獣医師国家試験


  山とは関係がない話だが、先日インターネットで調べものをしていて偶然獣医師国家試験のことを書いたサイトに行き着き、読んでいたら当時のことを思い出してしまったのでちょっと書いてみる。

 獣医師国家試験の受験資格は簡単に言えば「獣医学科(学部)を卒業した者または卒業見込みの者」である。卒業見込みとは要するに単位を全て取得している、という意味なのだが、大学では誰も自分の単位が全て取得できているか、なんて調べてはくれない。単位を全て取っていることを自分できっちり確認しなければ、試験会場に行っても自分の席がない、ということになりかねない。
 単位の取得やチェックについては、各大学でどうもまちまちなようだった。
 私が卒業した大学では、入学すると1年半は教養課程であり、数学やら古文とか心理学Aとか、そういう獣医とはとりあえず何の関係もない課目を定められた単位数取らなければならない。
 2年生の前期からは週に2日だけ専門課程の講義と実習も入っていたが、専門課程に全面的に移行するのは2年生の後期からであった。最初の単位チェックはこの専門移行の際に行われ、4単位(2コマ)以上不足していると留年だった。ちなみに私は体育の単位が足りずに留年した。

 2年生の後期に専門課程に移行すると、とりあえずしばらくは単位チェックはない。次の単位チェックは4年生の後期にあり、この時にやはり4単位以上不足していると5年生に上がることができなかった。留年である。ちなみに5年生には教養の単位は持ち越せないので、取りこぼしはここで全て精算しておかなければならない。
 私は教養の分子生物学を未だに残しており、膨大なレポートと引き替えになんとか単位をいただくハードネゴシエーションをやっとの思いでやり遂げ、やれやれこれで留年しなくて済むとほっとしていた。
 また、試験の合格基準が80点と非常に厳しく、毎回最初の試験で通るのは数人という微生物学の試験も、毎度のことで追試ではあったがもはや単位数に余裕など微塵もなかったのでそっしに勉強して切り抜け、追々試の実施を頼みに来た学生に「池上君も切羽詰まればこんなに素晴らしい答案が書ける」と回覧したそうである。
 こうしてやっと5年生に上がれるメドがついたとホッとして、単位の最終確認日が3日後に迫ったある日のこと。私が所属していた臨床繁殖学講座の内線電話が鳴った。またいつもの○○先生の麻雀の誘いか、と思って電話を取ると、上に書いた厳しい微生物学の先生からだった。ちなみにこの先生、後に私を富山県に放り込んだ先生である。何の用かと思えば・・・
 「君、牧場実習の単位取れてないみたいだけど、大丈夫?」
 うぇっ?牧場実習と言えば遙か昔の2年生の前期から後期にかけての単位である。試験やレポートなどなく、出席さえすれば取れる単位なのである。が、講義が2/3以上の出席で試験の受験資格を得、試験に合格することで単位を取得できたのに対し、実習の出席数は4/5である。早い話、講義は5回まで休めるのに対し、実習は3回までしか休めない。出席日数が足りずに単位が出ていない可能性はありありである。
 大慌てで付属農場に飛んでいったら、案の定出席が足りずに単位が出ていなかった。それも豪快に半分近くも欠席していた。
 当時、大学は郊外に移転したばかりだったのだが、付属農場の草地は岩がゴロゴロしていてとても作物を植えられる状態ではなかった。そこで「牧場実習」の時間に我々学生がえっちらほっちらと岩を除去していたのだが、これがなんの実習なの?とバカバカしくなった私達は頻繁にエスケープしていた。今頃になってしっぺ返しを食らうとは。
 学期ごとに単位の合否は掲示板に張り出されるので、ちゃんとチェックしていれば自分で判ったはずなのだが、たまたまというか牧場実習はまったくノーマークだった。まったく、先生が教えてくれなければ知らない間に留年しているところだった。先生にしてもわざわざ私の単位を調べてくれたのではなく、たまたま自分の講座の学生の卒業関連の書類を書くために単位をチェックしたところ、私の不足単位を発見したとのことだった。

 「この単位がもらえないと留年なんですぅ」とひたすらお願いした。すると教官が「確か君は繁殖の学生だったね」と言う。繁殖の学生は付属農場の牛の人工授精をちょくちょくやっていた。その時教官とも頻繁に顔を合わせていた。
 「まあ、うちの牛たちも世話になっているし、それで実習に出たことにしてやるか」と言われ、ギリギリセーフで5年生に上がることができたのだった。

 そういう数々のドラマを経て、やがて6年生になって卒論を書いて審査も通り、晴れて国家試験の受験資格をゲットしたのであった。6年生の時はもちろん取りこぼしの単位がないか、自分で念入りにチェックした。

