高天原新道の謎 Part VI

 どこまで続くんだという感じであるが、またも新情報である。
 この度情報を提供してくださったのは、続・高天原新道の謎で触れた岳人20713)の記事を書かれた河合一二三氏である。

 それにしても河合氏がこの道を歩いたのは昭和39年である。私がまだ親父の方に居た頃である。もっと正確を期して計算すると、私の半分のDNAはまだ減数分裂をする前なのではないか。もう半分のDNAは減数分裂の途中・・・だったっけ?

 それはともかく、河合さんは電話をかけてくださった後、高天原新道を歩いた直後の昭和39年8月20日に東京中日新聞に河合氏自身が書かれた記事と、当時の写真のコピーを郵送してくださった。どちらも資料的にとてつもなく価値があるものである。この場を借りて改めてお礼を言わせてください。

 まず河合氏の記事17)によってオリジナルの高天原新道を開拓した人が判った。
 芦峅寺のガイド、志鷹光次郎という人だそうだ。田中澄江氏の「花の百名山」にもよく名前が出てくる人なのだが、大正12年の松尾峠での板倉勝宣の遭難死の際にも同行していたガイドだそうで、私にとってはもはや歴史上の人物である。
 記事によれば、この高天原新道は志鷹光次郎氏ら6人が5月から作業に取りかかり、6月末に開通した道、ということらしい。これだけの道程の登山道を僅か1ヶ月で開拓できるものだろうか、とか5月だとこのあたりはまだ雪の下で登山道の開拓も何もないのではないか、とかいくつか疑問が浮かぶが・・・
 ま、新高天原新道も1シーズンで開拓されたらしいし、"刈り払い"程度であれば開拓期間はこんなものなのかもしれない。

 この記事は同年にこの道を歩いた河合氏が、その直後に新聞の特集記事に書いたものである。なので記憶が新しい分、記述も詳しいように思える。
 また各地点での時刻が書かれているのが、資料として何よりありがたい。
 この日の行程は、記事から抜粋すると以下のとおりである。

平の小屋 → 東沢出合(7:45) → 口元のタル沢(11:40) → 河原(13:10) → 中のタル沢のやや上部(14:30) → 避難小屋(16:00) → 湿原(16:30) → 赤牛沢(17:45) → 高天原山荘(19:20)

注) 「中のタル沢のやや上部」というのは、本文に「スゴ沢のま向かい、赤牛側から出ている沢に取りつく。ゴロゴロした大岩の間をぬってケルン伝いに行くと『高天原へ4時間』と岩にペンキで書いてある。」という記述による。
 また、この行程の中で「湿原」は、位置から考えて姿見平のことだろう。

 また、枠で囲った「高天原新道コースタイム」も記述されており、それは以下のとおりである。

東沢出合 (0:10) 高天原新道入り口 (0:25) 右に再び黒部 (1:50) 赤茶けた涸れ滝 (1:00) 口元のタル沢 (0:45) 黒部へ降りる (1:00) スゴ沢出合 (1:20) 初の湿原 (0:25) 避難小屋 (0:40) ひえばた原 (1:15) 赤牛沢 (0:50) 夢ノ原 (0:30) 大東鉱山事務所・湿原 (0:15) 高天原山荘

 さて、これも興味深いのだが、まず「右に再び黒部」とか「赤茶けた涸れ滝」などはどこのことやらさっぱり判らない。
 「初の湿原」というのがおそらく薬師見平のことである。また、「ひえばた原」というのは初めて見る地名だが、位置的には姿見平のことだろう。

 さて、薬師見平付近のことは記事ではこう書かれている。

 「突然、針葉樹林に囲まれたのどかな湿原に出る。ササの間に高山植物もチラホラ。苦闘9時間、はじめて緊張がほぐれる所だ。それもツカの間、再びうす暗い針葉樹林の中を小尾はまだかと進む。4時、避難小屋。
 そこから30分、みはらしのいい湿原へ出る。しっとりとした水ゴケ、流れる雲を写す池沼、ひっそり咲く白い花−心をとらえて離さない日本的な美しさ、人のふみ跡も、名前もないまったくの処女地である。
 赤牛沢に5時45分。」

 ということで、最初の湿原が薬師見平、次の湿原が姿見平(コースタイムではひえばた原)であることは間違いないのだが、やはりふと疑問に思うのは、この2つの湿原の書かれ方が"同等"なんである。というか河合氏の記事では明らかに姿見平の描写の方に力が入っている。
 また、スゴ沢出合(すなわち中のタル沢出合)からコースタイムでは薬師見平まで1時間20分となっている。中のタル沢出合の標高は約1650m、現在の薬師見平の標高は2150mである。標高差500mを1時間20分は、いくらなんでもきついのではないか?旧薬師見平とおぼしき場所は標高1950mほどであり、これなら標高差300m、これならなんとか、というところか。
 まあ整備された登山道を健脚の人が飛ばせば、標高差500mを1時間20分は十分可能なのだが・・・

