高天原新道の謎
薬師見平に行ったことがきっかけで高天原新道に興味を持った。別に今までだって興味がまるでなかったわけではないのだが、なんといっても興味の対象は「薬師見平」という場所であって、高天原新道に対しては「遠い昔に廃道になってしまった道」という程度の認識しかなかった。
薬師見平へのルートはほとんど高天原新道とは関係なかった。夢の平から湯ノ沢に降りたあたりまでは踏み跡を辿っていったのだが、湯ノ沢の登り返しで既に道は跡形もなく、赤牛沢への下降と登り返しで極めて大規模な崩壊のため、道を追うことはどうでもよくなった。そもそも「高天原新道を辿る」ことが目的ではなく、「薬師見平に辿り着く」ために道の痕跡でもあれば幾分楽ができるかも、という程度のつもりだったし。
薬師見平にもほとんど登山道の痕跡はなかった。湿原は回復が遅いため、一度付いた道の痕跡くらいはあるかもと思っていたのだが、そのような痕跡はほとんど見ることができなかった。ただ、滞在時間が短かったため、もう少し時間をかけて探したら何かあったかもしれないが。
でも、ちょっと感じ入ったことは、湿原の外れに「高天原新道」と書かれた古い看板が転がっていたことと、地面に埋まった大岩に赤ペンキででかでかと矢印が描かれていたことだった。この看板とペンキ印は、数十年前は幾多の(といってもそんなに多くはなさそうだけど)登山者に頼られてきて、それからの年月をほとんど誰の目にも触れずにずっと誰か来るのを待っていたのである。ロマンじゃないかい?
まあそんなわけで高天原新道のことをちょっと調べてみようと思ったわけである。
1.高天原新道が存在した時期について
が、調べだしてみるとこの道、意外に手強かった。なんせ短命なんである。道として。
私自身の記憶として、昭和56年に高天原山荘でアルバイトしていた時、既にこの道はとっくの昔に廃道になっていた。また、昭和53年に家族で雲ノ平に登った時に持っていたガイドブックには、高天原新道が載っていたような記憶がある。つまり廃道になったのはこのあたり、ということか。むろん、雲ノ平に来た時、その当時の最新刊を持っていたとは限らないから、少し幅を持たせて考える必要があるが・・・
一方、開拓された時期であるが、インターネットで検索して何冊か古本を買い漁った。が、この方法は効率が悪く国立国会図書館に資料複写請求を行う入手方法に切り替えた。利用者登録が郵送でしかできないのでちょっと面倒だったが(検索と複写請求はオンラインで可能)。
その中で昭和37年に刊行されたガイドブック2)には高天原新道は紹介されておらず、また地図にも表記がない。これもガイドブックで紹介されていないからといって必ずしも「まだ道がなかった」とは限らないのだが、当時はどうも高天原山荘さえ営業していないようで(まだ大東鉱山の所有)、状況的にも未整備なのは間違いなさそうだった。
ちなみにこのあたりの山小屋の営業開始時期は、太郎平小屋が昭和30年10)、薬師沢小屋が昭和38年10)、雲ノ平山荘が昭和37年10)、高天原山荘が昭和43年10),11)である。ただし高天原山荘は大東鉱山の作業小屋であったものを五十嶋文一が管理して登山者を泊めるようになった年であり、それ以前にも登山者の宿泊施設として同山荘が機能していたかどうかはよく判らない。昭和37年当時のガイドブック2)には「登山者も泊めるという話らしいがよく判らない」と書かれているし、昭和40年発行のガイドブック3)にも、地図には「大東鉱山小屋」として載っているが、特に紹介はされておらず、巻末の山小屋一覧にも出てこない。
昭和43年発行のガイドブック4)には、高天原新道は昭和39年に完成した、と書かれている。
その後、昭和44年の集中豪雨で北半分(東沢出合〜中ノタル沢区間)が崩壊して通行不能になったようである7)。そうなると当然、東沢出合(奥黒部ヒュッテ)から高天原新道を辿る場合、中ノタル沢までは川沿い、すなわち上ノ廊下を通行しなければならなくなり、実際にガイドブックにもそのように書かれている。豪快なガイドである。仮にも一般登山道のガイドで一部分とはいえ上ノ廊下をガイドするとは。
さらに話は逸れるが、このガイドでは中ノタル沢出合を起点に高天原新道をガイドし、「高天原山荘に着くのは午後早々」などと書いている。コースタイムから逆算するに中ノタル沢出合で幕営していることが前提のようである。凄いガイドである。
