エヴェレスト 神々の山嶺

 

 実はあまり観たい!と思っていたわけじゃないんだよね。原作の「神々の山嶺」も未読だったし、そもそも夢枕獏は好きな作家ではなかったからなおさら、映画が公開されたからって読もう、という気にもならなかったし。
 でもカミさんが見たいって言うから観てきた。原作は未読のままである。

 うーん、この映画、岡田准一や阿部寛に釣られて来た堅気の人に理解してもらえるのか?

 映像はヒマラヤなので美しくないはずがないのだが、それでも木村大作が撮った剱岳の方が遥かにスケール感もあるし美しい。

 羽生や深町の装備も、8.000m級の装備には見えないな〜。どう見ても6,000、無理しても7,000mあるかないかくらいのウエアなんじゃ?と思ったら、案の定、ロケは5,000mほどの地点で撮っていたらしい。
 余談だがこの映画、「実際にエベレストで撮りました」って盛んに宣伝してるけど、5,000mったらベースキャンプより低い標高だぞ。それをエベレストで撮った、と言っていいの??

 このウエアの問題は、その昔バーティカルリミットを見たときにも思った。これはやはりヒマラヤのK2が舞台の映画なんだが、登場人物のウエアはどう見ても3,000m級にしか見えないなぁ、と思って観ていたのだが、後でDVDの特典映像を見ていたら(買ったのだw)、やはりニュージーランドの3,000m級の山で撮影していた。

 製作者の面々におかれましては、そのウエア問題をきちんと辻褄を合わせよう、という気は起きないのですか?

 いろんな時代の回想が出てくるのだけど、装備とかはちゃんと時代考証されていて好感を持ったのに。

 

以下、ネタばれだよー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、特に原作未読の堅気の人には、深町の心情の変化などは到底理解されないだろうな、と思いながら見ていたのだが、それは置いといて。

 クライマックスシーンではズッコケて椅子からずり落ちそうになった。

 サウスコルのノーマルルートから登った深町と、南西壁をアタックしていた羽生と、ノースコル経由で登頂を目指していたマロリーが、なぜ一堂に会するのだ???

 ちなみにマロリーは北壁で遺体が発見されているのだが、原作はマロリーの遺体発見前に書かれていた事情を差し引いても、ネパール側に遺体がある、ということを書けるわきゃないだろう。もしそうなら、自動的にマロリーは登頂した、ということに。

 このシーンであまりに大混乱したので、以後のシーンは記憶に薄い

 聞けばこのシーン、羽生の遺体役を阿部寛自ら演じたらしい。演じた、と言っても微動だにせずに一点を凝視するだけだが。
 映画のパンフには、阿部が遺体役をやらなかったら岡田准一のあの「乗り移れ」演技があれほど真に迫るものにならなかった、と言っているが、そういうもんじゃなかろうよ。
 長期間冷凍保存されている死体って、妙に人形っぽくなるのだから(肌などの質感が非常にプラスチッキーになる)、あのシーンは人形を用意した方がまだ「リアル」だったはず。それに、海の向こうじゃCGに向かって役者が迫真の演技をしているんだから、人形相手じゃまともに演技できません、なんて岡田准一が言ったとも思えないし。

 あのシーン、死体のはずの羽生が一瞬、瞬きしたように感じたんだけど、誰か確認してください
 (どうせDVDやブルーレイになったときは修正されるだろうし)

 ま、そのマロリーの遺体の位置問題は、原作を読んだら解決した。
 深町はチベット側からノースコル経由のルートで登頂を目指していたんだね。それならマロリーの遺体と遭遇したのは判る。
 問題は羽生なのだけど、まあ十分納得はできないにしろ、下山時に迷ったか何かでこちら側に来てしまった、つまり羽生は南西壁を登ったんだな、という記述になっている。多少強引ではあるけれど、まあいい。

 でも映画では、深町ははっきりサウスコル経由で登っているんだから、いかなる言い訳も通用しないけど。

 位置関係にはっきりした矛盾があるのって、山岳映画としては落第だなぁ
 あの「岳」も、映画は論評にも値しないクソ映画だったけど、原作の方もあまり好きになれないのもそこなんである。エピソードごとに「穂高」の位置関係がコロコロ変わるのが受け入れられない。
 山岳映画における「山の姿=位置関係」って、ミステリーにおけるトリック、SFにおける科学設定、時代劇における時代考証と同じくらい大事なものだと思うけど、いかに。

 

 それも置いといて(爆)

 映画を見ながらちょっと違うことを考えていた。

 この映画、羽生のモデルが実在したアルピニストの森田勝氏であることは周知のことなのだが、森田勝氏は「狼は帰らず」という伝記というかドキュメントがある。それはほぼリアルタイムの高校時代に読んだ。

