続・高天原新道の謎

 

 高天原新道の謎を書いた後で、さらに新しい資料を何点か入手した。
 国会図書館に複写依頼して入手していた昭和43年のガイドブック4)は、折り込み地図や概念図、雲ノ平周辺の新道の紹介でごく簡単な一文があったものの、肝心の高天原新道のコースガイドが抜けていたので、追加で複写請求を行い、高天原新道のコースガイド部分を入手した。
 また、岳人の昭和40年6月号13)部特集」が組まれていることが判り、これはちょうど所蔵している古本屋が見つかったので購入してしまった。
 さらに、このサイトを読んでくださった方からヤマケイの昭和61年7月号14)で黒部源流の特集が組まれており、高天原新道に関する一文があるとの情報をいただき、そればかりかコピー郵送までしていただいた。この場を借りてお礼申し上げます。

 というわけで、新資料をもとにさらに考察することにする。

1.高天原新道が存在した時期について

 結論から言えば、前項(高天原新道の謎)で推察した昭和39年開通という説は変わらない。
 金子博文氏が書いたヤマケイの記事14)には昭和35年開通とあって異論となっているのだが、この記事は昭和61年すなわち開通後20年以上経ってから書かれている。それに対し、昭和40年の岳人の記事13)では開通直後の昭和39年8月に実際に高天原新道を歩いた岳人編集部の河合一二三氏と上ノ廊下の遡行ルート紹介記事を書いた広島大学山岳部が、共に昭和39年の開通であると明言している。
 執筆時点での直近の出来事である点と、岳人の2者は実際に現地入りした上でこれらの記事を書いている点から(金子氏は現地入りせず、また聞きだけで記事を書いている)、高天原新道の開通時期は昭和39年で間違いないと考えても良いと思う。

 廃道になった時期については、これも前項で推察したとおり、昭和44年の集中豪雨で中ノタル沢までの前半部分が崩壊して通行不能になり、その時点で事実上高天原新道は廃道同然になった、という推察で良いと思う。

 前項で述べたとおり、昭和48年のガイドブック7)にも高天原新道は紹介されている。しかしガイドが突然中ノタル沢出合いから始まっていて、かつ東沢出合いから中ノタル沢出合いまでのルートは単なる上ノ廊下遡行の一部分で、当然沢登りコース扱いになっている。
 かなり無茶なガイドなのだが、つまり一般登山者では前半部分が崩壊した時点でもう高天原新道は通行不可能だったということだろう。

 なお、金子氏14)によれば、高天原新道は"最近"再整備されたということである。最近というのは記事執筆時点から見て、である。
 掲載が昭和61年7月号ということ、さらに"再整備"後の同新道を歩いた人物に取材した上で記事を書いていることから考えると、再整備時期は少なくとも昭和60年以前であろう。
 この記事を丹念に読んでいて気づいたのだが、金子氏は高天原新道が再整備された時期について明言せず、「最近」としか述べていない。そもそもこの記事は、その再整備に対する是非論なのであるが、それなのにその時期などについての詳細をほとんど述べていないのはかなり不自然な印象を受ける。その整備状況についても「刈り払いをした程度」と述べているが、これも伝聞である。現地に行っていないのだからこれ以上のことは書けないのが道理なのだが、これで記事を書いて原稿料がもらえるなんて、なんて楽な仕事なんでしょう。
 ・・・ま、ヤマケイの原稿料が安いのは私も知っているので、これ以上何とも言えないが。

 

2.高天原新道のルートについて

 まず前項で触れた東信歩道との関連であるが、これは岳人20713)の中で広島大学山岳部が、「高天原新道は東沢出合いから昔の東信歩道を再生した道だ」と明言している。また、その前半(東沢出合い〜薬師見平)のルートについても、「途中この道は廊下沢手前でいったん本流に下り、中ノタル沢から再び赤牛側に登る。そして霞平のスソを巻き高天原に至る」と書いている。まあ前項で推測した前半部分のルートとほぼ同じなのだが、それにしても霞平ってなに???初めて聞く名前だ。

