山と酒

 私はいわゆる「酒飲み」ではない。それほど強くはないが一応飲めるし嫌いではないのだが、毎晩1人で晩酌するほど好きでもないし1人で山に行くときは持っていかないときの方が多い。つまり相手がいないと飲まないタイプである。カミさんは酒には激弱だったりするので、自然と家族で山に行くときもあまり酒は持っていかなかったりする。

高校編

 もしかすると一番飲んでいたのは高校時代だったかもしれない。個人山行はもちろん、顧問の先生がついてくるクラブ山行でさえこっそり酒を持ち込んで飲んでいた。冬の武奈ヶ岳山頂は非常に西の季節風が強いところで(なので西南稜には1000mそこそこの低山とは思えないほどの見事な雪庇ができる)、みな東斜面で風を避けて休憩していたところを、こっそり数人でわざわざ風の強い西斜面に移動して酒を飲んだりしていた。
 また、幕営地でも顧問のテントの様子を伺い、先生達が寝静まったとみるや宴会が始まったりしていた。
 今から思えば、テントは見事に酒臭くなるのでバレていないわけがなかった・・・

 高校の裏に音羽山という500mほどの山があり、そこに至る林道の終点に鳴滝という無人の寺があった。
 音羽山はクラブでもボッカ訓練などで週に3回は行く山だったのだが、鳴滝は実は我々の秘密宴会場だった。クリスマス、忘年会、新年会とことあるごとに鳴滝にテントを張って飲み明かすのが常だった。
 たぶん私の在学中からなのだが、3年生が卒業するときの追い出しコンパを鳴滝1泊で行うことも恒例になっていた。
 私達の卒業の時、部費で購入したばかりのダンロップ6人用テントをゲロまみれにしてしまったのは・・・誰だっけ?後輩によるとそのテントは1年以上の長期に渡り、どれだけ洗っても中は耐え難い臭気を発していたそうである。
 事実、卒業して1年以上絶った夏のある日、私は比良口の深谷の源流部にテントを張りっぱなしにして今日は奥の深谷、明日は貫井谷と沢登り三昧の日々を送っていたのだが、猪谷まで足を伸ばして稜線に出たところ、縦走中の母校山岳部とばったり会ってそのままテン場まで同行したことがあった。その時気づいたのだが、件のテントは未だに酔っ払いのゲロの臭いがした。
 ちなみにその時の犯人は、みな泥酔していたので分からないのである。倒れた人からテントに収容するバトルロイヤル状態だったのだが、おそらくあのゲロの量は1人や2人ではあるまい。最もシュラフがゲロで汚れていたのは既に大学生だったA先輩だった。

大学編

 大学生になって少しは「大人」な飲み方をするようになったはずなのだが、まあ真砂沢キャンプ場の撤収祭のようなもので、人数が集まると留まるところを知らないのであった。
 撤収祭で、自分の陰毛に火を点けて「焼きバナナ」とかやっていた人達も、今じゃしたり顔で「今時の若い者は」なんてくだを巻く大人になってしまっているのだろうか・・・

 高校時代は酒であればなんでもよく、山に持ち込んだアルコール類もビールの生ダルに始まってワイン、日本酒、ウイスキー、焼酎と見境がなかったのだが、大学時代はほぼウイスキーで統一されていた。
 というのも、大学の山岳部では登攀具などで装備が重くなってしまうので、よりコストパフォーマンスの高い酒、すなわちより度数が高い酒に偏ったのも宜なるかな、なのだった。冬山はウォッカをよく持っていった。

 ある時、装備計画で燃料計算を間違えてしまい、ガソリンが足りなくなってしまったことがあった。冬山では水すらも燃料がなくては得ることができず、冬山での燃料切れは重大な結果を招くのだが、燃料切れに気づいたのは不覚にも穂高の稜線の中、下山にはどうしたって2日はかかる場所である。
 今思えばけっこうなピンチだったわけだが、その時はウォッカの手持ちが1.5Lほどあった。タオルを裂いて芯を作り、そのウォッカで即席アルコールコンロを作って下山(逃げ帰る)までの水を確保したのだった。炊事をする燃料の余裕はないので、以後下山までの食事は全てペミカンの丸囓りであった。
 しかし、燃料がなくなったことよりも「酒を燃やしてしまった」ことに我々は激しく狼狽したのであった。ハーケンを減らしてまで持ってきた酒だったのに・・・