 細かな内容はもう記憶から薄れているが、彼のエピソードだけをおぼろげに思い出すと、その印象ははっきり言うと「人間のクズ」なんだよね。まあ実際、映画でも羽生はけっこうクズっぷりを発揮していたけど、それでも私が森田氏に持っているイメージからすると、ずいぶんマイルドになったものだ、と思うほどである。
 判りやすいのは、森田勝をwikiで読むと、見事なクズっぷりだよ。エピソードの羅列がこれほど効果的とは。

 高校〜大学と山にいる間に、いろんな人と出逢ったけど、似たような人は他にもいた。好き嫌いで言えばはっきり大嫌いとしか言いようがない人たちというか(笑)
 でも山だけじゃなくて他の世界にもいるんだよね、そういう人たち。オートバイでサーキットを出入りしていた頃に出会った、後に全日本クラスまでは上がっていったレーサーの卵とか。残念ながら世界には通用しなかったけど。
 ま、F1なんかにゃそういう連中がゴロゴロいるけど。

 どんな人たちか、言葉で説明するのは難しいけど、ひとつの類型を挙げるなら、「圧倒されるほどの巨大なエゴを持ち、それを振り回すことに何の躊躇もてらいも罪悪感もない人」ってことになるか。

 山に限らず、どの世界でも頂点を極めた人、あるいはその頂点を目指している人にはある程度共通する印象がある。

 そういう人たちって、遠くから見ると人間のクズ以外の何者でもないのだけど、ごく近くで対峙すると、ものすごく魅力的に見えてしまうことがあるのだ。
 遠くから見たときのクズと近くで対峙した時の魅力、どちらが真実かなんてことはどうでも良い。多分どちらも真実だから。
 でも間違いなく言える、と思うのは、対峙した時に魅力的に見えてしまうのは、自分が彼に呑まれているから、だと思う。

 「狼は帰らず」を読んだときに、森田勝を非常に魅力的な人物に思えてしまったのは、これを書いた佐瀬稔という人が、森田氏に呑まれている状態で書いたから。ついでに言えば夢枕獏の羽生が魅力的に見えるとすれば、夢枕獏が森田氏に呑まれているから。
 意地の悪い見方をすれば、ね。

 呑まれると巻き込まれて踏み台にされる、というわけで、むちゃくちゃ意地の悪い見方をすれば、その結果、森田氏がとても魅力的な人物であるかのようなドキュメントや創作物が世に出るわけ。
 むろん森田氏はそんなこと、計算も期待もしていない。していないから魅力的に見える。つもり呑まれるわけで。

 呑まれた結果、社会から評価される創作物を生み出せた佐瀬氏や夢枕獏は幸せな部類に入るだろうけど、例えば映画の中の登場人物であれば鬼スラを一緒に登攀した井上?とか、岸文太郎はともかくとして羽生に人生を狂わされっぱなしの岸涼子とか、損して酷い目に遭っている人間の方が圧倒的に多いんだよな。

 20代前半で、世の中には自分が逆立ちしても勝てないパワーを持った人間がいる、ということを知った。それは登山の技術がどうのといった話ではなく、対峙すると目も眩むほどのエゴを何の遠慮もなく振り回す人には、どうやったって勝ち目はない、ということ。

 問題なのは、自分自身も世の中の人間をすっぱり半分に分けると、多分間違いなくそっち側の人間なんだ、ということ。
 でも、こんな巨大なエゴそのものを持ち合わせていないし、そのちっぽけなエゴすら何の遠慮も後ろめたさもなく振り回すメンタリティも持ち合わせていない。
 つまり自分が逆立ちしても勝てない人間がいる、下手にそういう人間と対峙すると巻き込まれて自分を見失って踏み台にされる、ということを20代前半で思い知ったわけ。人を踏み台にするのは良いけど踏み台にされるのは嫌ぢゃ、と思うあたりが既に「そっち側の人間」である証拠なのだが。
 だからそっち側でもラスボス級の大物がひしめく世界には深入りしない方が良い、ということを人生の指針にしたわけさ(笑)
 こっち側の世界なら、たまにそっち側の人間がいてもまだ勝負できるレベルなので、こっち側で他人を踏み台にしてた方が良いな、と思った次第です(爆)

 山の世界では面識はないけど、俺の中ではずっと森田勝がラスボスだったので、この映画はそういう意味で感慨深かった。

 だって深町なんて典型的な「呑まれた人」だよ。はっきりしているのは、彼は自分を見失っている
 それで最終的にプラスになるかマイナスになるかは、映画で描かれた後の話になるので何とも言えないが。でも自分を見失った状態でやったことが最終的にプラスになることはあまりない気がするのだけど?

 ということを久しぶりに思い出しながら、この映画を見ていた次第です。

 

 

Back to up