んでいるのは、大学の同級生と教授である。この教授、微生物の世界では権威で偉い先生なのだが、小屋では「普通のオッサン」として人気が高かった。
 この先生に、私の人生が変えられた・・・

 ある日、研究室(私は繁殖の研究室)に内線電話がかかってきた。またいつもの○○先生の麻雀の誘いか、と思って取ると、電話はこの先生からで、すぐに教授室に来いという。
 また赤点か?とビビリながら部屋に行くと(実際この先生の試験は1回で通った試しがなかった)、「池上君、君、富山に行け」である。要するに富山県を受けろ、ということらしい。
 (池上を富山県に送り込むと遊びに行く時の前進基地ができるぞ、ひっひっひ)と先生が思ったかどうかは知らないが、こうして私は富山県を受け、そのまま富山県に入ってしまったのだった。
 あんまり主体性がない・・・のだが、まあ富山で剣岳を見ながら暮らすのは、自分の義務かな・・・という気持ちもあったので、別に富山に来ることについて抵抗があったわけではない。複雑ではあったが・・・

 

 当時、薬師沢の小屋に集まってきていた常連さん達が中心となって「黒部源流のイワナを愛する会」という会を立ち上げた。その頃シーズン中だろうがオフだろうが小屋に居着いていて創設メンバーのTさんの違反テント設営を手伝ったりもしていた私は、半ば半強制的にその会に入ることになり、初期のイワナ移植放流などに参加したりしていた。
 でもね。釣りはぜんぜん下手っぴなのよ、僕は。
 そのT氏が一度テンカラを教えてくれたことがあったのだけど、ものの30分で「お前はダメだ。素質がない」と見切られてしまった。
 なんでも私は「ギラギラしすぎている」んだそうな。「お前を釣っちゃるでぇ〜」という殺気を発散していると釣れないんだそうな。ああ、性欲丸出しで女の子に迫っても引っかかってくれないのと同じことだね、と納得はした。でもなぁ、「あんたのようなギラギラした中年にそういうこと言われても素直には聞けん!」というセリフが喉元まで出かかったが。
 まあ釣りはできないということで、調査釣りでは当然戦力にはならず、もっぱら移植放流の時のボッカとして働いていた。

 そういえば初期の頃、イワナに調査タグを付けるか否かで会の中で議論されていた時期があった。結局、調査のためであってもイワナを傷つけるのは忍びないという理由でタグ付けは却下されたのだが、私はその時はあまり口に出さなかったがテレメトリーをやってみたかった。
 学生時代に長良川の河口堰反対運動の一環で、サツキマスに発信器を付けて追跡するという調査に参加したことがあった。長良橋のそばでテントを張って毎日3回、堤防を車からアンテナ突きだして走ってサツキマスの居場所をプロットしていくのだが、これがまた面白かった。調査の大半に参加していたのでノウハウも少しは判ったし、黒部のイワナでそれをやったら面白かろうなぁとは思っていた。
 口に出さなかったのは、もしそいつをやろう!ということにでもなったら自分は仕事を辞めてしまうかもしれん、という危機感があったから・・・薬師沢に常駐して毎日アンテナ片手に源流を歩き回るのって、考えただけでも脳みそが融けてしまいそうである。そいつをやってしまったら、もう二度と堅気には戻れないな、と確信した。3年の山小屋生活でも十分すぎるほどだったが。

 いつのまにやら、その時のTさんやMさん、小屋番の小池さんの年齢に近くなってしまった今日この頃だけど、未だにギラギラガツガツしていたりする。

 イワナの会はもう何年も会費も払っていないし例会にも出てないし黒部源流にも入っていないのだけど、未だに会のホームページでは「仲間達」のところに名前を載せてもらってる。恐縮だ。

 また、大学では「ツキノワグマ研究グループ」なるものにも所属していた。クマ研といえば北大が有名なのだけど、その北大でヒグマの繁殖生理で学位を取って岐阜大学に来た先生が立ち上げたグループだった。繁殖の講座で卒論にその先生についてクマで論文を書くことになっていた私は、半ば半強制的に立ち上げ時に所属することになった。
 クマ研では白山山系の調査が主な活動だった。毎月白山の林道から山にごそごそ入り、クマの糞や秋は円座を調査していた。猟友会に猟に連れて行ってもらったりもしていたが、成功率は非常に低かった。8人がかりで逃げられたこともしばしばだった・・・
 卒論も最初はS村の猟友会にツキノワグマの卵巣と子宮を提供してもらい、それで論文を書く予定だったのだが、材料が全然集まらず、「もしかしたら卒業できないかも」という危機に陥ったが、急遽その先生の伝手で北海道の猟友会からエゾヒグマの材料を送ってもらい、それでなんとか片づけた。卒論のタイトルは・・・・「エゾヒグマの卵巣における卵胞閉鎖過程」だったっけ???