 このあたりのコースタイムをもう少し検証すると、"薬師見平"から避難小屋へは25分となっている。避難小屋があった位置はだいたい見当がついているのだが、その標高は1900m付近である。現在の薬師見平からだと標高差250m、水平距離にして約1kmである。これを25分という方が、500mの登りを1時間20分というよりきつい気がする。旧薬師見平からだと標高差50m、水平距離0.7kmというところである。ちょうど高天原山荘と温泉の標高差、水平距離とほぼ同等である。25分、まさにそんなもんである。
 さらに記事中の行程では中のタル沢上部が14時30分。そこから薬師見平を経て避難小屋に到着したのが16時である。この間1時間半
 この中のタル沢上部を、高天原新道が沢を離れて尾根に取り付く地点と仮定するとその標高は約1750m、現薬師見平を経て避難小屋までは、400mの登りと250mの下りである。これを1時間半はきつい、というか非現実的に思える。旧薬師見平だと200mの登りと50mの下り。

 というわけで、旧高天原新道の薬師見平は現在の場所ではなく、さらに西の1974m標高点付近のことを指していた、とほぼ断定して良いように思う。

 とすると疑問に思うのは、そこが「湿原だった」という記述である。

薬師岳山頂から1974m標高点付近

薬師岳山頂から見た1974m標高点付近

 

 地形図上では1974m付近は単なる針葉樹林帯である。また薬師岳から見ても(上の写真)、そこは樹林帯の合間に広がる笹原としか見えず、湿原があるようにはとても見えない。
 ただ、河合氏の記事にも昔のガイドブックにも、姿見平も湿原であると書かれているのである。姿見平は昨年、少なくともその一角を通過したのであるが、やはり単なる笹原で湿原があるようにはとても思えなかった。
 もしかすると、この2カ所は当時は確かに湿原だったのが、この40年の間に消失して笹原に置き換わってしまったのかもしれない。

 下に河合氏から提供していただいた当時の写真を何点か。
 私はこの避難小屋の写真を見て大笑いしてしまった。これを「小屋」と言うなよ、って感じである。これはいくらなんでも、今調査に行っても痕跡も残っていないと思う・・・

 

口元のタル沢

口元のタル沢

 口元のタル沢の徒渉点。
 丸太の橋1本だったそうだ。こんなの一雨で流失すると思うが・・・

 この付近は岩を削った足場等もあったそうなので、今でも道の跡が残っていると思われる。

姿見平避難小屋

姿見平避難小屋

 ・・・こ、これを"小屋"と言うなぁ〜!

 流れのすぐ側にあったそうで、これも一雨で跡形もなく流失しそうである。

竜晶池

竜晶池

 このあたりは面影がある、というか今でもそれほど変わっていない感じである。

 

 

高天原新道概念図

新旧の高天原新道 ルート推測

 

参考文献

1)

黒部渓谷
(日本山岳名著全集3 尾瀬と鬼怒沼・黒部渓谷)
 冠松次郎  あかね書房  昭和45年(昭和3年)

2)

黒部渓谷と雲ノ平
  (山渓文庫16)

 伊藤正一  山と渓谷社  昭和37年

3)

立山・剣・黒部
  (ブルーガイドブックス41)
 山口督・中野峻陽  実業之日本社  昭和40年

4)

黒部湖・薬師・雲ノ平・黒部源流
  (アルパインガイド32)
 渡辺正臣  山と渓谷社  昭和43年

5)

岳人 266 黒部とその周辺  東京新聞出版局  昭和44年

6)

立山・剣・黒部・雲ノ平
  (ブルーガイドブックス)
 ブルーガイドブックス編集部  実業之日本社  昭和45年

7)

立山・剣・薬師岳・雲ノ平・黒部渓谷
  (アルパインガイド26)

 渡辺正臣  山と渓谷社  昭和48年

8)

槍・穂高・雲ノ平
  (山と渓谷臨時増刊)
 山と渓谷社  昭和53年

9)

岳人 626 日本の山再発見・黒部の山々    東京新聞出版局  平成11年

10)

太郎平小屋 50周年を迎えて  五十嶋博文  非売品  平成16年

11)

岳は日に五たび色がかわる
  (太郎平小屋50年史別冊)
 五十嶋一晃  非売品  平成16年

12)

岳人 687 山上の桃源郷    東京新聞出版局  平成16年
         

13)

岳人 207 黒部特集    東京新聞出版局  昭和40年

14)

山と渓谷 608 [北アルプス特集]雲ノ平と黒部源流の山    山と渓谷社  昭和61年

15)

岳人 494 花と清流の黒部源流    東京新聞出版局  昭和63年

16)

岳人 554 涼!!黒部源流を行く    東京新聞出版局  平成5年

17)

東京中日新聞 昭和39年8月20日 「最後の秘境」 河合 一二三  東京中日新聞  昭和39年

 

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