山のマナー
「山の」マナーなんてものは存在しない・・・と思う

 他のベテランの山屋さんたちのページを見ると、よく「マナー知らずの輩達」への怒りの文章が掲載されている。私があまりその手のことを書かないのは、別に私の心が広いからというわけではなく、どちらかというと私は怒られる側の立場になることが多いだけだったりして。
 また、自分もたいへんにマイペースな性格なので、人がやることもたいして気にならなかったりすることもある。
 まあ、「山のマナー」といっても、ほとんどは山以前に人間としてどうか?という類のことばかりなので、相手にしなければいいだけのことだったりするのである。

 「山のマナー」と言うより「山のルール」は確かに存在する。それも基本的にはたった1つだけである。
 「自己責任」。これだけである。他の幾多のマナーとかルールというものは、全てこの「自己責任」がベースだと思っていい。

 ・・・・・でも、これって「山の世界特有」のルールか??本来社会そのものがそうあるべきではなかったか?

 ま、社会の方は特に最近、自分のことについて他人に責任を取らせようという仕組みになりつつあるのだが、山の方はいくらその仕組みを持ち込もうとしても、「死ぬのは自分である」ということに変わりはないので、死にたくなければ自助努力をするしかないのである。死んでから遺族にがっぽり金を取らせれば良い、というのであれば好きにすればいいが。

 が、山という自然が相手では、いくら努力しようが慎重になろうが、そんなものが一瞬で吹き飛んでしまう事態は必ずあり得る。そのための「相互扶助」も山のルールというか不文律として確かにある、と思う。
 「自己責任」と「相互扶助」は一見矛盾する言葉のようだが、この2つが両立することに矛盾を感じたことはない。

 「情けは人のためならず」という言葉がある。「人に情けをかけると巡り巡って自分に帰ってくる。だから他人に情けをかけることは自分のためでもあるんだよ」という意味の言葉なのだが、それを最近は「人に情けをかけることはその人のためにならないことだから良くない」という意味に誤解されていることが多いのだとか。まあいかにもありそうな誤解ではある。
 山で何かあったときほど、この言葉が身に染みることはない。岩場から落ちれば、たまたま近くを通りかかっただけの顔も名前も知らない人が、ヤバ過ぎて過去の記録がないような場所にさえ入っていくし、雪崩に埋まれば、やはり一面識もない人が続発の恐怖に怯えながらもゾンデを突いたりするものなのだ。その人がその後、立場が逆になってピンチに陥ったときは(既に死体になっている場合も多々あるが)、やはり身も知らない人が救助に(収容に)来てくれたりするんである。
 助ける側も助けられる側も、巡り巡って1つの輪の中にいる、と思ったりすることがよくあった。
 しょせん山では(というより自然の中では)個人の力量や意志など吹けば飛ぶようなものだったりする。だから始めから他人をあてにしたり他人を頼ることは、他人の命を盾にしているのと同じである。だから自助努力、なのである。
 しかしそれを上回る事態が起きたとき、あるいは単に不注意でそれを踏み外してしまったときでも、赤の他人が寄ってたかって助けてくれるのである。もちろん自分が助ける側に回ることもあるのだ。でないと山には死体の山ができてしまう。そういう意味の相互扶助である。
 だから「自己責任」は断じて弱い者は死んでも良いという「弱肉強食」ではないし、「相互扶助」は最初から助け合いを前提とする「なれ合い」とは違う。

 そういう感覚をしっかり理解してしまえば、もう他の人に「マナー知らず」とののしられることはないと思うんだけど。

 ・・・あまり総論というか観念的なことを書くと調子が狂うので、各論に移りたい。

山の就寝時刻問題

 「マナー知らず」ということで一番話題に上ることが多いのが、「夜遅くまで騒ぎやがって」というやつである。まあ確かに眠りたいのに眠れない時ほど腹が立つことはあまりないので、それだけやり玉に挙がりやすいのは判る。
 でも、中には夜7時に就寝したのにうるさくて眠れない・・・と怒っている人もいてちょっと返答に困ったりすることも。