ちなみに東沢出合〜高天原のコースタイムは、集中豪雨による前半部分崩壊前の記述だと思われる昭和45年のガイドブック6)では17時間と紹介されている。またとんでもない道を造ったものである。ただ、同じガイドブックの折り込み地図に表記されているコースタイムは15時間である。ま、どちらでも「1日では無理でしょ」ということには変わりないが。
また、集中豪雨後の昭和48年のガイドブック7)では、5〜7時間と幅を持たせた表記で、後半の中ノタル沢〜高天原が6時間20分である。足すと11〜13時間程度となり、なんと前半部分崩壊前より短縮されている。ま、出版社も著者も違うからそんなものかもしれないが。
つまりこれまでの情報を整理すると、以下のようになる。
(1)本道は昭和39年に開拓され、完成した。
(2)昭和44年の集中豪雨で東沢出合〜中ノタル沢出合までの区間が崩壊し、通行不能になった。
つまり昭和44年の時点でこの登山道は部分的に上ノ廊下の通過が前提となってしまっている。これはいかに40年前の登山者のレベルが高くても、一般登山者の手に負える代物ではあるまい。
ということはこの道、この時点で既に「死に体」になっていると考えても良いと思う。すなわち、昭和45〜46年頃にはもう廃道になってしまったと推測できるのではなかろうか。
ちなみに昭和53年のヤマケイ別冊の夏山号8)には、この登山道は紹介されていないしそもそも地図では道は現在と同じく夢ノ平で途切れている。
となるとこの道、非常に短命だったのだな。昭和39年から43年までの足かけ5年の間しか登山道として機能していないのである。
ま、コースタイムで15時間という道では、集中豪雨による崩壊がなくても遠からず廃道となった可能性は高いのだが。でも、ほぼ同時期に開拓された読売新道が現在でも立派に登山者を受け入れていることを見ると、集中豪雨がなければどうなっていたか判らない。
もしかしたら中間地点に山小屋でもできていたかもしれないし、そうなれば多少登山道が崩壊しても補修して存続させただろう。
なお、志水哲也氏9)によればこの高天原新道、平成3年に一度整備されているそうである。
2.高天原新道のルートについて
さて、次に高天原新道が通っていたルートについての考察である。
これについては昭和43年4)と45年6)に発行されたガイドブックに折り込み地図が付いている。
しかし。非常に大きな疑問がある。これらの地図で道は薬師見平を通っていないのである。
私達が認識している薬師見平とは、赤牛岳から北西に伸びる尾根の2210m三角点の西方、標高約2150mの平であるが、古い地図の高天原新道はいずれもそのさらに西方、標高1950m付近を通っている。そして「薬師見平」の標記もそこに書かれている。
こりゃえらいことではと現在の2.5万図を見てみたらば、確かにこのあたり、1974m標高点のあたりは等高線間隔が緩く「なんとか平」なんて名前が付いてもさして不思議がない地形に見える。でもなぁ・・・針葉樹林帯だぞ。
昭和48年のガイドブック7)によると薬師見平の様子は、「小さな池があり、薬師岳が全貌を現し、赤牛岳も頭をのぞかせている」と書かれている。
さて、現在の薬師見平はこれらの条件を全て満たしている。ただし、赤牛岳は見えているのはおそらく本峰ではなく北西尾根のピークである。
そして1974m標高点付近であるが、樹林帯で視界が効かないという点を無視すると、薬師岳は文句なしに見えるはずである。薬師見平と薬師岳に対する位置関係は変わらないのだから。
赤牛岳は・・・地図を読む限り見えそうである。しかも本峰が。
でも、樹林帯の中なので視界は効かないはずで、ガイドブックの「笹が生い茂った高原」という表現とは食い違うし、池もあるまい。まあこの地点に行ったことがないので絶対確実とは言えないが。
よそから見てただの樹林帯にしか見えない場所が、登山道が途絶えてもその場所だけ名を残すほどのものを持っているだろうか、と考えると、やはり薬師見平は今現在私達がそう認識している場所、という気はする。だとするとこれらの地図はなんなんだ。
まあ確かに、これら昔のガイドブックの折り込み地図はかなりいい加減である。夢ノ平の場所はまるきり尾根1本違うし6)、地形図としてもとても使用に耐えない粗さである。でも、それにしても誤差が大きすぎるし出版社が違う2つの地図で同じような表記というのが気にかかる。
また、これらの地図での姿見平はもしかしたらかなり正確かもしれないのである。
私達が通った「姿見平」は標高2100m付近だったのだが、「平」というには傾斜が強い場所だったし、それほど笹原も開けていなかった。樹林帯のヤブの小休止といった感じだった。
