おかしな競技登山と個人山行の高校時代

 私が入った滋賀県立膳所高校("ぜぜ"と読む)は、滋賀県屈指の進学校だった。だが、その割に学校のムードはのんびりしていた。まあほんとうに「デキる」学生が集まっていたのだろうが、あまり進路についてやかましく言う先生もおらず、「勉強したければ自分でしろ」というムードがあった。事実、補習などは私の在学中1回もなかったし、夏休みの宿題も提出するのではなく、休み明けに「宿題考査」という試験を行う形だった。
 その1年生最初の夏休み、私は北アルプスの山小屋にアルバイトに入っていた。黒部川源流の最奥部、高天原山荘である。その話は後述するが、そのおかげで私は宿題にほとんど手を着けずに夏休みを過ごした。一応、宿題を持っていったのだが、一緒にバイトしていた阪大生が数学の宿題を「こんなに難しい問題を高校生がするのは間違っている」とか言って手伝ってくれず、あの素晴らしいロケーションで小屋の中でコツコツ宿題をするほど私は枯れておらず、従って宿題はほとんど手つかずのまま夏休みを終えた。
 その夏休み明けの宿題考査、私は国数英の3教科の平均が19.9点という凄まじい成績を取った。単教科なら1学期の中間試験で数学の7点という記録を既に保持していたが、この3教科平均で19.9点というのは、学業に対する自己評価を根底から覆した。中学時代は試験の成績は100点が当たり前で、たまに間違って85点なぞ取ろうものなら青くなっていたのである。それが高校に入ると7点である。3教科平均で19.9点である。人生観が変わるのも無理はない。
 授業も先生達の好み丸出しであった。世界史の先生は1年かけて中国史しか教えず、物理の先生は相対性理論しか唱えず、日本史の先生は明治維新しか教えなかった。中間期末試験の範囲は最後の授業で示されるだけで、「勉強は自分でしろ」といった先生が多かった。
 生物の先生も午前中2コマぶち抜きの実習で、1年生から1人1匹のカエルを使った実習で飛ばしてくれた。それも単なる「解剖」ではなく、無頭ガエルを使った脊椎反射の実験とか、神経筋標本の作製とか、やたら本格的だった。その実習があまりに面白かったので獣医になったようなものである。
 ちなみにその時の実習でやったことは、大学に入って生理学実習でほとんど同じことを再びやった。

 こうして私は高校の生物の先生に人生を変えられたが、私も多分他人の人生を狂わしている。特に山岳部で一緒になった彼らの。

 高校の山岳部、同級生は私を入れて5人いた。その4人の仲間の内、2人はほっといても勉強なんかしそうにないタイプだった。だが、あとの2人は入学当初はとても真面目で中学時代に「毎日きちんと予習復習をする」というとても大切な習慣を身につけてきたのに違いない人物であった。その習慣は高校山岳部生活3年間で脆くも崩れ去ったのは言うまでもない。
 高校山岳部の山行は、月例の山行と春秋の高体連などで埋まっていたが、顧問の先生がついてくる月例山行も競技登山も好きでなかった私は、盛んに個人山行(禁止だったが)を企画し、仲間を誘った。最初の内、「勉強せんとあかん」と言ってなかなか話に乗ってくれなかった仲間達も、どんどん山きちがいになっていった。
 そういえばきっかけは忘れたが、NY君当時16歳と何かの話で激論を戦わせていた。何かで激高したNY氏が私に向かって「悔しかったら成績で俺を抜いてみいや!!」と言い放ち、非常に険悪なムードになったことがあった。しかし彼は間もなく、私が抜くまでもなく自分から落ちてきた。

 我々の1年上の先輩達が仲が良く、非常に良くまとまっていて、最近になってもよく集まっているらしい。その先輩達が2年に1回、同窓会を開こうという話になり、彼らとわりと仲が良かった我々の学年も混ぜてもらって集まるようになった。同窓会はもう3回を数えている。家族同伴なので人数が膨れあがっている。
 我々の代も仲はいいのだが、同窓会を世話しようと言うマメな人間はいない・・・全員地元を離れているし。

