続々・高天原新道の謎

 富山テレビの放送で佐伯郁夫氏が高天原新道の再整備は「昭和59年、高嶋石盛氏の手による」ものだと言及しておられた。
 高嶋石盛氏は山岳警備隊出身の山岳ガイド(1994年ヒマラヤ・ツインズ峰にて遭難死)であるが、同氏がどういう経緯で高天原新道を整備することになったか、今となってはよく判らない。
 が、前項(続・高天原新道の謎)で再整備時期をヤマケイの金子氏の記事14)より「昭和60年以前」と推測したこととよく合致する。

 番組中の五十嶋博文氏や佐伯郁夫氏を始めとして、今現在「高天原新道を通って薬師見平に行った」と言っておられる人物は、おそらくこの昭和60年から数年間の間に新しい高天原新道を通って行ったのだろうと推測できる。佐伯氏は番組中でそう明言しておられたし、五十嶋氏にしても、最初の高天原新道が開通した時期は、まだ高天原山荘の経営もしていなかった頃である。・・・ま、直接聞けばいいんだけどさ。

 いずれにしても、昭和59年(私が剱の岩場で遊び狂っていた時期か・・・)に整備された新しい高天原新道が、現在の薬師見平を通過していたことはほぼ確実である。薬師見平に残されたペンキ印や指導標などはこの時のものなのだろう。

 が、新しい高天原新道が最初の高天原新道に忠実に再整備された、という保証はないのである。

 つまり新旧2つの高天原新道は、実はまったく違うルートだったのではないか?という推測ができてしまう。

 少なくとも、昭和40年代のガイドブックや雑誌の記事などに、現在の薬師見平経由のルートを推測させる資料はほとんどない。
 ほとんど唯一の資料として、岳人207の河合一二三氏の記事13)中の「地図で言えば赤牛岳の左上方2210.4mの西に広がる平らなところがそうだ」という文章のみである。ただし、この文はオリジナルの薬師見平候補地にも当てはまることは当てはまる。その間に現在の薬師見平が広がっているので不自然と言えば不自然だが。

 そこで、オリジナルの高天原新道は、現在の薬師見平を通らず、さらにその西方1974m標高点付近を通っており、当時はそこを薬師見平と呼んでいた、という仮説を唱えてしまうことにする。
 根拠は以下のとおり。

1.昭和40年代のガイドブックの記述及び付属の地図

2.昭和43年のガイドブック4)に掲載されている「薬師見平」の写真
  (現在の薬師見平より標高が低く、薬師岳により近いように見える。また樹林帯の中の笹原という雰囲気の場所である)

3.オリジナルの高天原新道が東信歩道の再整備であった、と記述されている13)こと
  基本的に電力開発のための道である東信歩道が現在の薬師見平まで標高を上げたとは考えにくい

 

薬師岳より薬師見平を望む

薬師岳から薬師見平を望む

 この上の写真は薬師岳の頂上から薬師見平付近を見たものである。

 高天原新道は写真左下に見える黒部川本流の広河原より、中のタル沢の左岸を登っていた。ここまでは東信歩道の記述とも一致するし、どのガイドブックの記述も同じなので確定と考えて良いと思う。資料によっては中のタル沢の左岸の尾根に取り付いて登ったとも、しばらくは中のタル沢を遡行したとも取れるが、いずれにしろある程度標高を上げてからは中のタル沢の左岸の尾根(写真で手前の尾根)を登っていた、ということである。
 そうすると・・・単に黒部川に沿って上流に行くだけなら、この1974m標高点あたりで尾根を直上するのをやめ、水平に笹原を横切るのが唯一の合理的な道の通し方、という気がする。ここで現薬師見平まで登ってしまうと標高は目的地の高天原とほぼ同じ場所まで達してしまうのである。
 ここから沢を横切るたびにアップダウンをすることになるわけだから、ここで標高を高天原と同じ位置まで上げてしまうことは、ムダ以外の何者でもない

 もちろん「登山道」ならスポットとして薬師見平は外せない、そのためには多少ムダをしても薬師見平を通す、というやり方をするのは判る。だけど東信歩道はそういう意味の「登山道」ではなかっただろうから、広河原を経由して現薬師見平から高天原に道が続いていた、と考えるととても不自然な道に見えてしまう。