その時、もっと標高が低い下の方にかなり広大な笹原が広がっているのが見えていた。これらの古い地図の方が「姿見平」という名前の場所にはそれらしい気がしている。
私達が行った薬師見平が薬師見平であるという証拠は、看板と岩に描かれたペンキ印がある。
でも勘ぐれば、少なくとも平成3年に一度高天原新道は再整備されているのである。この時に道は昔の薬師見平ではなく現在の薬師見平に付けられた、と想像することだって可能である。看板とペンキはその時のものであると。
ま、そのあたりはもう少し資料が揃わないと何とも言えないところである。
ちなみに、昨年の岳人12)で上ノ廊下を経由して薬師見平に到達した服部文祥氏が、「薬師見平からの下降につかった沢は、かつて途中まで高天原新道であった」と書いているが、それは多分確実に間違いである。古い地図で描かれている高天原新道は、この沢を横切ることはあっても遡行はしていないし、また上で述べている岩に描かれたペンキの矢印は例の沢の入り口にあり、しかも沢と90度異なる方角を指していた。その方向の樹林帯中に微かな踏み跡らしきものがあり、それは例の沢に入らずに赤牛岳の山腹を水平にトラバースする方向に伸びているものと思われた。(下図参照)
薬師見平付近 古いガイドブックの地図は概ね黒点線のルートを図示している。 岳人の服部文祥氏が下降した谷は水線で描かれている谷で、 その谷の入り口に赤の矢印の方向にペンキでマーキングされていた。 |
上手の通り、少なくともこの谷を高天原新道が下降していた、ということを示す資料なり痕跡は存在しない。
高天原新道のルートについて、ちょっと面白いことに気が付いた。
五十嶋一晃氏による「黒部川の要所「平」付近の歩道は、大正14年(1925)に東信電気(株)で開いた歩道があった。平を中心に、下は棒小屋沢落口下流の棒小屋(現在はない)で日本電力(株)で造った歩道、いわゆる日電歩道に繋がり、上は東沢谷、口元のタル沢などの落口を過ぎ薬師見平、夢ノ平、高天原から川沿いに薬師沢へとつづく東信歩道があった。いまでも一部残っている。」11)という一文がある。
この東信歩道という道は、勉強不足なのだが初耳だった。日電歩道ならよく聞く名前なのだが。それも大正年間に薬師見平経由ときたもんだ。
他の資料を探していたら、岳人266号5)に冠松次郎が書いた文章の中に東信歩道が出てきた。
この文章は大正6年の上ノ廊下遡行のことを書いているのだが、「黒ビンガ(池上注:下の黒ビンガのこと)下では尾根上の方にあった東信歩道が、ここで谷の方に降りてきている。」(スゴ沢付近の描写)、また「東信歩道はここでまた尾根の方に上がってしまった。」(スゴ沢出合上流)と書かれている。
さらに「黒部渓谷」1)では東信歩道についてもっと詳細な記述がある。
起点の棒小屋沢出合いからかなり詳しく書かれているのだが、東沢出合から上部の記述は抜粋すると概ね以下のとおりである。
・東沢出合より東沢左岸の尾根を上がり、山側を回って口元ノタル沢へ向かう
・口元ノタル沢から崖側をかなり高いところまで上がり尾根へ達する
・やがて道は川(黒部川本流)に降りる
「黒部渓谷」では冠は「私はこの先の東信歩道を歩いたことはない」と言ってルート解説を終わっているのだが、上の岳人の記述と併せて考えると、どうもこれがスゴ沢出合付近らしい。そして東信歩道はすぐまた山の方に上がっていくわけである。
冠松次郎はこの先の東信歩道はまるで興味がなかったのだろうが、もし歩いていてくれていれば非常に貴重な資料になっただろうに・・・
こ〜の沢ヲタクが〜。あ〜もったいない。
実はこのルート、地図で見る高天原新道のルートと同じなんである。
43年のガイドブック4)、45年のガイドブック5)共に、地図上の高天原新道は東沢出合からしばらく尾根を登っている。すなわち、この最初の部分は読売新道である。
そして標高差で約100mほど登ったところで読売新道と別れ、黒部川右岸の山腹を水平〜やや登り気味に走っている。その標高が最も高くなるのは口元ノタル沢を横切るあたりで、そこからじりじりと標高を下げ、スゴ沢出合(中ノタル沢出合)の直前で川に戻っている。しかし戻ったのもつかの間、中ノタル沢を過ぎた直後に再び尾根を上がっているのである。冠が書く東信歩道の記述と全て一致している。
ということはつまり、高天原新道とは東信歩道の再開発だったのではないだろうか?