 2年間白山に通い続けてクマを見たのは4〜5回だったような。カモシカはもう嫌というほど見た。朝、林道に入っていってカモシカに会うと、そのカモシカはたいてい1日中こちらをつけてきた。「こいつら、こんなとこでなにしとんねん?」とでも言いたそうな顔つきでこちらを見ていた。カモシカがいるところにはクマはいないのが普通で、朝カモシカを見た日はクマを見ることは諦めねばならなかった。
 定点観測でクマとカモシカを同時に観察することもあったのだが、たいてい彼らは尾根を1本以上隔てた場所にいた。縄張り自体を棲み分けていることはなさそうに思えるのだが、やはりなんとなく避けているのだろうか。

 クマの調査で山に入ると面白そうな沢が目に付くもので、いそいそと次の週に誰かを誘ってその沢に入っていた。でも意外になんにもなくてつまらない沢だったりしたこともあったし、逆に手も足も出なくて敗退することも多々あった。ほとんどの場合、ザイルは9mm1本でハーケンやカラビナ、スリングといった物資も3枚ずつとか、そういう軽装備で突入していたので敗退率も高かった。1つめのゴルジュを苦労して突破したら次のゴルジュがさらに悪く、ハーケンも底をついて登ることも引き返すこともままならず、やむなく尾根に突入したら凄まじいブッシュで溜まらず隣の沢に逃げたら、そこはさらに悪い沢だった、ということもあった。そういう時に限ってクマに遭ったりして、後で「どこにいた?」とか聞かれてもさっぱり判らなかった。
 先週目を付けた沢に行く途中でさらに面白そうな沢を見つけ、突入してみたら非常に面白い沢だったのだが、そもそもその時持っていった地形図の範囲外の沢で後から記録を取ろうにもどの沢か判らないこともあった。ちみにその沢には後日、もう一度行こうとしたのだがどの沢か二度と判らなかった・・・
 つまり。地図もハーケンもロクに持たずに道の沢に突入するという愚挙を、その頃はしょっちゅうしていたわけで。
 完登にも記録にも全然拘っていなかったので・・・その時楽しければOKだった。

 富山に就職してしばらくは、薬師沢に居候しに行ったりカミさん連れて(まだ結婚はしてなかったが、付き合ってはいた)立山に行ったり剣に行ったりはしていた。
 ちなみに剣の一般ルートは、幾多の剣岳の経験の中で一番怖かった・・・あんなところが一般ルート??ザイル出そうよ〜。
 自分がカニの縦バイや横バイで落ちるとは夢にも思わないが、あそこを連れが通るのを見るのは怖い。岩登りのルートだったらザイル出していれば、落ちてもなんとかできる可能性が残っているのだが、縦バイ横バイだったら落ちたらそれでバイバイではないか。目の前で落ちるのを見るのは勘弁である。

 それも結婚してからはほとんど登らなくなった。すぐ子供ができたからカミさん連れては行けないし、1人で行くのもカミさんが拗ねるし、というところなのだが・・・

 それがまた登る気になったのは去年からである。
 きっかけは一昨年の平成13年に父が亡くなったこと。父が「骨をちっとばかり立山に蒔いてくれ」なんていう遺言をしていたので、昨年の秋、母と弟の家族と自分の家族を連れて立山に行った。骨は雷鳥沢のテント場の横手にちょっとだけ蒔かせてもらった。
 昭和50年に泊まった立山高原ホテルにあの時以来だから17年ぶり?に泊まり、翌日は弥陀ヶ原まで歩いて降りたのだが、その時に息子2人が予想外によく歩いたのだった。おまけに子供なりに周りの景色を見て感動しているようである。
 それを見て、「連れて行けるなあ」と思ってしまい、そうなると俄然登る気になってきたわけである。

 考えてみれば、最初に山が好きになったのも父親のおかげで場所は立山だった。
 しばらくやめていた山にまた登る気になったのも、父のことがきっかけで場所は立山、と。
 まあ人生こういうもんかいな?

 

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