桃 源 郷

 本屋で暇つぶしをしていてとある山岳雑誌の面表紙が目に入った。
 なんでも「桃源郷を行く」とかなんとかいうタイトルなのだが、問題はその下にある文字。「薬師見平」とあるではないか。すごく嫌〜な予感を抱きながらページをめくると、果たしてあの黒部川上ノ廊下の右岸、赤牛岳側の斜面中腹に広がる薬師見平であった。

 私が小学生〜中学生の頃に家にあったガイドブックには、まだ高天原新道というコースが載っていた。高天原から赤牛岳側の中腹をほぼ水平に奥黒部ヒュッテまで抜ける道で、途中全くエスケープルートも存在せず、かつ標準コースタイムで10時間以上というハードなコースだった。当然、歩く者は非常に少なく、ほどなく廃道になってしまったらしい。途中には姿見平や薬師見平という名の付いた湿原が点在し、それらに対する自然環境保護の意味もあって高天原新道の再建は取りやめになったと聞く。
 私が高校1年生の時に初めて高天原山荘でバイトしたのは昭和56年だったが、その頃は既に高天原新道は廃道となっていた。小屋番の大山さんに赤牛沢を横切るところまでは連れていってもらったことがあるが、その頃には既に笹ヤブの中に登山道は埋没してしまっていた。
 現在では、湿原の中等の回復に時間がかかる場所では、まだ道は微かに痕跡を残しているかも知れないが、特にこのあたりは笹が多い山域でもあるので、おそらくほとんど道は消失してしまっているだろう。(笹ヤブの道は人が歩かなくなるとあっという間に消失する)
 というわけで現在では温泉から竜晶池までの区間のみが残っているに過ぎない。

 という話や学生時代、薬師見平に行きたくて何度か企ててみたことなどは「赤牛岳で怒られた話」のところに書いた。
 結局今のところ行けずじまいなのである。現在では実現の可能性はさらに薄いだろう。なんせ高天原、スゴ乗越どちらを起点にするにせよ、アプローチだけで2日もかかるのである。さらに起点からの薬師見平往復に2日、そして下山に2日、合計で1週間もの日程が必要である。上ノ廊下からアプローチすれば最短で入山2日目には薬師見平に到達できるかも知れないが、正直今となっては体力的にも技術的にも難しいだろう。
 つまり、学生時代に行けなかった時点で薬師見平は永遠の憧れで終わる可能性が大なわけである。

 その薬師見平がある日突然雑誌で、しかも写真入りで紹介されていたらどういう気がするか。
 高校時代に片想いだった女の子がいるとして、ある日突然見知らぬ男が彼女を連れて現れ、「はじめまして、私の妻です」と紹介されたような気分である。いい気持ちなんてするわきゃないでしょうが。

 だいたい、桃源郷とはなんなんですか?俗界を離れた別天地という意味なら確かに薬師見平は資格十分でしょう。でもそれだけなら竜晶池だって高天原だって資格あり、なのでは。名の由来である「桃花源記」に書かれた故事の意味を汲めば、それに加えて「誰も行くことができない」または「誰も知らない」というのが条件に上がってくるのではないか?
 この条件を加えても、確かに薬師見平はバッチリ条件を満たしていて、だからこそ長年行きたいという気持ちを抱えていたわけだが、そうすると桃源郷は雑誌やテレビなどのマスメディアで紹介された途端に桃源郷でなくなるということをこの某雑誌はチラッとでも考えなかったのか?

 ・・・ま、それもこれも単に私が感情を害したことに無理矢理に理屈付けをするという類の屁理屈というものなんだろうけど・・・
 そんなわけで雑誌を開いて見開き2ページで薬師見平からの薬師岳の写真を見た途端、ムカッ腹が立って仕方がなかったのだが、とりあえず冷静さを失った頭でも上ノ廊下から中のタル沢を経由して入ったこと、翌日はその反対側の無名沢を降りて上ノ廊下に戻ったこと、中のタル沢には悪い滝が2カ所ほどあって、決して楽に登れる沢ではないこと(地形図からそう推察していたが)、無名沢は比較的容易に下降できたこと(つまり登行も容易だろう)、等々必要な情報は仕入れた。でも買わなかった。買ってやるもんか。

 これが例えば「記録」だったら何の悪感情も抱かないわけよ。純粋に「おおっ!行ったヤツがいるのか!」とその雑誌を買って帰り、丹念に読んで来るか来ないか判らないけどいつの日か自分が試みるときの参考にできた。誰かのホームページなどで写真入りで紀行が紹介されていたとしたら、少しは「くそぅ」と思ったかもしれないが、やっぱり同じように自分の参考にしようとしただろう。
 「写真」が問題なのでもない。写真家が薬師見平の写真を発表していても、これも純粋に「俺もいつか行きたいなぁ」と憧れながら見ていた。
 つまり、とにもかくにも、「雑誌の特集記事で紹介されていた」ことが私の感情を害したわけである。

 最近のこの雑誌、ロッククライミングの話でも岩場のコンテの話でもこの話でも、とにかくなんとなくデリカシーに欠けるところが嫌いぢゃ。
 単に私の嗜好と合わないだけなのだろうが・・・
 でも、件のロッククライミングの話や岩場のコンテの技術解説を「うんうん、なるほど」と共感して読めた、という人とは、なんとなく友達にはなれないような気がする。これがまあ薬師見平の記事ならば、知らない人や特に思い入れのない人にとっては「ふーん、こんなところがあるのかぁ」と思うだけなんだろうけど。現にこの号では「桃源郷」と称してもう1カ所が紹介されていたが、そっちの方は私には「ふーん」って感じだったし。そちらの記事を読んで憧れの片想いの彼女が知らない男とホテルから出てきたところを目撃してしまったような、誰にもぶつけようのない怒りと悲しさを感じている人がどこかにいるのだろうか。(私はしっかりぶつけているが)

 余談だが本文中、薬師見平を後にするときに「都会に生活する我々が長居して良い場所ではない」とかなんとか書かれていた。
 なら最初から行くんじゃね〜よぉ!とこれはただの難癖だが、魂の叫びである。

 

Back to up