 肝心の高天原新道を実際に歩いた河合氏の記事13)は、残念ながらかなり混乱している。
 前半部分は良いのである。これは既知の情報から推測しているルートと矛盾はない。問題は薬師見平付近である。

 この記事によれば中ノタル沢を登り始めて次に避難小屋に着いてしまう。避難小屋、情報源によって姿見平から薬師見平近くまで、尾根2本くらい違う範囲でどこだったのだろうと考えていたのだが、ついに薬師見平より東沢よりまで候補に挙がってしまった・・・
 薬師見平そのものの位置はこの記事では極めて明確である。「地図で言えば赤牛岳の左上方2210.4mの西に広がる平らなところがそうだ」とあるので、これはまさしく私達が知っている薬師見平のことである。
 ただし。河合氏はこの場所を「姿見平」と言っているのである。ああ。でも、この河合氏の記事では薬師見平という地名は出てこないので、たぶん姿見平と薬師見平を混同したんだろうなという推測しかできない。

 昭和43年のガイドブック4)では、初日は黒四ダムから平の小屋、2日目に高天原新道を中ノタル沢出合いまで(ビバーク)、3日目に高天原、というコース設定になっている。奥黒部ヒュッテが建設される直前の記事なので仕方ないのだが、上ノ廊下のど真ん中でのビバークを含む激しい一般ルートである。

 これも前半部分は同じ。どうやら前半部分、新道が中ノタル沢を登るあたりまでは確定と考えて良さそうである。
 ちなみに岳人626号9)に志水哲也氏が書いた上ノ廊下の遡行図に、平行する高天原新道が描かれている。かなり間違っている。まあ別に高天原新道が主題ではないのでそれを指摘するのは気の毒なのだが。
 ルートの間違いよりも気になるのは、このルート図に高天原新道のことが「1991年以降は整備されていない廃道」と書かれていることで、これはすなわち平成3年に同新道が再整備されたことを意味しているのだろうか。

 昭和43年のガイドブックの記事4)に戻るが、件の避難小屋の位置は、薬師見平から高天原に25分くらいの場所だとある。姿見平避難小屋と呼んでいるのは高天原山荘の人達(大東鉱山時代)だそうである。概念図と併せるとだいたいの位置は掴めたが、姿見平からはけっこう遠いような気がするんだが・・・

 ちなみにこの記事からは、薬師見平が現在の場所なのか、前項で述べたさらにその西方の1974m標高点付近の場所なのかは、やっぱり断言はできない。本文中に薬師見平の写真が挿入されているのだが、これが樹林帯中なのである。しかも写真の行進するパーティーの背後に見える薬師岳の見え具合からは、私が行った薬師見平より標高が低く薬師岳により近いような気がする。まあ気がするだけなのだが、なんとなく嫌な予感がしないでもない。
 今のところ唯一位置を明確にした文献は岳人の河合氏の記事5)だけである。その記事では名前と避難小屋の位置が違うが。

 河合氏の記事を読む限り、不審な点は多少あるのだが高天原新道は現在の薬師見平を通っていたと思いたい。
 が、まだそれに対する疑問はある。

 まず、昭和43年のガイドブック4)の記事だが、薬師見平を過ぎてしばらく行くと正面に黒部五郎岳が顔を見せる、と書かれている。
 しかし、薬師見平から黒部五郎岳、見えるのである。

 また、薬師見平以降の記述では、「樹林の中のゆるい登り下りを進むと、再び急な下りとなって沢を横切り、同じように今一本の沢に出る」と書かれている。これは1974m付近が薬師見平だった、と仮定した場合の地形とよく符合する。1974m標高点付近からしばらくほぼ水平に南下し、尾根を越えたあたりで沢に急降下すれば、ちょうど二俣に分かれた直後の無名沢を続けて渡ることになるんだな、これが。
 それが現在の薬師見平を起点にすると、しばらく水平に南下して尾根を越えて急降下すると、確かに沢を横切る。だが、次の沢までは丸々尾根1本ある。この記述のように「続けて」という感じではない。

