山での食事

 私は山で食べるものにはまったく拘らない方である。早い話、3食カロリーメイトが3日くらい続いても、たぶん平気だ。
 それはまあとりもなおさず、普段の生活でも食べるものにはあまり拘らない、ということでもあるかもしれない。それなりに拘っているつもりはあるのだが・・・

 学生の時、親に内緒で自動二輪の免許を取った時は仕送りを使い込んだ。おかげで金が全くなく、3週間をパンの耳で食いつなぐハメになった。
 パンの耳って、パン屋さんに頼めばただでもらえるのである。金を払ってもせいぜい10円なのである。知ってた?
 パン屋のおばちゃんは「小鳥のエサですか〜?」と微笑みながらパンの耳をくれたのであるが、何を隠そう私のエサだった。マヨネーズ付けて3日、油と砂糖で炒めて3日、油で揚げて3日。さすがにパンの耳には飽きたので同級生のアパートを訪ね、「料理してやるから食わせてくれ〜」と頼み込んで食わせてもらい、1日息継ぎ。(この手はその後、マネするやつが続出した) さらに余った卵を貰って帰り、パンの耳をフレンチトーストにして3日食いつないだりしていた。
 後に上級生になると、あちこちの研究室に出入りできるのでなんとなく酒で空腹を誤魔化したり、牛の解剖があれば肉が手に入るし(ただしババ牛なのでゴムのように固くて味はない)食用ガエルも持って帰って料理したりしていた。食用ガエルは2年生の頃、実習で余ったカエルを大学の中庭にある池に放したら大繁殖してしまい、以後たびたび獣医学科生の飢えを凌ぐ役に立ったらしい。(私も数回カエル獲りに出かけた)
 私ではないが、細菌の培養に使う寒天培地を食ったやつもいるらしい。ま、確かに栄養は満点だが・・・味付ければ美味いかも。
 ちなみに私が馬刺の味を覚えたのは、馬の解剖の時だった・・・

 という口に入るものならなんだって食う人間が、高校の時は「食糧長」で、ほとんどの山行の食糧計画を組んでいたのである。不幸だ。
 高校2年の秋の池小屋山〜明神平の時、昼食に大福4個という食糧計画を組んで顰蹙を買ったのも、やはり私だった。私もあれは苦しんだが。

高野マーボ豆腐事件

 大学の夏山合宿も1年生の時は私が食糧計画を組んだ。
 その年は3週間の剱定着から三俣〜新穂高まで縦走する計画だった。合計4週間である。スイカ1個とか油も担ぎ上げてテンプラとか、無節操な食糧計画を立てまくったが、さすがに縦走に入るとカタツムリよろしく全てを毎日担いで歩くわけで、そうそうムチャな計画も立てることができない。(ただしテンプラはよその大学にかなりウケたらしく、ついには八ツ峰の6峰ピーク上で天ぷらを揚げるパーティーまで現れた)
 その中で唯一頑張って組んだメニューが、最終日の三俣の夜の食事で、それが「麻婆豆腐」だった。豆腐をどうやって上げるの、という問題については、山小屋のバイト経験から「ハウス本豆腐」という粉末の豆腐が存在することを知っていたし、これがまたちゃんと作れば冷や奴で食べても美味いほどのデキになる、ということも知っていた。事実、太郎小屋系列では今でも夕食のメニューで豆腐が出てくることがあるはずだが、これは全て本豆腐である。
 で、出発前日、いそいそと買い出しに出かけたわけだが、その時私の目に「乾燥豆腐」が飛び込んできた。えらく軽い。手間もかからないしこれならGoodだと、よく確かめもしないでそいつを買ったのだが・・・・

 さて、月日は流れ(4週間)、その三俣の夜がやってきた。
 折しも台風が接近しており、中部山岳一帯は既に暴風域に入っていた。とんでもない風が吹き(三俣周辺はただでさえ風が強い)、人間を2人入れたままのテントがコロコロと黒部源流に吹き飛ばされたりしている日だった。
 私達のテントはハイマツの間に張ったので、外を吹きすさぶ暴風とはほぼ無縁の穏やかな夜だった。この日は4週間に及ぶ山行の最終日であり、また私が翌日からパーティーと別れて高天原の小屋に居候に入るためのお別れ会も兼ねていた。(1年生の時から単独行動とっていたんである)
 さて、ではでは乾坤一擲、麻婆豆腐をご馳走しよう、とお湯で乾燥豆腐を戻してみると・・・・それはただの高野豆腐だった。
 作ってはみたのだが・・・これは不味い。カエルでも食う私にもちょっと食えない不味さであった。(ちなみにカエルは非常に美味い)
 「最後の夜がこんなので納得いくか!?」と怒り狂った私達は(怒りの矛先が私に向いていたのは言うまでもないけど)、一転、三俣山荘のスカイレストランに赴き、そこで夕食をとることにした。

