続々々・高天原新道の謎
高天原新道の謎シリーズも、もういくらなんでもネタ切れと思っていたのだが、また新たな情報が入った。
1990年に高天原新道を通ったという方からメールをいただいたのだ。
以下、その方(仮にHさんとしておく)の了承を得て、そのメール中の記録を転載させていただきます。
なお、Hさん自身による記録はここにあります。
以下転載
奥黒部ヒュッテのすぐ前から入る。 『岳人』626 の志水哲也氏作成の図が、多少雑ではあっても、概略としては正しいです。私は違和感を感じません。つまり、口元のタル沢へ降りてからは、2210ピークを経由してほぼ一直線に薬師見平へ向かう、で正解です。 (写真は高天原新道、2210mピークからの薬師岳 H氏撮影) |
さて、この記録を読んで真っ先に気づくのは、今まで認識していたルートとまるで違う、ということである。
特に前半部分(奥黒部ヒュッテから薬師見平までの区間)は違いが著しい。
昭和39年に開拓されたオリジナルの高天原新道が、一度広河原付近で黒部川本流の河原に降りていて、そこから中ノタル沢(あるいはその左岸)を登って薬師見平に到達しているのに対し、この1990年ルートは奥黒部ヒュッテから登り続け、なんと2210mピークを越えて薬師見平に到達している。このルートは昭和40年代のいかなるガイドブック、地図にも出てこない。
すなわち、高天原新道は昭和59年に再整備されたとき、オリジナルとはまったく異なるルートで開拓された、と断定しても良いと思われる。
これは後半(薬師見平〜高天原)も同じで、H氏のweb記録を読むと、かなり標高が高めのところを道が通っている印象を受ける。
それは薬師見平の外れで見たペンキ印が指す方向とは非常に辻褄が合う。
実際、薬師見平と高天原は、標高がほぼ同じである。つまり薬師見平に到達したら、後は基本的に上り下りをする必然性がない。つまり登山道を付けるときには、基本的に水平を保つように道を付けていくはずである。もちろん沢を横切るときにはそうはいかず、必然的に登下降をする羽目になるのであるが、薬師見平からしばらくの間、姿見平の手前あたりまでは赤牛岳の裾を水平に巻いていくルートが最も合理的だと思う。
そんなわけで「昭和39年と59年に整備された2つの高天原新道は、実はまったくの別物」という説を提唱する。
図に描けばこんな感じ?
新旧の高天原新道 推定ルート図 |
とはいうものの、どこで分岐しているかとかは適当である。
ひとつ言えるのは、道さえまともであれば、新高天原新道の方が所要時間は短そうである。累積標高差も新ルートの方が少なそうだし、ルート的にこちらの方がかなり合理的という感じはする。
ということで、必然的に「薬師見平は元々(昭和40年頃)は別の場所を指して言う名称だった」ということにもなるのである。
参考文献
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黒部渓谷 (日本山岳名著全集3 尾瀬と鬼怒沼・黒部渓谷) |
冠松次郎 | あかね書房 | 昭和45年(昭和3年) |
2) |
黒部渓谷と雲ノ平 |
伊藤正一 | 山と渓谷社 | 昭和37年 |
3) |
立山・剣・黒部 (ブルーガイドブックス41) |
山口督・中野峻陽 | 実業之日本社 | 昭和40年 |
4) |
黒部湖・薬師・雲ノ平・黒部源流 (アルパインガイド32) |
渡辺正臣 | 山と渓谷社 | 昭和43年 |
5) |
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6) |
立山・剣・黒部・雲ノ平 (ブルーガイドブックス) |
ブルーガイドブックス編集部 | 実業之日本社 | 昭和45年 |
7) |
立山・剣・薬師岳・雲ノ平・黒部渓谷 |
渡辺正臣 | 山と渓谷社 | 昭和48年 |
8) |
槍・穂高・雲ノ平 (山と渓谷臨時増刊) |
山と渓谷社 | 昭和53年 | |
9) |
岳人 626 日本の山再発見・黒部の山々 | 東京新聞出版局 | 平成11年 | |
10) |
太郎平小屋 50周年を迎えて | 五十嶋博文 | 非売品 | 平成16年 |
11) |
岳は日に五たび色がかわる (太郎平小屋50年史別冊) |
五十嶋一晃 | 非売品 | 平成16年 |
12) |
岳人 687 山上の桃源郷 | 東京新聞出版局 | 平成16年 | |
13) |
岳人 207 黒部特集 | 東京新聞出版局 | 昭和40年 | |
14) |
山と渓谷 608 [北アルプス特集]雲ノ平と黒部源流の山 | 山と渓谷社 | 昭和61年 |