 この「同じように今一本の沢に出る」という文章をどう捉えるかだが・・・なんだか魏志倭人伝を解釈している考古学者のような気分になってきた。

 例の避難小屋の痕跡でも発見すれば、この付近に新道があったことが確定でき、必然的に薬師見平の位置が特定できるように思えるのだが、非常に嫌な感じなのは、この避難小屋、どうも沢沿いに建てられていたようなのである。同記事では「同じように今一本の沢に出る」と書かれた次に、「ここに丸太組にトタンを打ちつけた避難小屋がある」と書かれているのである。
 さらに岳人の河合氏の記事13)ではその位置が薬師見平手前にあることになっていてかなりおかしいのであるが、「文字通りの避難小屋でトタンを4〜5枚おりまぜ、丸木柱に打ちつけたものだ」と書かれていて、小屋の様子は前記の記事とよく符合している。
 さらに、「沢のすぐとなりにあるから大雨のときなど浸水するであろう」と書かれているのである。

 ・・・こりゃあもう流されてしまって跡形もないかも。
 後年のガイドブックにこの避難小屋のひの字も出てこないのは、既に流されてしまって痕跡すら残ってないからではないのか。もし探すとすれば、その場所はだいたい判ってしまったのだが、探しても痕跡を発見できる可能性は限りなく低そうである。

 なんでそんな場所に小屋を建てる〜ぅ?

 

 それにしても・・・
 なかなか全てのピースがきちっとはまらない。
 結局のところ、これまでの情報を整理すると、だいたい以下のような感じになる。

(1)ガイドブックからの情報では、記事中に矛盾点などはないが薬師見平の位置が現在認識されている場所と異なる
(2)薬師見平の位置を現在認識されている場所と仮定すると、ガイドブックの記述と地図は間違いだらけとなってしまう
(3)薬師見平の位置が正確に記述され、それが現在認識されている場所と特定できる記事は、その他の矛盾点が多い
(4)現在の薬師見平には登山道の痕跡(指導標と岩に描かれたペンキマーク)が存在する

 といった感じか。あちらを立てればこちらが立たず状態である。

 その当時、ちゃんとまともな記事が書けるやつはいなかったんかい!と八つ当たりでもしたくなるってもんである。

 ただ、ここでふと思うのは、高天原新道が東信歩道の再開発だった、という仮定が正しければ、その昔の東信歩道は果たして現在の薬師見平の位置まで上がってきていただろうか、という気はする。基本的に電力開発のための道だっただろうから、ここまで標高を上げてしまっては目的に合うまい。

 もうひとつは、ガイドブック中で薬師見平は「すばらしい高原」と表現されてはいるが、なんというかその表現は姿見平と同等なんである。実際に行った私の感覚では、薬師見平はかなり大きな池や水苔をびっしり張った規模の大きな湿原で、姿見平はただの笹原である。姿見平は薬師見平に比べたら名前が付いているのが不思議なくらい、その場所としての素晴らしさには月とすっぽんほどの差がある。
 ということを思えば、オリジナルの薬師見平は樹林帯中のちょっと開けた場所程度のところだったのかな?という気も。

 ま、それにしては岳人の記事があまりにも明確に場所特定できてしまっているのが判らないのだが。

高天原新道概念図

高天原新道周辺概念図

 そういうわけで、概念図にまとめてみた。
 ガイドブックによって細かいところはかなり違うのであるが、記述などからも推察される高天原新道のルート図である。

 

3.今後の高天原新道(薬師見平)

 前述したヤマケイの記事14)は、高天原新道が再整備されたという事実を受けての、その是非論である。論旨はもちろん「非」なのだが、この金子氏の記事の場合、なんせ自ら現地入りせずに伝聞だけで記事を書いているので、どうしても首を傾げたくなるところが出てきて素直に納得しづらかったりする。

