山岳会とファミリー登山

 中高年登山者についての続きだが、中高年登山者の事故に関して「未組織の登山者の事故」も問題視されるのは、これも昔から同じである。まあそれだけにブランクを経て再び山の雑誌などを読み始めたりすると、「なんだ、昔から何も変わってないじゃん」と思ったりする。高齢者の発病による事故とか新しい要素はあるものの、その根っこにあるものは20年来、おそらくは登山が最初にブームになった昭和30年代から何も変わっていない。

 未組織であることの問題は、まあ全部根っこで繋がっているのだが最初に思いつくのはやはり技術的なことだったりする。
 登攀技術については言うまでもない。こればかりは本で読んだり独学というのがほぼ不可能だと思う。「生兵法は怪我の素」という言葉をこれほど地でいくこともそうそうないわけで、きちんと正しい技術を反復して体に覚え込ませないと意味がない。例え肝硬変の末期で意識障害が出ていても、無意識に病衣のヒモを正しい本結びで結べなくては。

 余談だが、私の現役時代はハーネスに結ぶロープの結び方はブーリンだった。リーダー研修会で「8の字結びにしろ」と言われたことを思い出す。が、当時はまだ御在所でも剱でも、ブーリンを使っている人の方が圧倒的に多かった。なので身体に染みついているのはブーリンの方である。ブーリンだったら今でも目をつぶっていても1秒かからずに結べるが、8の字はちょっと時間がかかる・・・肝硬変になったら多分無理である。8の字で輪っかをつくるだけなら簡単なんだけどね。ちなみにインクノットも今でも1秒未満で作れる。両手が空いていれば0.5秒。

 ロープワークもただ結び方を覚えれば良いというものではなく、ランニングビレイ(という言い方は昨今流行らないらしいが)の取り方はロープの流れを頭に入れなければならず、基本中の基本であるセルフビレイにしても衝撃がかかった時のアンカーと自分、それから墜落者の位置関係をしっかり把握した上で取らないといけない。セルフビレイを取ってパートナーが登り始めてからでは変更は効かないから。
 これらは本をいくら熱心に読んでも身に付くものではなく、ひたすら実地で反復して、時に先輩に怒鳴られながらやっと身体で覚えていくものだと思う。特に墜落の衝撃で跳ね上がったセルフビレイのカラビナに顎をぶち抜かれてしまった人などを見てしまうと学習効果も抜群だったりする。(自分の身をもって学習するのが最も効果があるだろうけど・・・)

 また余談だが、最近の岳人にロープワークのページがあって、そこで岩稜でのコンテが解説されていて驚いた。しかも岩角でのフリクションを利用した制動まで書かれていて、正直度肝を抜かれた。コンテでの確保って確保技術の中でも文句なしダントツの最難関でしょ?しかも岩角のフリクションを当てにするって・・・切断のリスクと背中合わせ。
 まあ確かに記事のコンセプトが、「ほんとはザイル出すほどの場所じゃないんだけど、パーティーの中に初心者がいて確保した方が良いかな〜という場合」なので、対象が熟練者なのは判るけど・・・岳人の読者層ってそんなにレベル高いの??
 雪稜ですらコンテは難しく、リーダー研修会では「安易なコンテはするな」と教わった。まして岩稜だったら、確保が必要と感じたら迷わずフィックスするかスタカットである。スタカットの場合、セルフビレイを取るかどうかは状況にもよるけど、ビレイのためのアンカーは極力取ると思う。コンテという選択肢は考えたことなかったな〜。誰か剱に連れていって前剱の鎖場あたりで連れていった人に不安を感じたら・・・ま、帰るのが一番早いけど。少なくともコンテは絶対選ばないと思う。
 逆に例えばガイドを雇って北鎌とか奥穂〜西穂あたりに行ったとして、途中不安を感じて確保が欲しいと訴えた時、ガイドがコンテを選んだら・・・ましてや岩角のフリクションなんぞをあてにするような確保をしてくれたとしたら・・・・ま、そのガイドにどれほどの自信があるかは別にして、二度とそのガイドは頼まないだろうね。(生きて帰れたらね)
 というわけでその記事にはかなり疑問を持ったわけで。