 ちなみに大学、特に私立は追試は1回だけ、それも試験料を払わないと受験できないところが多いようだ。微生物学で3回も追試を受けた話などをすると「甘いなぁ」なんて言われたものだが、それはそれだけ試験そのもの厳しいということである。
 私は微生物学の試験はまだ追試も3回くらいで学期ごとにとりあえず片づけていたが、中には5回も6回も追試を受けても通してもらえず、学期ももちろん持ち越しで5年生の後期に3期分の追試をまとめて受けていたやつもいたのである。ちなみに内科も公衆衛生学も80点取らないと単位をもらえなかった。
 ちなみにたいてい試験は記述式なのだが、獣医学科2大難関の微生物学と内科では、その傾向と対策がかなり異なった。
 微生物学はとにかく答案の分量が最重要で、例えば「オウム病の疫学について記述せよ」という設問に、疫学とは多少関係なくても診断法とか治療法とか、とにかくオウム病について知っていることを全て叩き込んでの勝負、だった。B4の罫紙3枚にびっしり答案を書き込んでも「65点、不可」なんて張り出されるとかなり精神的ダメージが大きかった。
 内科は逆に、設問に対して簡潔に過不足なく回答しなければならなかった。
 「犬の糸状虫症(フィラリアのこと)の診断法について記せ」という設問に血液の直接鏡検しか思い出せず、それだけでは1行で答案が終わってしまうので淋しくなって治療法のことまで書いてしまったら、点にならないどころか減点なのである。書けば書くほど点数が少なくなる。

 臨床繁殖の試験では、最初の試験の時に学生の間で「繁殖の学生の最低点が合否基準点らしい」という噂がまことしやかに囁かれた。過去数年の合否状況を調べたやつがいて、繁殖の学生で落ちた人がいない、というのがその根拠だった。
 なので、「お前達は勉強するな」と他の学生から強く言われ、仕方なく勉強せずに試験を受けたら落ちてしまった。
 「俺の講座の学生で俺の試験に落ちたやつは初めてだ」と繁殖の教授に非常に怒られた。

 さて、国家試験の話に戻るが、6年生になると学生の間で「国試対策委員会」というものを組織する。
 といっても私の大学の6年生は卒論で非常に忙しい。私の年は12/24が卒論締め切り、年が明けて1/17が卒論発表会だったので、それが終わるまでは国家試験の勉強などしている場合ではなかったのだ。
 ただ、他の大学、主に私立大学であるが、卒論が選択科目だったりする場合もあるらしく、秋くらいから各大学の国試対策委員会から参考書や問題集が山ほど出てきた。私の大学の委員会は、その参考書や問題集を1冊ずつ購入し(1〜数万円もした)、人数分コピーするという単純だが手間ヒマがかかる仕事がそのほとんどだった。
 当時は酪農学園大学の問題集が最も分量があり(コピー代だけで2万円近くかかった)、これをこなせば対策は完璧、なんて言われていた。他には麻布大学の「猫の手」という参考書が人気があった。まあ、あまりにも簡潔にまとめすぎていて、たぶんあの本だけを完璧に覚えても国家試験には落ちたと思うが。

 卒論提出間際は当然追い込みで、みな徹夜続きである。まあ、提出日の午前3時まで実験をやっていた、という微生物学講座はまた別格としても、みなそれぞれそれなりに切羽詰まっていた。なんでクリスマスイブの日に提出日を設定する?提出してからそのまま当時つき合っていた彼女とのデートに出かけたのだが、連日の徹夜ですっかりナチュラルハイになっていた。
 だが、ホッとする間もなく発表の準備である。当時はコンピューターもなんとかワープロに使える程度の代物だった。V30か286のCPUに640KBのメモリ、ハードディスクは装備してないのが普通で、当時内科のPCが40MB(GBではない!)のハードディスクを装備しているとみんなで見物に行ったものである。繁殖の講座のPCはフロッピーで一太郎ver3を使って論文を書いていた。
 なので現在のようにPowerPointでスライド作製、なんて影も形もなかった時代であった。一太郎で印刷した図表を図書館の写真室に持っていき、自分で撮影して青焼きスライドを作製したのだ。スライドを映しながら予演をしていると、スライドの青にムラがあると言ってはやり直し、罫線が細いと言ってはやり直し、撮影時に水平が取れずに僅かに傾いていると言ってはやり直しだった。図書館は夕方5時で閉まるので、朝から1日スライドを撮影して5時過ぎになるとできあがったスライドを研究室に持ち帰り、予演会をやってはダメ出しをされて夜中までかかってスライドを作り直し、翌日はまた朝から図書館に缶詰、という毎日だった。

 そうこうして1/17にようやく発表会も終わり、これでやっと国家試験の勉強開始である。試験は3/4、約1ヶ月半しかない。
 試験科目は生理学、薬理学、解剖学、病理学、微生物学、公衆衛生学、内科学、外科学、臨床繁殖学、実験動物学、放射線学、魚病学など17科目と言われたものだが、正直はっきり判らない。どうせ試験はぶっ続けなので科目数など気にしてもしょうがないのだった。
 その頃になるともうほとんど学校にも行く必要はなく、毎日自宅(アパート)で朝から晩まで勉強していた。数日に一度は大学に行って気分転換をしたりもしていたが。
 夜3時くらいまで勉強をしていてさすがに眠くなり、布団に入ってうつらうつらしていると頭の中を問題がよぎる。しかも判らない。またガバッと飛び起きて参考書をめくったりしていた。まさにゾンビ状態だった。