 まず、金子氏はこの新道を「読売新道と高天原新道はメインルートとして利用者が多かった」と書いている。ほんとか?
 読売新道は現在でも北アで最も登山者の少ない静かな登山道として知られているし、読売新道が開通した直後の昭和43年のガイドブック4)では、温泉沢の頭〜赤牛岳の道程について、「傾斜は緩いが道がない」とか「ひとかかえもある岩のどれもが浮いており、」とか「よほど気をつけないと、石を抱いたまま転落してしまう」など、酷い書かれようである。同じガイドブックで、高天原から立石に降りて立石奇岩までのルートを軽い1日の散策コースとして紹介しているというのに。
 45年のガイドブック6)でも、読売新道と高天原新道が「赤牛岳を巡る2つの秘境コース」として紹介されているが、扱いは小さく2コース合わせてたったの1ページである。とてもメインルートという代物ではない。

 岳人266の河合氏の記事5)によれば、高天原新道について「山荘(池上注:高天原山荘のこと)の人の話では、私を含め昨年、1日で登った人は3パーティーだったという。エーデルワイスクラブの坂倉登喜子さんのパーティーも、道を失い2日ビバークして山荘に着いたという。ことしは雪どけを待ってかなり整備されるそうだが、まず1日行程としては無理と見なければなるまい。大雨のあとなど黒部の広河原も徒渉困難ではないか。」と書かれている。相当の難物だったのだ。
 東沢出合いに奥黒部ヒュッテが建設された昭和43年からはかなり楽になったものの、それまでは平の小屋からだから完全にビバーク前提のルートだったわけである。しかも奥黒部ヒュッテができてからも、この河合氏が実際に東沢出合いから高天原まで11時間かかっていることからみても、いくら昔の登山者が現在よりレベルが高かったと言っても、「メインルート」になるような性質の道ではなかったはずである。
 さらに、奥黒部ヒュッテができた翌年の昭和44年には集中豪雨によって前半部分が通行不能になり、登山道としては死に体になっている。

 現在でも薬師見平には、年間に1〜2パーティーは入っている様子なのだが、もしかしたら高天原新道ができてから現在に至るまで、シーズンあたりの薬師見平への入山者数はあまり変動していないのではないか、とさえ思える。

 金子氏の文章は、「昔人気があった登山道が再整備されたら人がわんさか来て湿原が破壊されてしまう。」という論調なのだが、どうも読んでいて無理を感じる。
 本文中に当時の高天原山荘の大山さんの談話が挿入されているが、「あれが道なんでしょうかね」「入る人がいるんでしょうかという感じです」とかなり冷ややかである。大山さんを知っている私としては、その皮肉っぽい口調まで目に浮かぶようで笑ってしまったのだが。

 ま、その大山氏も本文を読む限り、高天原新道の再整備には反対の立場を取っている。
 だが、その理由としては、「自然の破壊」も述べているのだが、「奥黒部ヒュッテからも高天原山荘からもかなり時間がかかります。万一のときにたいしたこともできないのではないでしょうか」という理由をまず最初に述べている。

 現実に高天原新道はこのとき、再整備されたものの誰にも相手にされず、すぐまた廃道になった。そもそも同時期、薬師沢小屋にバイトに入り、高天原にも遊びに行っていた私が知らなかったのである。登山者の間にも小屋関係者の間でもほとんど話題にさえ上らなかった。そういえば大山さんが高天原新道について「いらんことしやがって」と吐き捨てていたのは聞いた記憶があるが・・・

 またこの記事、最終的に結論は「だからこそ、この薬師見平一帯はいっさい人の立ち入らない、本来の意味の自然のサンクチュアリとして残すべきだと思うのである。」と結んでいるのだが、この再整備が「人々から忘れられた道に手を入れてみてもやっぱり忘れられたままだった」ということだったとすれば、この記事はもしかしたら金子氏の意図とは裏腹に、世の人に「薬師見平という素晴らしい場所がある」ということを知らしめただけの結果に終わってしまったのではないか。入る人、それから増えていたりして。
 「人がいっさい入らない」と言っても、そのための具体的方策について何の示唆もできない以上、記事を書いたことによる弊害の方が大きかったかもしれない。