 明日の行程が長い、もしくは元々山に入れば暗くなるのと同時に眠る習慣である、という理由で極めて早い時間帯に就寝する必要がある場合があることは判るが、だからといって夜8時に談笑しているパーティーを怒る資格があるのか・・・?
 テント場の中には明日は下山で最後の日くらい夜更かししたい人もいる。またその日とても緊張を要する行程をこなしてきて、酒でも飲んで談笑しないことにはとても眠れない、という人もいるかもしれない。みなそれぞれの都合である。早く寝る人にだけ正義があるのではない。

 ま、確かに夜遅くまで騒いで迷惑をかける人はいる。それこそ山以前に「人としてどうなの?」というレベルの話だが、それでもここで「起きてる人」の肩を持つのは、どうも山では「寝る人」に絶対的な正義があるような受け取り方をされることが多いような気がするから。

 他でも書いたが、大学時代に夏山で定着していた真砂沢は「学生村」だった。
 みんな2週間とか3週間定着するので、そうそうきちっと夜は早く寝て、という生活はしていなかった。そもそも学生だし。あまけに翌朝撤収するパーティーは夜10時頃までバカ騒ぎをするのが通例になっていたので、だいたい毎日、夜9時か10時頃までは人の話し声がしたものである。
 でも、テント村の住人は別に気にもせずに平気で寝ていた。撤収パーティーの乱痴気騒ぎに付き合う連中もいたし、「もう眠いや」と言ってさっさとテントに入って、数十人の「脱げ〜脱げ〜」コールの隣ですやすや寝ていた者もいた。
 それが社会人パーティーが入ってくると一気に雰囲気が険悪になったものである。適当に談笑しているパーティーがいて、別にそれは我々の安眠には何の影響も与えていなかったのだが、突然「うるさい!」という怒号が響き渡ればさすがに飛び起きる。翌日、他の大学と話していたら、どうやらテント村の半分以上の住人がその声で起こされたらしい。
 真砂沢で怒鳴った経験がある人、あなたは多分周囲に多大な迷惑をかけています。

 山小屋でバイトしていたときも、混んでいるときに最初の組で食事を済ませた人が食事後寝てしまい、そこに最後の組の人が食事を済ませて上がっていったら「うるさい」と怒っている人がけっこういた。そりゃ自分勝手というものだろう。
 小屋では「うるさくて眠れない」と苦情を持ち込む人はかなりいた。ごく希にほんとにうるさくて迷惑な人がいたため、という事例もあったが、大半はちょっとした話し声とか発電機の音とか、中には「沢の音がうるさくて眠れない」と苦情を言ってくる人もいた。沢の音に苦情を言う人には最初は思わず絶句してしまったが、シーズンに5〜6人はいた。ちょっと山に登るには修行が足りんね。

 むろん自分が怒鳴られたこともあるのだが、そういう当事者になってしまった例は論評を避けるとしても、私が遭遇した「うるさい!」という揉め事の7割くらいは単に「あんたの修行が足りないんだよ」と言いたくなるか「あんたの方がよっぽどうるさい」と言いたくなる事例だったぞ。

 夜遅くにバカ騒ぎをしている連中はともかくとして、気を遣ってヒソヒソ声で話しているのに、それに対して怒るのは、まあ多くは身勝手というものだしそれよりエネルギーの浪費だと思う。
 「ヒソヒソ声はよけい気になる」と言う人もいるが、まあ確かにそれは判らないでもないけど修行が足りん。周りに人っ子1人いないような場所で幕営していてもヒソヒソ声はいくらでも聞こえるよ。至近距離で突然シカが大声で鳴いたりするときもある。クマの足音がした時に食糧をテントの中に出しっぱなしな事に気づくときもある。冬山で猛吹雪の中でビバークしているとヒソヒソ声どころか坊主の読経の声が聞こえたりもする。滝谷避難小屋で寝ていたら、深夜に突然あらぬ方角から「俺のアイゼンはぁ〜?」とはっきり聞こえたりする。
 そんなのに比べれば、「近くに人がいるから声がする」ことはどんなに心安らぐか・・・