 話を戻すが、登攀技術はバリエーションルートをやらない一般登山者には関係ない、というものでもないと思う。
 一般登山道でも岩稜や雪渓は出てくるし、特に雪渓は年や時期によっては一般登山道でもかなり危険な状況になる時は多々ある。そんな時、基礎技術をきちんと拾得しているのといないのでは大きな違いが生じてくると思う。少なくとも単に傾斜や高度感に怯えるのではなく、何が危険なのかがきちんと理解できるだけでもまったく違うと思うのだが。見た目は怖いけれど実際は安定していて、きちんと集中しさえすれば大きな危険はない場所なのか、何らかの問題があってそうとう集中しないと危険がある場所なのか、それとも確保がないと行くべきではない場所なのか、それを自分だけでなく同行者のことも含めてきちんと判断したい。それはやはりある程度のレベルの組織で反復して訓練する以外に拾得する方法はないのかもしれない。

 登攀技術だけでなく、登山の全般的な技術も同じことだと思う。
 意外に軽視されがちなのが生活技術。
 昔々の学生時代のことだが、雲の平から三俣に向かう道で3人パーティーと一緒になった。薬師から槍ヶ岳に縦走しているということだったが、なんだか荷物が異様に大きくて重そうだった。休憩場所でそのパーティーと雑談していて、「山岳用のテントは狭い」という話になった。確かに4人用のテントで4人寝るのは厳しいですね、なんて話していたのだが、何と彼らは3人でダンロップの6人用テントを担いで縦走しているという。それしか持ってないのかと聞くと、ちゃんとエスパースだかの4人用テントも持っているのだとか。4人用テントも狭くて3人では使えない、と言う。
 双六のテント場で彼らが張ったテントの中を見てその理由が判った。
 ザックの中身をテントの中にきちんと整理して広げ、靴も全てテントの中に入れていたのである。まことにきちんと整理されているのだが・・・ちょっと違うでしょ。6人用テントに3人では寒かろうと思っていたら、やはりというかかなり厚手のシュラフを使っていた。
 ザックは身体の下に敷き込むでしょ、普通。着れるものは大方着込んで寝て、身体の下にザックを敷き込めばそれほど荷物スペースは取られないでしょ。火器やコッフェルはテントの外でしょ。着替えのたっぷり入ったスタッフバッグを並べてその隣にザックも並べて、それで寒いと言いながら厚手のシュラフで寝ているのはおかしいと思わないか?それで「日本の山岳用のテントは居住性が悪い」と言われたらテントが可哀想である。アメリカ製のテントは居住性が良いと言っても、体の大きなアメリカ人にとっては日本人が日本製のテントに寝るのと同じことなのである。
 実際、冬山だったら4人用のテントに4人寝ていたものだが。それも靴も火器類も全てテントの中に入れてである。靴はシュラフの中、というパターンが多かったが。場合によっては履いて寝ていた。これは凍結を防ぐためだけど。
 着れるものは全部着て僅かな余りを枕にして(ザイルを枕にすると寝心地が良かった)、ザックは足の下に敷き込むからマットは半身用、水が入ったポリタンや靴はシュラフの間か中、ピッケルやアイゼンと言った金物だけは外。これで4人用のテントに4人寝て、中で煮炊きもしていたものである。4人用のテントに3人では寒かったし、靴やポリタンの凍結防止のためには絶対にシュラフの中に入れないといけなかった。4人用テントに4人だとシュラフの間でも大丈夫だった。

 テントの設営でも手順があり、設営したテントの中にどのように生活空間を作るか、ということにもちゃんと手順があった。そういうことも山岳部なり山岳会で反復して訓練しないと身に付かないものなのかな。疲労でボケっとした頭でもきっちりこなしていかないと、例えば冬山でお湯をひっくり返して足に火傷でもしようものなら、それは限りなく「遭難した」という状況に近い。

 それと「組織に属する」ということは、計画書の提出に始まり不測の事態が生じた時の連絡体制や救助体制ということにも関わってくるのだけど、まあ技術的なことをしっかり継承していける組織なら、そのあたりのことも当然問題ないはずだろう。逆に言うと組織でありさえすれば良いというものではなく、これらのことがきちんとできている組織でないと存在意義が薄れるのだけど。