 高校山岳部の競技登山というのは、おおむね高体連インターハイ予選国体予選踏査大会などがあり、それぞれ特徴があった。
 基本的に個人競技となる国体予選を除き、4〜5人単位のパーティー毎に優劣を競うのだが、採点方法に大きな違いがあった。
 高体連は担ぐ荷物の負荷制限、タイムレースなどはなく、ほぼ純粋に「マナー」のみで採点された。ただ、このマナーが曲者で、テント内の整理整頓、行動時の服装などが大きな配点になっているようだった(公表されなかったので詳細は判らない)。
 この服装が、20年経った今でも悪夢のように思い出される。真夏の低山でも革の重登山靴にウールのニッカー、長袖のカッターシャツに顎ヒモ付きの帽子、なんである。顎ヒモを外して歩いていただけで減点である。脱水で死人が出なかったのが不思議だ。
 国体予選はほぼ純粋にタイムレースのみだった。負荷制限は25kgだった。
 インターハイ予選にもタイムレースはあったが、コンロ点火技術、天気図、読図などの試験もあり、それらの配点も大きかった。負荷制限は4人で100kg。
 踏査大会はなかなか面白く、コース中にオリエンテーリングのポストの様なものが設置されていて、2.5万図上にポストの位置をプロットしていくというものだった。負荷制限は4人で80kgとやや軽く、タイムも測定されたが配点は読図が最も大きく、なかなか面白かった。
 これらの競技登山を、時にはまったくやる気なしでだらだらと過ごし、時には「今回は優秀校を取りに行こう」と気合いを入れたりして3年間を過ごした。

 しかし最も熱心に楽しんで企画実行したのは、やはり個人山行だった。個人山行も比良が多かったが、鈴鹿や台高などにも出かけた。
 個人山行ではかなり無茶もやった。ハーネスやヘルメットを買って沢登りもやったし、大学で山岳部に入った先輩から岩登りも教えてもらったりした。
 また、比良も普通の登り方では飽き足らなくなり、真夜中から登り始め、それも2人ずつ2パーティーに別れて武奈ヶ岳山頂で落ち合う夜間集中登山など、あれこれ無茶なことを考えて実行した。
 鈴鹿の縦走で初めて行くコースであるにも拘わらず、夜になってから登り始めて稜線の適当なところで幕営し、登山口で用意した1人2Lの水だけで2日間の縦走を決行したりもした。(ほとんど脱水状態になった)

 台高には2回行った。
 1年生の秋に大又〜明神平(泊)〜薊岳往復(泊)〜高見山、2年生の冬に宮谷〜池小屋山(泊)〜明神平(泊)〜大又と、2回とも明神平を絡めた。
 1年の秋は紅葉の盛り、2年の冬は年末と、いずれも比較的登山者が多くても不思議はない時期だったのにも拘わらず、2回とも入山中は我々の他の人間には一切会わなかった。また、主稜線でも踏み跡は細く途絶えがちで場所によっては獣道の方がよほど明瞭だったし、何より山全体が獣臭かった。池小屋山の頂上にある池の周囲など、むせかえるほどの獣臭がした。鹿が目の前を横切るのにも出会ったし、秋の明神平の夜は間近で鹿の鳴き声がいつまでも響き渡り(そういえば繁殖期)、山の浅い比良にはない感慨を与えてくれた。
 現在はあの周辺、どうなっているのだろう。また再び、できれば当時のメンバーと訪れたい山である。
明神平

 

 右の写真は明神平にあった天理大学の小屋。1年(56年)の10月。
 紅葉の盛りで、夜になるとシカの鳴き声がうるさいほどだった。


 

池小屋山山頂直下

 

 2年(57年)の12月末、池小屋山山頂直下を登る。


 

年末の明神平

 

 同じく57年12月末の明神平。
 白いのは樹氷で、美しかったが縦走中は樹氷のブッシュに悩まされた。


 

 高校を卒業する時にみんなで書いた膳所高校山岳班の文集である「ケルン」が手元に残っているのだが、それを見ると昭和56年4月の新人合宿に始まって昭和59年3月の卒業山行(個人山行)まで、延べ57回、117日の山行をしている。個人が1人で行ったのもあるだろうから、高校生としてはけっこう登っていたなぁと思う。
 このケルン、手書きのガリ版刷りて文字がかすれて読み辛い箇所も多いのだが、今読んでも腹を抱えて笑うほど面白いのがいくつかあるので、抜粋して紹介したい。

ケルン紹介ページへ

 

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