 だから東信歩道が現薬師見平ではなく、1974m標高点付近を通っていた、ということはほぼ確実だろうと思う。
 問題はオリジナルの高天原新道東信歩道の忠実な再整備であったかどうか、なのだが・・・

 まあ、ガイドブックの記述や付録の地図などを根拠にすると、そのこと(東信歩道の忠実な再整備だったこと)もほぼ確実なことのように思われる。
 なので当初は薬師見平を現在の位置ではなく、1974m標高点付近のことをそう呼んでいた。
 だが、この間の詳細な推移が判らないが、昭和59年に高嶋石盛氏が高天原新道を再整備したときは、現在の薬師見平を通過するように道が付けられた。そして現在の場所が薬師見平と呼ばれるようになった、という説である。

 ちなみに昭和50年刊の2.5万図「薬師岳」には、薬師見平の地名はまだ載っていない。
 なので少なくとも現在の2.5万図に掲載されている薬師見平の位置が高嶋氏の示した場所であることは確実である。

 

 そんなこんなで、いろいろ資料を調べまくった結果、40年前のオリジナルの高天原新道と薬師見平、それと20年前のそれらとは位置が違う、という結論(説)に至った。
 となるとむしろ判らないのは新しい方の高天原新道のルートである。こちらの方はガイドブックにも載らなかったようなので、まったくと言って良いほど資料がない。

 薬師見平で見つけたペンキ印は、薬師見平の外れで東に向いていた。つまり標高を下げず水平に赤牛岳の裾を巻くように行っていたのではないか。
 確かにその方が合理的である。その斜面は樹林帯でヤブはきつそうだが、安定した穏やかな斜面に見えた。
 道のない山を登下降する際は確かに沢沿いをルートに取った方が断然楽だが、道を付けるとなれば沢沿いは避けた方が無難だろう。沢沿いの道はちょっとした悪天候で増水して通行不可能になるし、せっかく整備した道もあっという間に破壊される。
 なので合理的な道の付け方は、薬師見平から水平に赤牛岳の腹を巻いていくルートだと思うのだが・・・まあ高嶋氏が同じ考え方をしていたかどうかまでは判らない。

 また、前半部分も大幅に変わっていた可能性もある。
 だいたい、いったんはかなり標高を上げておきながら広河原で再び黒部川の河原まで下りてしまうという東信歩道のルート設定が不合理なのである。アルバイトもさることながら、上ノ廊下に下りてしまうと増水時に通行不可能になってしまう。通せるものならもっと標高が高いところを通したい。まあそのあたりも実際はどうだったかさっぱり判らないのだが。

 

参考文献

1)

黒部渓谷
(日本山岳名著全集3 尾瀬と鬼怒沼・黒部渓谷)
 冠松次郎  あかね書房  昭和45年(昭和3年)

2)

黒部渓谷と雲ノ平
  (山渓文庫16)

 伊藤正一  山と渓谷社  昭和37年

3)

立山・剣・黒部
  (ブルーガイドブックス41)
 山口督・中野峻陽  実業之日本社  昭和40年

4)

黒部湖・薬師・雲ノ平・黒部源流
  (アルパインガイド32)
 渡辺正臣  山と渓谷社  昭和43年

5)

岳人 266 黒部とその周辺  東京新聞出版局  昭和44年

6)

立山・剣・黒部・雲ノ平
  (ブルーガイドブックス)
 ブルーガイドブックス編集部  実業之日本社  昭和45年

7)

立山・剣・薬師岳・雲ノ平・黒部渓谷
  (アルパインガイド26)

 渡辺正臣  山と渓谷社  昭和48年

8)

槍・穂高・雲ノ平
  (山と渓谷臨時増刊)
 山と渓谷社  昭和53年

9)

岳人 626 日本の山再発見・黒部の山々    東京新聞出版局  平成11年

10)

太郎平小屋 50周年を迎えて  五十嶋博文  非売品  平成16年

11)

岳は日に五たび色がかわる
  (太郎平小屋50年史別冊)
 五十嶋一晃  非売品  平成16年

12)

岳人 687 山上の桃源郷  東京新聞出版局  平成16年
         

13)

岳人 207 黒部特集 東京新聞出版局  昭和40年

14)

山と渓谷 608 [北アルプス特集]雲ノ平と黒部源流の山   山と渓谷社  昭和61年

 

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