東信歩道の開発が大正14年で高天原新道が昭和39年開通だから、その間40年弱である。ちょうど今現在「高天原新道を再整備しよう」とするのと同じような時間差だとすれば、あながち突飛なこととも思えない。
・・・だとすると薬師見平付近のルートも、やはりガイドブックの地図が正確なのだろうか???
高天原新道のルートについては、今現在入手している資料でこれ以上考えても仕方ないので、ひとまずここまでとする。
3.その他の謎について
もうひとつ、昔の地図を見ていて面白いことに気づいたのだが、高天原新道に避難小屋があったのである。
それが43年のガイドブック4)の折り込み地図には載っていて45年の地図6)にはもう載っていない。48年のガイドブック7)には高天原新道についてかなり詳細な記述があるが、避難小屋については一言も触れられていない。どうやらあっという間に倒壊したか何かでなくなったらしい。
しかし、その位置についてはどうもあやふやである。
43年のガイドブック4)の折り込み地図には「姿見平小屋(ヒナン小屋)」と書かれていて、その場所も粗い地図だがまさに姿見平にあるように見える。ところが同じガイドブックの本文中にその周辺が描かれている概念図が2枚あるのだが、その両方とも姿見平と薬師見平の中間に小屋があることになっている。尾根2本は違う場所である。しかも概念図の方には「避難小屋」とだけ書かれていて「姿見平小屋」の表記ではない。
今でも小屋の痕跡くらい残っているだろうか。
探しに行きてぇ〜!
実際、この小屋の痕跡を発見できたら、高天原新道のルートがかなり詰まってくると思う。あとはもうひとつの薬師見平候補地の1974m標高点付近に登山道の痕跡があるかどうか。
・・・ま、探すとなれば1ヶ月くらい山中をうろうろしなきゃならんような気が。堅気のうちは無理かしら。
高天原新道について、どなたか情報をお持ちの方はご連絡していただけると幸いです。
参考文献
1) |
黒部渓谷 (日本山岳名著全集3 尾瀬と鬼怒沼・黒部渓谷) |
冠松次郎 | あかね書房 | 昭和45年(昭和3年) |
2) |
黒部渓谷と雲ノ平 |
伊藤正一 | 山と渓谷社 | 昭和37年 |
3) |
立山・剣・黒部 (ブルーガイドブックス41) |
山口督・中野峻陽 | 実業之日本社 | 昭和40年 |
4) |
黒部湖・薬師・雲ノ平・黒部源流 (アルパインガイド32) |
渡辺正臣 | 山と渓谷社 | 昭和43年 |
5) |
岳人 266 黒部とその周辺 | 東京新聞出版局 | 昭和44年 | |
6) |
立山・剣・黒部・雲ノ平 (ブルーガイドブックス) |
ブルーガイドブックス編集部 | 実業之日本社 | 昭和45年 |
7) |
立山・剣・薬師岳・雲ノ平・黒部渓谷 |
渡辺正臣 | 山と渓谷社 | 昭和48年 |
8) |
槍・穂高・雲ノ平 (山と渓谷臨時増刊) |
山と渓谷社 | 昭和53年 | |
9) |
岳人 626 日本の山再発見・黒部の山々 | 東京新聞出版局 | 平成11年 | |
10) |
太郎平小屋 50周年を迎えて | 五十嶋博文 | 非売品 | 平成16年 |
11) |
岳は日に五たび色がかわる (太郎平小屋50年史別冊) |
五十嶋一晃 | 非売品 | 平成16年 |
12) |
岳人 687 山上の桃源郷 | 東京新聞出版局 | 平成16年 |