58年春期高体連

S58 5/19-21 鈴鹿

by 池上

member A隊

池上 良 3年 C.L 兼食糧
横山 典郎 3年 S.L
石島 守 3年 装備
平井 隆 2年  
辻井 修 1年  

 私がA隊のリーダーになったのにはいきさつがある。
 発端は2年の秋の高体連で、誰かさんの遅刻というしょーむない理由によって失格となったことだ。あの時は成績上は完全に優秀校になれただけあって、何かもやもやしたものが残った。
 それから踏査大会で優勝したが、この時、私が春の高体連でA隊のリーダーを無理矢理奪い取る直接の理由となる事件が発生したのだった。
 それは表彰式の時に起こった。賞状とカップ、トロフィーを受け取るために2名が前に出ることになった。リーダーだった堀田は当然すっと立ち上がって行ったが、その時突然横山が振り返って叫んだ。
 「じゃんけん!」
 そしてせっかちにチョキを出した。
 彼の気勢に押されて私は思わずパーを出した。そして気がついた時には、前で横山氏がカップとトロフィーを抱えて嬉しそーに笑ってやがった。
 その時、気づいた。
 山本氏は県体で2位になった時に前に出ている。石島氏は秋の高体連の時に出ている。するとまだ一度も前に出ていないのは俺だけではないか。そう、このとき、このときこそ私が3年の春の高体連でリーダーを取ると決心した時なのだ。
 春の高体連が近づき、私はリーダーをやらせろと執拗に叫び続けた。その私の情熱が通じたのか、私はA隊のリーダーに就任したのだった。
 さて、4月も半ば頃から私は熱くなっていた。「高体連の賞状には何の価値もない」とは山岳班内で定説化している言葉だが、とにかく私は燃え続けた。
 要するに私は賞状が欲しかったのではなくて、前に出て目立ちたかっただけなのだ。しかし、青年がたとえ動機は不純でもひとつの目標に向かって打ち込む姿は美しい(自分で言うな)。いつのまにかA隊のメンバーは私のペースに引きずり込まれ、全員一丸となって優秀校を目指し、アタックNo.1の世界にのめり込んでいったのだった。
 しかし。しかしである。往々にして早く熱くなりすぎると終わりまで保たないものである。受験勉強もそうである。石島氏、横山氏を見たまえ。
 高体連もそうだった。前日は完全に「どーでもいいや」という雰囲気だった。ただ、燃え始めるのが遅れた石島氏が「優秀校、優秀校」とうなっていたが。

 さて開会式。早くも暑くなりそうな予感に我々はうんざりしていた。
 おまけに車道の長いこと。登山道に入ってからは南池先生が僕らのパーティーのちょうど真ん中に入り込んで、おまけに歩くのが遅く隊に迷惑をかけていた。自分が歩くのが遅いのを棚に上げてトップの石島氏に「一番ペースの遅い奴に合わせろ」などとおっしゃっておられた。暑さとの相乗効果でいらつきが倍増した。おまけにその日は幕営地で、横山氏が武器をなくしていらだってキュウリのヘタを砂に埋め込んだところを審査員に見られた。
 この時点で私は優秀校をほぼあきらめ、以後大津高の女の子との交流に専念する。しかし諦めきれない石島氏は、かなりしつこく横山氏をいびっていた。

 さて、翌日は初日にもまして鬱陶しい1日だった。まず暑い。それからあのヤブ。そして南鈴鹿らしいあのアップダウン。そしてその苛立ちを決定的に倍増させる審査員の存在。曲がり角にいるのである。ヤブの中で暑いからと腕まくりすれば減点対象、帽子のアゴヒモを取っても減点、ニッカーの留め金を外しても減点。これが怒らずにおらりょーか。
 結局後半、アゴヒモも袖も全部開放して優秀校を完全に諦めた。
 そしてそれをさらに決定づける事件が天気図作製の時に起きた。なんとテントが風に飛ばされたのだ。あれが減点対象にならないわけがなく、我々はますます大津高の女の子との交流に専念したのだった。

 その夜私はB隊の藤田が昨日の晩、面白かった(?)ということを聞き、誰かと代わってもらってB隊のテントに寝たのだったが、期待に反してその夜の藤田は大人しく、やむなく我々は大人しく寝たのであった。
 しかし夜中に私は堀田氏のSoundlessの空キジの臭さのため、一度目が醒めた。こちらがあまりの臭さのために目を覚ましたというのに、当の本人がすやすや眠っているのには腹が立った。ホント臭かった。
 翌日のことはほとんど覚えていない。
 ただ、名前は忘れたがどこぞの顧問がタバコを投げ捨てた現場を目撃した。

 

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