 人が入らないようにする、という意志があるのなら、このあたり一帯を「入山禁止」にするという措置だって考えられる。薬師見平はともかく奥黒部ヒュッテか高天原山荘のどちらかを通過せざるを得ないのだから、両小屋に適切な監視体制さえ構築すれば入山禁止措置をかなり実行力のあるものにできるだろう

 でも、薬師見平にそこまで必要だろうか?薬師見平にそれをするなら赤木沢を始めとする黒部川源流地帯にその措置をする方が先決だと思うが。少なくとも黒部源流地帯の方がせっぱ詰まっているだろう。
 金子氏の記事が書かれた当時から現在に至るまで、そういう措置が必要とされるほどの状況には私個人的には思えない。ならば金子氏はあんな記事など書かずにそっとしておくべきだった、とやはり私個人的には思う。特に整備状況(刈り払いの程度)などの実態を現地入りして確認することなく、「再整備された」というだけの情報で記事を書いてしまったことはまずかろう。結果的に弊害の方が大きかったかもしれないから。

 では今現時点で、高天原新道を再整備するという話が出たら、というと私個人的にはやはり反対である。
 でもそれは単純に「湿原が破壊されるから」という理由ではなく、「事故の対応と登山道の管理が困難だから」という理由が大きい。
 あれだけ長い道だから、事故が起きた場合、まず山小屋に通報されるのに非常に時間がかかるだろう。単独行だったりすると下手すると手遅れになりかねない。どんな道ができても、あまりに長いのでそれほど人通りが多い道になるとはとても思えないので。
 まして道迷いの末動けなくなった、なんて事態だったら、発見されることすら難しい。樹林帯の中だったりしたら永遠に見つけてもらえないかも。

 それと山小屋で働いた経験があったり同じ山域にしつこく何年も通ったりするとつくづく実感するが、山道というものは作ったらそれで終わりという代物ではない。むしろできてからの維持が大変なのである。雨が降ったらどこかが崩れて通れなくなる。例えば大東新道なんてA-B沢間だけでなく、B沢から高天原峠の区間でも、細かいところを見れば毎年どこかが変わっているのである。そういう整備はどこがしているかというと、たいてい山小屋である。
 特に沢沿いや沢を横断する地点では、毎年どころかシーズン中ですらちょっとした雨が降れば変わる。
 高天原新道を再整備したとして、その維持はどこがやるのか。高天原山荘からも奥黒部ヒュッテからも遠すぎてコース全域の維持は非常に難しい、と思う。現にこれまでに何回か整備されてもすぐ廃道になってしまうのはそのためではなかったのか。

 ま、それに第一、赤牛沢の崩壊が大規模すぎてもはや物理的に不可能だと思う。あそこを安全に横断できるルートを作れるのだろうか。仮に作っても下手すれば1週間経てばまた崩壊して元の木阿弥になってしまいそうである。

 なので高天原新道の復活については、反対と言うよりは無理、というのが私の気持ちとしては近い表現である。

 まあ実際の話、行政がその気になりさえすれば「入山禁止」という措置を執るのは決して難しくないと思う。
 ならば薬師見平一帯を始めとして赤木沢を始めとする黒部源流地帯もまとめて入山禁止にしてしまい、一般登山道以外は歩くな!とでもしてしまったらそれで済むのだろうか。
 登山の本質って創造的、言葉を換えれば冒険であり探検だと思うのだが、一般登山道に押し込められてしまうのはそれと対極に追いやられてしまう、ということである。まあそういう登山は北アではなく他でやれ、というのも一理あるかもしれないが、それでは北アの登山者は物見遊山で良いのだ、ということになりはしまいか。物見遊山であるならば、その登山者に山小屋は下界に比べて不便であることを理解しろとか自己責任で行動しろなんというのは、受け入れ側の勝手な理屈になってしまうのではないか。