 9月末の平日に剱岳のチンネに行ったとき三の窓はガラガラで誰もおらず、チンネに取り付いているクライマーもごく僅かだったので、調子に乗った私達はわざわざ途中ビバークで左稜線を登った。つまり、T5でビバークしたわけである。
 相棒が「T5で月見酒〜」とやたら楽しげにアタックザックに酒を詰め込むのは見ていたのだが、T5でビバーク体制に入った彼のザックから、出てくる出てくる・・・
 また星空がとても綺麗でつい飲み過ぎて泥酔してしまったのだが、起きると相棒は完全にテラスから落ち、ザイルにぶら下がって寝ていた。
 その日の内に剱岳本峰を越えて剱沢に張っていたベースキャンプに戻らなければならなかったので、「気持ち悪い〜」と青い顔をする相棒を急かして登攀を始めた。
 T5のすぐ上に左稜線の核心部があり、ちょっとしたハングになっている場所がある。相棒の方が遙かにクライミングは上手かったので(というより私がヘタ)、いつもは難しいところは相棒がリードしていたのだが、この日はさすがに私がリードしようかと言った。が、「信用できん」と断られた。(そこ、リードしたこともあったんだけどねぇ・・・)
 で、青い顔をした彼がそのハングに挑み、前はフリーで越えたのにハーケンを掴んだとき、その半ば仰向けになった不安定な姿勢で「・・・気持ち悪い」と言ったかと思うと、ゲロゲロやり出したのだった。
 ・・・ま、私にかかることはなかったんだけどね。
 ようやく彼がハングを越えて次に私が登ろうとすると、ホールドがゲロまみれだったわけですよ。

山小屋編

 私が薬師沢小屋でアルバイトしていたときの小屋番である小池さん(現高天原山荘小屋番)は、今でこそ歳を取ってそれなりに大人しくなってしまったものの、当時の酒量はかなりのものだった。とにかく時期を問わずシーズン中、ほぼ毎日飲んでいた。
 太郎平小屋チェーンの山小屋では、当時賄いの酒として各山小屋に富美菊の紙パックが支給されていたのだが、従業員の数が多い太郎小屋を抜いてダントツで薬師沢小屋の消費量が多かった。1本1升の紙パックが6本で1ケース、それが2〜3ケースは上がってきたと記憶しているのだが、7月初旬に上がってきた酒が下旬頃にはもう心細くなったりしていた。
 逆に当時の高天原山荘の小屋番である大山さんはまったく飲まない人だったので、高天原山荘では酒が余っていたわけである。
 そんなわけで、高天と薬師沢の酒ボッカはシーズン中に2回はしていた。大山さんが酒を2ケースほど担いで高天の小屋を出発し、私が空の背負子を担いで薬師沢を出発し、出会った地点で酒を受け取って薬師沢に帰るのである。

 ちなみに太郎チェーンの賄い酒であるが、今でも富美菊の紙パックなんである。変わってないのだ。
 去年薬師沢の小屋で紙パックを発見し、感動して飲んでみたらその味に強烈に記憶が蘇ってしまった。別に特別美味い酒というわけでもないのだが、その味はすっかり身体に染みこんでしまっていたらしい・・・

 昔は学生の短期バイトは7/20-8/20までで、8/20の夜にはバイト従業員総出で「打ち上げコンパ」をするのが常だった。
 太郎小屋という小屋はあの界隈では最も大規模な小屋なのだが(それでも穂高などと比べると可愛いものの150人収容)、大きな建物の割には物音がよく通る小屋で、バイトは夜の宴会場所には苦労していた。どこで飲んでいても、声を落としてヒソヒソ声で話していても、マスターに発見されて大目玉を食らうのである。ついには外に出ていって登山道で飲んでいたバイトもいたらしい。
 そんな太郎小屋でも、この8/20だけはマスター公認でバカ騒ぎができる日なのであった

 私は9月までとか不定期のバイトで、しかもバイトが終わってもそのまま居候に移行していたりしたので、別に8/20という日にはなんの区切りもなかったのであるが、それでもこの打ち上げコンパには参加させてもらっていた。まあ、7月の始めから薬師沢の小屋に入っていると、太郎小屋の短期バイトなんて顔も知らない連中ばかりだったりして、さほど面白くもなかったので3年目は参加しなかったが。
 それでも8月末になってヒマな時期になるとしばしば太郎小屋に何日か泊まる機会もあり、顔見知りの長期バイトや従業員と飲んでいたわけである。マスターに何度か大目玉を食らったが。

 太郎小屋には通称「タコ部屋」と言われている男子従業員部屋がある。女子従業員部屋、通称「花子の部屋」が「太郎小屋で最も暖かい場所」といわれていたのに対し、タコ部屋は文句なしに太郎小屋で最も寒い場所だった。「だった」というか今でもそのはずなのだが。おまけに何故かやたら湿っぽく、布団が湿気を吸って鉛のように重くなる部屋だった

 ある年の8月末、そのタコ部屋で私は従業員のA氏と飲んでいた。
 A氏はわざわざヘリで上げたというバレンタインの17年ものを出してきて、それは確かに美味かった。あまりに美味かったので封を切って2時間でなくなってしまった。
 翌日、またも夜タコ部屋に行って飲んでいたら、A氏がまた17年もののバレンタインの瓶を出してくるではないか。なんだそりゃと聞けば、その瓶にホワイトを入れてみたという。「ん〜、なんだかホワイトもこの瓶から飲めば上等な酒に思えてしまうよね〜」なんて喜んで飲んでいたのであった。