 ま、眠れなくても横になっているだけでちゃんと体力は回復する。
 そのことを身体で知っていれば、多少うるさくて眠れなくても腹も立たずに穏やかな気持ちでいれる。そうすればそのうちに眠れたりするんである。怒ればもうそれで眠れないのは当然である。そうやって墓穴を掘っていくのは、半分は自分のせいである。

 ま、これは別に「寝ている人のことは気にしなくて良い」ということではない。
 周りのテントの灯りが全部消えているのに、自分たちだけ大声で酒盛りできる神経は普通ではない。山小屋でみんな静かに横になっているのに、自分たちだけゲラゲラ笑っているのは、これも普通の神経ではない。そんなの常識でしょ?

違反テント問題 

 上の就寝時間問題はどちらかというとマナー以前の常識の問題なのだが、これもマナーの問題ではない。法律の問題である。
 「違反テント」とは国立公園内のキャンプ指定地以外で幕営することで、特に山域の広さの割にキャンプ指定地が少ない黒部川源流域で違反者が多かった。今でも多いと思う。山小屋で働いているときは、違反テント者を捕捉して「山小屋で泊まってください」と言うのが重点業務だった。
 確かに山小屋の宿泊費は高いし、高天原や赤木沢に行く計画を立てた場合、テント泊では計画が立てにくい。黒部川には幕営好適地がいくらでもあるので、違反を承知で指定地以外で幕営したくなる気持ちもよく判る。沢筋でのキャンプは楽しいし。
 しかし、国立公園内での指定地以外の幕営は法律違反である。ほんとはこの一言だけで他に説明は必要ない。

 黒部川源流域で違反テントを張る者のよく聞く言い訳に、「上ノ廊下では指定地以外での幕営が許されているのに、ここ(薬師沢出合い上流の中州とか兎平)でダメだというのはおかしい」というのがあった。これは決定的な勘違い(それもすこぶる手前勝手な)を冒している。上ノ廊下中での幕営は許されているわけではない。黙認されているだけである。事情を考えれば当然である。上ノ廊下を遡行する登山者は、1日で薬師沢小屋まで抜けてくることは不可能だし、途中に指定地を設置しても誰も管理できない。だから黙認されているだけで許されているのではない。
 なのでこのへ理屈を振り回すと、「では、上ノ廊下は入山禁止に」となっても仕方ない。

 薬師沢から上流も、薬師沢小屋から1日で三俣までちゃんと行ける。なのでこの間で幕営する際に上ノ廊下のような「1日では届かない」という言い訳をすることは不可能である。この周辺は1日で山小屋やキャンプ指定地に届かない行程はないのだから。

 登山者が登る山を決める自由(上ノ廊下に行きたい)は、別にどこにも保証されているものではない。国立公園の自然保護の趣旨の方が優先度が高く、それに反すれば剥奪され得るものである。現に大半の登山道ではルートを外れることは許されないし、指定地以外で幕営してはならないというのはそれとまったく同レベルの話なのである。
 近くに山小屋がありながら指定地以外で幕営する行為は、登山道を外れてお花畑にズカズカと踏み込む行為とまったく同じである。そういう人は山には来ないでください。

 そういう私も三の窓ではよく幕営した。これも上ノ廊下中の幕営と同じで、黙認されている幕営適地である。三の窓に幕営せず、真砂沢からチンネを日帰りすることはたいへんにハードで、日があるうちに帰ってくることは難しい。チンネ日帰りの場合はたいてい朝4時半くらいから行動を開始し、真砂沢に帰ってくるのはたいてい夜8時前にはなっていた。それも長治郎雪渓の上部の状態が悪いときはまず不可能だった。
 しかもこの行程だとチンネに行っても1本しかやれない。それも左稜線などのロングルートは無理だった。
 早朝や日没後の雪渓は固く締まって危険だし、私達は夏山にはアイゼンを持っていかなかったのでなおさらだった。
 それでもよく無理してチンネ日帰りを決行したのは、別に「三の窓は指定地ではないから幕営してはいけない」という法律遵守の気持ちからではなく、単に三の窓の幕営地が不快だったからである。別名「クソの窓」である。
 場所としてはかなり幕営好適地なのだが、なんせ管理されていないものだから利用者が好き勝手な場所で排便する。中には池ノ谷ガリーのチンネから下りてくるルートのど真ん中に堂々と排便している者もいて、うっかり便を踏んでしまって情けない思いをしたことも1回ではない。好サイトの真ん中に便が転がっていたり、それに気づかず便の上にテントを張ってしまったパーティーがいたり、いろいろ情けない話は数多くある。