 薬師見平に到達するためには、高天原新道の跡をトレースするか、はたまた昔考えていたように赤牛岳経由で行くか、上ノ廊下を経由するか、またはスゴ乗越からスゴ沢〜中ノタル沢で行くか、いろんなルートが考え得る。赤牛岳という巨大な山のど真ん中に存在し、強烈なヤブと上ノ廊下によってガードされた場所に到達するために、その山の弱点を探ってルートを考え、それを試みるのは本当に面白い。沢登りで絶望的なゴルジュに遭遇して高巻きか突破かを悩みながら必死に岩の弱点を探すのも面白いが、相手のスケールが桁違いに大きいだけもっともっと面白い、と私は感じた。

 そのためにはまず体力が必要でヤブこぎや沢登りができ、読図力や天候を読む力ももちろん必要で、場合によってはある程度のザイルワークも使いこなせる必要があったり、さらにその山に対する土地勘も必要だったりして、まさに総合力が必要だという点がまた面白い。それぞれの技術は、決してハイレベルなものが必要とされるわけではないが、登山に関わる全ての技術がある程度以上必要、というあたりが。

 他の山域でももちろんこういう場所はあるのだろうけど、少なくとも私にとっては20余年来の思い入れがある分、他では代替え不可能な得難い場所なのである。ここにかつて道があった、というのがまたロマンを感じていいんだな。

 だからもちろん登山道は通して欲しくないし、また入山禁止のような措置も執って欲しくないわけである。

 でもそのためには我々登山者自身がもっと考える必要はあるだろう。
 バリエーションルートをやる人間に限って、「登山道の外に立ち入ってはならない」あるいは「キャンプ指定地以外での幕営は禁止」という規則(法律なんである)を「自分たちには関係ない」と思っている節がある。
 例えば、上ノ廊下を遡行しているバーティーが沢中で幕営することや、私のように薬師見平に行った場合の幕営については、これは幕営なしでそのルートを完遂することが不可能である以上、黙認されていると解釈したい。
 でも、それと兎平五郎沢出合いで幕営することは意味がぜんぜん違うでしょ。
 また、赤木沢を遡行した時、稜線まで出てきているのにわざわざ登山道手前の草原で休憩しているパーティーを見かけたが、それら何の必然性もない行為に言い訳はできまい。

 だいたいにおいて、バリエーションルートをやる人間の方がモラルは低い、と感じる。
 なので案外高天原新道をきっちり再整備した方が、薬師見平は荒れずに済むのかもしれなかったりして。

 

 

参考文献

1)

黒部渓谷
(日本山岳名著全集3 尾瀬と鬼怒沼・黒部渓谷)
 冠松次郎  あかね書房  昭和45年(昭和3年)

2)

黒部渓谷と雲ノ平
  (山渓文庫16)

 伊藤正一  山と渓谷社  昭和37年

3)

立山・剣・黒部
  (ブルーガイドブックス41)
 山口督・中野峻陽  実業之日本社  昭和40年

4)

黒部湖・薬師・雲ノ平・黒部源流
  (アルパインガイド32)
 渡辺正臣  山と渓谷社  昭和43年

5)

岳人 266 黒部とその周辺  東京新聞出版局  昭和44年

6)

立山・剣・黒部・雲ノ平
  (ブルーガイドブックス)
 ブルーガイドブックス編集部  実業之日本社  昭和45年

7)

立山・剣・薬師岳・雲ノ平・黒部渓谷
  (アルパインガイド26)

 渡辺正臣  山と渓谷社  昭和48年

8)

槍・穂高・雲ノ平
  (山と渓谷臨時増刊)
 山と渓谷社  昭和53年

9)

岳人 626 日本の山再発見・黒部の山々    東京新聞出版局  平成11年

10)

太郎平小屋 50周年を迎えて  五十嶋博文  非売品  平成16年

11)

岳は日に五たび色がかわる
  (太郎平小屋50年史別冊)
 五十嶋一晃  非売品  平成16年

12)

岳人 687 山上の桃源郷  東京新聞出版局  平成16年
         

13)

岳人 207 黒部特集 東京新聞出版局  昭和40年

14)

山と渓谷 608 [北アルプス特集]雲ノ平と黒部源流の山   山と渓谷社  昭和61年

 

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