 試験は全国で3会場にて行われる。
 札幌会場と東京会場、それに福岡会場なのだが、岐阜大学は東京会場だった。早稲田大学が会場であった。
 前日に高田馬場のビジネスホテルに全員チェックインし、最後の追い込み(あがき)である。札幌会場にいる酪農学園大学から直前予想問題集が送られてきたのだ。ホテルの従業員が嫌な顔をするくらいの長尺FAXだった。この酪農学園大の直前予想がよく当たるという評判だったので、さっそく人数分のコピーを取って(ここでも従業員に嫌な顔をされたらしい)見てみたのだが、こいつがまたさっぱり判らない問題ばかりだった。
 が、この直前予想問題、まったく当たらなかった。もっとも私はあまりにも判らない問題ばかりなのでさっさと投げ出したのだが、全部目を通したやつによれば、数問は当たったらしい。コピー代だけで1000円もした膨大な問題の中から数問では、「よく当たる」とはお世辞にも言えないが。

 2日間の試験を終え、私達は大隈重信の像の前でお上りさんよろしく全員で記念写真を撮った。その後、渋谷の風俗街に繰り出して痛い目に遭った友人もいたらしい・・・

 発表は3/20頃の土曜日だった。
 私は富山県に就職が決まっていたが、落ちたら即取り消しなのでアパートや引っ越しの準備などは一切していなかった。
 この国家試験、6割取れれば合格と言われており合格率も80%前後と、「まあ普通に勉強すれば通る試験」ではあるのだが、浪人生になると合否ラインが上がるらしい。つまり、1回落ちれば次には現役学生と同じ点では落ちる、ということで、なるほど国試浪人はとめどもなく毎年落ち続ける傾向にあった。よほど裕福な家庭でもない限り、国試に落ちても卒業はしているので仕送りはストップである。就職はパーである。なので大学に研究生などという名目で残りながら国試の勉強ができる人は希で、中にはパチンコ屋で働きながら勉強している人もいた。が、そうやって現場から離れればますます受かりにくくなるのは当然。
 私の場合、落ちたら長年バイトしていた火災報知器の点検設備会社か葬儀屋で働きながら・・・ということになるだろう。既に話は付けていたし、葬儀屋は一度は準社員にもなっていたくらいだし、なんだかそのままなし崩しにそちらの道に転向しそうでもあった。
 わずか2週間先に自分がどの土地で何をやっているか判らない、というのはかなりなプレッシャーだった。

 発表日の前日、国試委員で農水省に行っている先生から「ある程度の」情報は入る、というので、ぞろぞろとみんな大学に集まってきた。中途半端な情報を聞くのも怖かったのだが、もし「全員受かった」という情報が入れば1日早く幸せになれる、それを期待してだった。
 ・・・だが。入ってきた情報は最悪だった。「1人落ちた」という情報が入ってきたのだ。名前も何もなし、「1人落ちた」の一言だけである。
 その瞬間、何人かが「お・・・俺や」と思ったことだろう。(実は私も)
 眠れぬ夜を過ごし、最後の審判を受ける覚悟で翌日大学に行ったのだが・・・・私は合格だった。
 「1人落ちた」という情報を聞いた時、何人かは「池上や」と思ったらしいのだが、真っ先に私に「ま、来年もあるから」と話しかけたやつが落ちていた。自分が落ちていたとは夢にも思っていなかったらしく、かなりショックを受けていた。
 それでも彼の場合、就職先が個人営業の開業獣医だったので、獣医の免許がなくてもそのまま就職することができた。診療助手とでもいうことにすれば、獣医の免許がなくても働くことはできるのである。
 民間の製薬会社などでも研究職なので獣医師の免許は関係ないことが多く、実は落ちたら即就職もパーというのは公務員か団体くらいのものである。

 何はともあれ、ホッとする間もなく富山に飛んでアパート捜しに引っ越しの手配と3月末は目の回るような忙しさで過ぎていった。

 「3月の末に国試の発表があって、落ちたら終わりなんて厳しすぎるよ」と愚痴っていたら、もっと厳しい職種があることを教えられた。
 それは薬剤師である。薬剤師の国家試験は5月なんだそうである。つまり、就職して働き始めて5月を過ぎるといつの間にかいなくなってしまう人がいる・・・ということで・・・この場合、「クビ」になったのではなく、最初からいなかったことにされてしまうので、厳しさもひとしおである。

 私が入って2年後に、新人が入ってきた。
 配属された日、帰りに彼のアパートまで送っていく最中、「毎年新人って入ってくるんですか?」と聞かれたので、「いや、そうでもないよ。ああ、去年は採用が決まっていたのに国試に落ちてポシャッたバカがいたなぁ」と答えたら、「・・・そのバカ、僕です」と言われてしまった。落ちた翌年に同じ県を受けるとは良い度胸をしている・・・

 

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