 三の窓や上ノ廊下の中の幕営適地などは、利用する人間も荒れて被害を被る人間も同じクライマーである。だからある意味「自業自得」と言えないこともない。薬師沢小屋を素通りして黒部川で違反テントを張る人間も、上ノ廊下を遡行してきたり赤木沢や黒部川源流を目指す、いわゆる「一般登山者」ではないクライマーや、クライマーの側に一歩踏み出している人間が多い。
 してみると、一般登山者よりクライマーの方がマナーが悪い、ということは言えるな。判っててやってる分、よけい悪質でもある。
 「山は自分たちのものだ」と思い上がるために技術を磨いてきたわけだ、そういう人達は。

 三の窓や上ノ廊下といった場所では、「自分たちのこの行為は黙認されているだけ」ということを肝に銘じて、極力その場にインパクトを与えない方法で幕営し、近くに山小屋や指定地がある場所ではそれを利用する、これが当然の姿勢でしょ?

もっとディープな宗教問題

 クライマー(自分のその端くれだったが)の悪口を書いてしまったのでついでである。
 私はいわゆる「フリークライミング」にはあまり興味も縁もなく、第一生涯最高グレードが5.8で終わっているので(これから更新する可能性もないわけではない?ないだろうなぁ)、フリークライミングについて語る資格はない。

 私が現役の頃は、「フリークライミング」という言葉は、単にエイドクライミング(人工登攀)と対をなす意味しかなく、VやWでも「フリー」だった。今言う「フリークライミング」は当時は「ハードフリー」と言っていた記憶がある。
 ちょうどフリークライミングが流行始めた時期で、例えば当時持っていた登山大系なども全てRCCグレードで表記されている。御在所岳の兎の耳の正面ルートも「Y−」と表記されていたりする。これはデシマルグレードでは5.8なのであるが(ここを登ったのが最高到達グレード)。

 そういう時期で、私にとってのロッククライミングはあくまでも剱岳であり穂高(あまり行ってないけど)であり北岳バットレス(結局行かずじまいだったけど)で、御在所でのフリークライミングは、あくまでそのための練習、という意味以上のものではなかった。
 それは他の大多数のクライマーにとってもそうだったのだが、ぼちぼち「フリークライミング専門」の者が出始め、当時は「スキーと同じようにクライミングも登山から独立して新しいスポーツになっていくんだろうな」と思ったものである。そのとおりになったわけだが。
 その頃からそろそろ「?」と思うような感覚のズレが感じられるようになった。まあ要するにフリー専門の連中は好きになれなかったわけである。

 最初におかしいなと思ったのは、彼らが「岩にハーケンを打ってはいけない」と言い出したときかな。何故かというと「岩を傷つけるから」なんだそうである。それって何か変である。
 ハーケンを打ったらそこからその壁の「生態系」が崩れてやがて壁全体が崩壊するとでも言うの?その壁の「景観」が損なわれるか?
 確かに美しいクラックルートにベタッとハーケンが打たれていたら「台無しだぁ」と思う。その気持ちはよく判る。でもそれはあくまでクライマーの「美意識」の問題であり、それを「自然保護」にすり替えてあたかも何か社会的な意義があるかのように憤慨するのは、鼻について嫌なだけ。
 それにしてもハーケンとは一にも二にも「安全」のためのアイテムであり、それより美意識の方が優先するような雰囲気を感じ取ったとき、「ああ、この世界は嫌だな」と思った。