 だがテントを出てハイマツから頭を出せば、そこは40mクラスの風が吹き荒れる暴風域である。三俣山荘までにはハイマツも何もない吹き通しを30mはいかねばならぬ。匍伏前進で少し進んでは見たものの、すぐに身体が起こされてコロコロと転ばされてしまう。こりゃどうにもならん・・・
 そこで剱からそのまま持ってきていた登攀道具が1週間振りに登場した。
 ヘルメットを被り、ハーネスを装着してアンザイレンし、ハイマツの枝にアンカーを取ってアンザイレンし、ピッケルとバイルを両手に持ち、「匍伏ダブルアックス」でジリジリと三俣山荘へ・・・アイゼンも着けたかったのだが、そもそも持ってきていなかった(夏の剣にアイゼンを持っていったことがない)ので浮き上がる足を押さえるのが辛かった。
 こうしてトップが合宿中最も困難なピッチのリードを終え、三俣山荘のスカイレストランに上がる階段の手すりでビレイを取ったのだが、あっという間に手すりごと吹き飛ばされてしまったのは内緒である。(もう時効だろう・・・)
 ま、5〜6m吹き飛ばされたリーダーも、ハイマツに突っ込んでなんとか事なきを得てビレイを取り直し、ようやく4人全員が三俣山荘に辿り着いたのであった。もう夜の7時を回っていたのでスカイレストランには客は誰もいなかった。主の伊藤正一さんと黒部の山賊で有名な鬼窪さんと、もう1人バイトがいた。完全装備で顔面血だらけで暴風の中、外の階段を登ってきて「な・・なにか食わせてください」と言った4人連れ、そうとう不気味だったろう。
 こうして私達はようやくまともな食事にありつけた・・・・はずだったのだが・・・・
 しかーし!その飯が不味かったのだぁ!
 冷食を温めるだけのメニュー、というのはまあ許す、としても中がまだ凍ったままというのは許せん!!!
 ・・・・私達があんまり不気味だったので慌てたのだろうか・・・?
 ともあれ、私達は歯を食いしばりながら、またアンザイレンしてテントに戻ったのであった。

ラーメン半分下さい事件

 この三俣山荘麻婆豆腐事件の2週間後のことである。
 あの翌日、メンバーと別れて1人で高天原山荘に下り、高天の小屋や薬師沢の小屋で居候生活を送っていた私にも、ついに下山の日がやってきた。思えば室堂から入山して実に6週間目の下山である。
 荷物は重かった。たぶん30kgは越えていたはず。中身は特に団体装備はひどくちぐはぐである。ザイルも1本持っていたしカラビナ類もずいぶんたくさん持っていた。ガソリンはまだ1L持っていたがコンロはガスコンロ1台のみ。しかもガスボンベはなし。やたらでかい鍋が1つと家型テントのポール。ツェルト。他にも何かあったような・・・

 問題は金がなかったことだった。
 新穂高からの交通費を除くと300円しかなかった。かなりピンチである。なので途中で小屋泊まりはできない。幕営も家型テントのポールとツェルトではどうにもならない。よって高天原から新穂高まで、1日で下山するしか手はなかった。
 朝、小屋を出る時に小屋番の大山さんにビスケットを1箱もらった。これが食糧の全てだった。(金がないことは話してなかった)
 「新穂高まで下山するなら早立ちすれば」と大山さんは言ってくれたが、なんせ働かずに毎日ブラブラしている私を、大山さんはかなり気にくわなかった様子だったので(そりゃ居候だもん)、最後の日くらい働くかと朝の掃除を手伝ってから出発したので、小屋を出たのは午前7時半を回っていた。
 2週間振りの30kgフルロードはかなりきつく感じたが、岩苔乗越でついつい名残惜しくて鷲羽岳経由で三俣に行ったりしていたので、双六を通過した時点で午後3時を回っていた。その頃にはもうかなりシャリバテがきていた。空腹でフラフラだった。
 なんとか這うように鏡平に辿り着いたのが、午後5時半だった。鏡池には槍ヶ岳が綺麗な姿を落としていて、小屋の前には夕食を終えた人が30人くらい集まっていた。でかい荷物を担いでフラフラと現れた私に、なんとその30人が拍手で迎えてくれたのだった。「お疲れさま〜!」って。
 いや・・ここで泊まりたいのはやまやまなんだけど・・・新穂高まで行くんですよ・・・と弱々しく言う私にみな驚いて、「え〜っ?この時間から??どうして?」と聞くのだが(そりゃそうだ、もう9月に入っていたので5時半と言えばけっこう暗くなり始めている)、「金がないから」とは何故か言えず、「もう学校が始まっちゃうから」などと見栄を張る私だった。学校なんてもう1週間も前から始まっていたのだが。