 とはいうものの、もう今さらどこかの山岳会に入る気もあまりしない。
 もうかなり使ってなくて錆びている技術も一定のレベルにキープしたいし、そもそも人に教わった技術は誰か他の人に伝えてこそ「継承」されるのであって、私のようなその継承の輪から脱落してしまう人間が多いことが水面下で問題になりつつあることも理解できる。
 でも、山に登る理由や意味が個人的なものになり過ぎてしまって、もう組織の中では山に登れないな、と思う。
 だいたい組織というのは、何か具体的な目的があって初めて成立するものだろう。なので「ヒマラヤに行く」とか「冬の剱に登る」といった具体的な目標がメンバーの間で共通認識としてあるのならいいのだけど・・・
 でも、山って競技ではないから、普遍的な共通認識を得ることってなかなか難しいのでは、と思う。普遍的でない偏屈な共通認識を持ってしまった人達が集まってできた会というのは、端から見ていてなかなか魅力的であるが。(もちろんその共通認識が私個人の価値観と大きくかけ離れている場合、その集団の勢力が増せば増すほど鬱陶しくなったりもする)

 でも、山ってあまりにも茫漠としていて、個人の価値観を振りかざして登っても仕方ない、と思ったりもする。というよりそれ以前に何かを振りかざす対象ではあるまい。1人で相撲をとっているようなものだと思う。
 山と向き合うことってなんのことはない、自分と向き合うことなんだな。そこに赤の他人はいらない。
 ・・・というのは言い過ぎだな。そういう時間を共有できる赤の他人がいるか否かということは、人生の豊かさを計る最大の指標だとは思う。
 でも、そういう「ある目的のために集った集団」ではなしに「自然発生的な切っても切れない縁」で集った人間達であれば、赤の他人の仲間とは違う何かが共有できるような気がする、と思うのだが、それはなんのことはない家族じゃないか。
 実は登山に限らずアウトドアって、ほんとは家族とやるべきものではないか、と思ったりするようになってきた。

 30年近く前に父母に立山に連れてこられ、そのことが私の人生のかなり大きな部分を決定づけてしまった。それは直接ではなくて、私の人生は私自身の身勝手極まりない選択によって今現在に至っているわけだけれども、その選択にかなり大きく影響したことは認めざるを得ない。
 30年前に私を連れた父が何を考えていたかは判らないが、とりあえず私も息子を連れて立山に来ているわけだ。その時私が何を考えているかなんて息子には知るよしもないだろうけど、もしかしたら30年後に息子が自分の息子を連れて立山に来るかもしれないわけで。その時こいつは何を考えるんだろうね?
 ということを想像するのが非常に面白いので、私も「俺が死んだら雷鳥沢のテン場に散骨してくれ」と遺言することにしよう。そうすりゃ来ないわけにはいくまい。

 ま、いろいろ小賢しいことを書いたけれども、これを判りやす〜いことばに一言で置き換えると、
 「俺はもう好き勝手に登りたいんだよ!そんな我が儘に振り回すことができるのは家族しかあるまい?」
 ということなんだろうな、やっぱり。
 だいたいよく考えたら「組織」なんていうもののバカバカしさや面倒さは、仕事やら地域社会のなんたらやらでうんざりするほどつき合わされているのである。なんで山にまでそんなものを持ち込まなきゃならんのだ?

 とはいうものの、技術的なものをキープできる場は欲しい。
 最近は講習会などもいろいろあるようだが、どうもあまり食指が動かないのは講習費が高いことと、その対象があまりにステレオタイプなのがどうも、なのである。
 「昔バリバリやってたけどブランクも長いオヤジども」対象の講習会、ないかなぁ。5月に2〜3泊で雪上訓練と剱のバリエーションルート1本、くらいの。
 そう、文登研のリーダー研修会のオヤジ版。あれをそのままやられると下山はヘリになってしまうので、ちょっと軟弱にして。
 中高年登山者の事故多発を問題視するのならそれくらいやって欲しいものである。

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