 最近はさすがにそこまで自分勝手にすり替えた言い方をする人は少ないかもしれない。
 最近の某雑誌に「クライミングを楽しむ」という特集が組まれていた。その中である有名クライマーが「おおらかにクライミングを楽しもう」という趣旨の記事を書いていた。でも、記事の内容は「おおらか」からはかけ離れたものだった。
 そこではさすがに「ハーケンを打つ」という行為を「自然破壊」というようなすり替えの言い方はされていない。「文化の無視」だと言っている。まあそれはもっと平たく言えば「ハーケン打たれると俺達が嫌な思いをするんだよ」と言っているのと同じだから、そこにもまた社会的な意義を持たせようとしているあたりが鼻にはつくものの、まだ素直な言い方かもしれない。
 「文化」ということで言えば、確かにその文化を開拓してきた人達は淋しいだろうけど、成立した文化は日々変遷していくもので、そこには開拓者の意志が入り込む余地はないのが世の常である。往々にして開拓者は「これは俺達のもの」と後々まで主張しがちだが、自分たちも誰かが開拓してその手を放れてしまったものの上にどこかで乗っていることを忘れている。今時「ゴルフは貴族のスポーツなんだから、家のローンを必死こいて払っている日本の平民にやる資格はない」とか本気で言う人、いないでしょ?

 結局、「おおらか」と言いながらも記事全体は「俺達のルールに従うのなら仲間に入れてやるよ」というニュアンスがプンプン臭う、非常に読んでいて嫌な気分になるものだったのだが、気になったのはやはりハーケン問題だった。
 ま、どんなルートでも気軽にハーケン打って良い、というつもりはないし、やはり好ルートに余計なハーケンが打たれれば「台無しになっちゃった」と思う方なので、どちらかと言えば感覚的にはまだ筆者の方に近いはずなのだが、私はその気持ちはあくまでも「個人的感情」であって(その感情を持つ人間が多く存在しても)、そこに「文化の破壊」という社会的な意義付けを持ち込むのは嫌らしいことだ、という認識くらいはある。それをもって「マナー違反」というのは、「自分たちが正義」という前提を当然のこととして疑わない人にしか言えない論法ではないか?
 フリーのルートに気軽にハーケンを打つ人は、確かにクライミングの開拓に携わってきた人達の気持ちを傷つけている。でもそれは人と人の関係であって、社会正義に反しているという意味のマナー違反という言葉を使うのは、私ならちょっと気が引ける。私の気持ちを傷つけられても、それを即社会悪とすり替えるわけにはいかんでしょ。
 何よりハーケンは安全のためのアイテムであり、安全よりマナー(というより)が優先する、と言うのなら、それはもはやスポーツではなく宗教である。

 その某雑誌、その前にも岩稜でのコンティニュアスが解説されていたりして、かなり疑問に思った。あらゆる確保技術の中でも最難の技術を雑誌で解説してしまって良いのだろうか?
 対象はエキスパートなのだろうが、大学山岳部でそこそこやっていた私も岩稜でコンテは選択しない。初心者を連れているという設定だったが、それでもやるなら例え一般ルートでもビレイを取ってスタカットでやるだろうし、コンテでやるくらいならザイルは出さない、と思う。
 さらに言えば、例えば今だったら岩稜のバリエーションルート(例えば北鎌尾根とか剱の八ツ峰とか)を単独で行く自信はないので、誰かガイドを雇って登ろうとすると仮定する。そういう登り方はありだと思うし、いつか登ってみたいと思いつつも結局行く機会がなかった北岳バットレスの第四尾根あたりを今やろうとすれば、ガイド付きしか選択肢はないだろう。
 例えば北鎌尾根をガイドを雇って登っていたとして、ちょっと嫌らしい場所に来て「ここは確保が欲しい」と私が感じたとき、もしガイドがコンテを選択したら、私はそのガイドは二度と雇わないと思う。
 その記事の対象はよっぽどのエキスパートなのだが、その人達に雑誌での解説が必要だろうか?何より私程度の中途半端なレベルの人間が読んでやってみようと思ったらどうする??

 というわけで、「ええっ?」と思った矢先のこの記事だったので、なんだかこの雑誌自体が好きでなくなってしまった。技術的に詳しい記事が多く、わりと好きだった雑誌なのだが、そういうわけで最近は読んでいない。

 

 

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