 それでも一度荷物を下ろしてしまうと、何か口に入れないことにはザックを担ぐ元気もない。ちなみに朝もらったビスケットはまだ数枚残していた。どんな時でも山を降りるまでは手持ちの食糧は絶対ゼロにしてはいけないのである。最後の食糧を食べる時は、それは既に遭難している時である。
 なのでビスケット以外の食糧を何か小屋から仕入れようとフラフラと小屋の売店に向かったのだが、山小屋だもの、300円ではなんにも買えないのである。カップラーメンすら500円である。しばらく売店を恨めしげに見ていた私は、ついに言ってしまった。
 「300円でカップラーメン、半分だけもらえせんか?」
 しばらく周囲が静寂に包まれた、ように感じた。目の前のバイトは(俺と同じ学生だ、たぶん)目を白黒させて何も言わない。
 すると1人のおばちゃんがつつと私のそばに来て、黙って私の手に200円握らせてくれた。驚いておばちゃんの顔を見たら、「いいのよ」と首を振ってそっと両手で私の手を包んだ。こうして私は1杯のラーメンにありつけたのだった。
 何故か30人ほどの小屋の客に静かに見守られながらラーメンを貪り食い、なぜか拍手で見送られながら小屋を後にしたのであった。

 ラーメンを食べて元気が出たのは最初の30分だった。下がりきった血糖値はラーメン1杯では回復せず、「汁粉にすれば良かった・・・」と後悔しながらフラフラとワサビ平に向かって降りていった。道のそばに野イチゴがけっこうあり、それをつまみながら下山していたが、途中で真っ暗になってしまい、野イチゴも見つけられなくなってしまった。
 ワサビ平の小屋に着いた頃はもう真っ暗だった。夜8時を回っていたように思う。もう9月に入っていたせいか小屋は営業していなくて、軒下にツェルトを張ってその日はそこで、となってしまった。最後のビスケット数枚も「もうここは下界だし」と自分に言い訳しながら食ってしまった。

 辛かったのは翌日である。
 もう食糧は何もない。新穂高温泉に着いてバスの切符を買い、高山駅で岐阜までの切符を買うと、財布の中には10円玉が数枚しか残っていなかった。
 その時は6週間振りに「歩かなくても移動できる」ことにホッとしきっていたが、試練は岐阜に着いてからだったのである。
 要するに今まで気づかなかったが、アパートまでのバス代がないのである。朝から何も食べていない身体で、30kgのザックを担ぎ、アパートまでの6kmの道のりをとぼとぼと歩く・・・のだがさすがに行き倒れそうになった。
 途中によく通っていた餃子の王将があったので「何か食わせてくれ」と転がり込んで行き倒れずに済んだのだが、店の人は最初私が誰か判らなかったらしい。汚いし臭いし、まあ営業妨害もいいところだったろうな。王将でツケで食えるとは知らなかった・・・
 すんでのところで町中で遭難するところだった。
 今から19年前、私が19歳の頃の話であった。