 そこにF氏がやってきた。彼は7/20-8/20の短期バイトで、薬師沢の小屋で一緒に働いていたバイトである。が、山小屋をどこぞのペンションと勘違いして「バイトの女の子とやり放題だぞ」というかなり極端な誤解をしてボストンバッグにコ○ドームを1ダースも入れて入山してきたという、まあある意味豪傑だったわけだが、そういう山に対しても山小屋の仕事に対してもドがつく素人だった割には態度や物言いが横柄だったので、けっこう嫌われていた。私も人の好き嫌いはそれほど激しくはない方なのだが、それでも彼にはちょっと辟易していた。小さな小屋で四六時中顔をつきあわせて働くことになるので、人間関係もこじれると大変なのである。

 その時私は、「あ、嫌なやつが来たな」と思い、冷淡な態度を取っていたのだが、A氏が何を思ったか私に目配せをしてからF氏に例のバレンタインの瓶(ホワイト入り)を差し出したのだった。
 「これ、飲んでみ」
 F氏は「おお、バレンタインじゃないですか!」と感動して一口飲み、こう言った。
 「いや〜、これに比べたらホワイトホースなんてホワイトみたいなもんですね〜!」
 その後、F氏の酒談義(うんちく)が延々と続いたのであるが、私もA氏も笑いをこらえるのに必死だった。

 薬師沢の小屋番の小池さんは、今でこそ飲んでいてもさっさと寝てしまうようになったが、当時は午前様は当たり前だった。決して自分から「もう寝るか」とは言わない人だった。
 いつだったか、イワナの会の常連さんが大勢来たとき、例によって宴会が始まり、小池さんは黒部川の淵に潜ってイワナを見るために入手したドライスーツを着込んで飲んでいた。
 もう8月も末で、忙しい時期ではなかったのだが、それでもお客さんは30人ほどいた。短期バイトは既に下山してしまい、小屋のスタッフは私と小池さんの2人だけだったのだが、その時期は朝食の準備は2人が交代でしていた。
 キャベツは既に夕食時に千切りにして水に浮かべているので、朝することは飯炊きと味噌汁を作ること、お茶を沸かすことと洗い湯を沸かすこと(裏のかまどで)、それとスクランブルエッグを作ることくらいだったので、5時半に朝食を出すとして4時半に1人起きれば十分だったわけである。
 で、お客さんに朝食を出している頃にもう1人が起きてきて、2人が合流したところで洗い物に突入、という流れになっていた。

 で、その翌朝は私が早番であった。
 夜の12時頃、いくらなんでも明日は早いしつきあいきれないので先に寝た。
 あとは小池さんとM氏やT氏の常連さん達がテーブルを片付け、箸と茶碗を配膳してくれているはずであった。
 が・・・・・・・
 翌朝4時半、起きてきた私の目に飛び込んできたのはグチャグチャになったままのテーブルだった。一瞬にして昨夜の酔いも眠気も吹っ飛んだ。これでは5時半の朝食に間に合わないではないか!
 慌てて飯炊きの火を入れる(米は前夜の内に仕込んでおく)や否やテーブルを片づけだしたのであるが、たった4〜5人でよくもここまで、と言うくらい散らかっていてどうにもならん。これは手に負えないと小池さんを起こしに行ったのだが、何時まで飲んでいたか知らないが蹴飛ばしても起きないのだ、これが。
 もう半泣きになってテーブルの片付けと飯の準備を並行していたのだが、両手一杯に食器を抱えているときに圧力釜が噴き出したり、かなり炭化したスクランブルエッグを作ってしまったりで、この朝のお客さんはかなりトバッチリを食うハメになってしまった。早く起き出してきたお客さんが、食器の山と孤軍奮闘する私を見て手伝ってくれたりで、なんとか5時半に遅れること5分程度で食事を出すことができたわけであるが、食事を出し終えて厨房の片隅で私が呆然とへたり込んでいるとき、ヨロヨロに足をふらつかせた小池さんが起きてきた。
 さすがに怒気を発して「小池さん〜」と怒ってみたのだが、「あ・・・すまん」と素直に謝られてしまった。

 薬師沢小屋では午前様の宴会は日常茶飯事で、立てないくらいに泥酔したことも何度もあったのだが、それでも宴会の後テーブルを片づけて朝食の配膳をする、という作業は誰も欠かしたことがなかった。泊まり客がいない日は別だったが。
 こういうことは後にも先にもこの1回だけだったのだが、それだけにあの食器の山を見たときのあのショックは大きかったのだった。

 去年、太郎小屋でマスターと会ったとき、誰か他の人に私を紹介するのにマスターが「小池に叱られながら仕込まれた男だ」と言ったのだが、その時ふと「そういや俺が小池さんを叱ったこともあったな」とこのことを思い出してしまったのであった。
 ま、その1回だけで後は確かに叱られてばかりだったのだが。

 

 

Back to up