自販機の下を漁るの巻

 高校2年の秋、山岳部のY氏と南鈴鹿の縦走を試みた。
 仙ヶ岳から鎌ヶ岳、という行程だった。
 当時すっかり夜遊び癖がついていた私達は、土曜日の夕方から歩きだし、田圃の中のアプローチの道で夜を迎え、そのまま夜道を歩いて仙ヶ岳の直下まで登った。
 適当な稜線でテントを張り、酒盛りしていい気分で崖から立ち小便などしていたが、夜が明けるとかなり高度感がある壁の縁に幕営していたことが判って驚く一幕もあったのだが、まあそのことは本題ではない。
 問題は「水がない」ということだった。昨夜登山口で水筒に入れたのが2人で4L、昨夜あまり深く考えずに良い調子で飲んだり料理に使ったりしていたので、朝の時点で2人合わせて500ml少々しかなかった。
 大学時代になってからは水場がない山にもけっこう行ったし、そもそも冬山では水は燃料と引き替えにしか手に入らないので「節水モード」も覚え、4Lの水があれば普通に2人が2日間行動できるくらいの生活技術も身につけたのだが、当時はそんな経験もなく、ましてメインフィールドにしている比良は稜線から少し下ればたいてい水は確保できたので、「節水モード」の生活技術は毛ほどもなかった。
 なので、朝になって2人で500mlの水しかない、と判明した時点で少し狼狽えたのだが、まあ行く手に水場もあるだろう、ということで鎌ヶ岳に向かって出発したのだった。

 しかーし!行けども行けども水場はない。登山地図上唯一の水場マークがある場所も枯れていて水は手に入らなかった。
 縦走中、鞍部に着くたびに両側の谷を手分けして探したのだが、やはり水場はなかった。
 その日は10月だというのにカンカン照りの暑い日で、500mlの水は午前中に飲み干してしまい、後はひたすら喉の渇きと戦いながら歩くしかなかった。
 それも今ではどうか知らないが、当時の南鈴鹿の稜線は背の丈ほどもある笹ヤブに覆われていて、下手すると口の中に笹の葉や木の枝が飛び込んでくるのだが、カラカラに乾いた口ではそれを排除することもままならない。
 そのうちY氏が急になにやらしゃがみ込んでゴソゴソしだしたかと思うと、こちらを振り返って「この葉っぱ、しがむと汁気が出てくるでぇ」と口の周りを緑色にしてにんまり笑ったその顔は、20年経った今でも鮮明に憶えているほど不気味だった。

 2人とも喉の渇きに発狂しそうになりながら武平峠に着いたのだが、そこから下山すればいいものを信じられないことに鎌ヶ岳まで行ったのである。もしかしたら行こうと言いだしたのは私かもしれないが・・・
 鎌尾根は今までの樹林帯と違い、カンカン照りの太陽を遮るものがない尾根。ここでトドメをさされたようなものだった。
 鎌ヶ岳の頂上では、この状態の2人には見るのも耐えがたいがビールを美味そうに飲んでいる人までいた。脱水でボケッとした頭で、もし他の登山者が誰もいなければ、後から石でがつんと殴り倒してあのビールを・・・なんて妄想までした。

 それからどうやって下山したのか覚えていないが、林道で沢に出会った時は2人とも頭を沢の中に突っ込んで息継ぎもせずに水を飲んでいた。
 通りかかった他の登山者が水の中に頭を突っ込んで倒れている私達を見て死んでいると思ったらしく、ひと騒ぎあった。

 が、この時も本当の試練は下山してからだったのである。

 近江鉄道の駅で切符を買い、国鉄の切符代を計算すると、2人合わせて50円も残っていなかった。
 山行中は喉が渇きすぎてものが喉を通らず、ほとんどまともに食べていない。そればかりか一度とことん乾ききった身体には、あの水死体と間違えられるほどガブ飲みした水も、ほとんど汗と小便で身体を素通りしていったらしく、喉が渇くのである。
 缶ジュースでも飲みたくて仕方ないのだが、2人合わせて50円。
 ということで、2人で駅のホームの端から端までの自販機の下を這いつくばって覗き込み、落ちている金を捜したのだった。
 後に数回この手は使ったが(帰りの電車賃すらない時もあったし)、たいてい300円くらいの収穫はあるものだが、その時はあれだけ徹底的に捜索したのに、収穫は100円のみだった。
 1本分しかないのだったらせめて腹の足しにもなるものを、とホットのコーンポタージュの缶を1本買って2人で分け合って飲んだ。が、これは失敗だった。よけい喉が渇いたのだった。

 で、国鉄の草津駅のホームでも「100円玉捜索隊」を続行したのだが、泥だらけの汚らしい格好で這いつくばって自販機の下を覗き込むところをクラスの女の子に見られてしまった。


 

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