高天原新道の謎 Part V
高天原新道についてのまた新しい情報が入った。
今度情報を提供してくださったのは、なんと岳人の服部文祥氏である。
最初、服部氏からは93年の岳人に高天原新道を歩いた紀行文があるという情報をいただき、そのコピーを頂けるとの申し出をされたのだが、ちょうど続々々・高天原新道の謎に書いたH氏のweb記録で「2年前の岳人の記事」という行があり、このweb記録が90年のものだから88年の岳人に高天原新道の記事があるはず、とその記事の捜索とコピーまでお願いしてしまったのであった。
その記事はあっさり見つかった。さすが岳人の記事のことは岳人の人に聞くのが早かったのだった。これまでの古本屋のweb検索、国会図書館での検索と複写依頼のあの苦労はなんだったんだと思うと・・・
さて、記事も手に入ったことだし検証である。
とはいうものの、平成5年の記事16)の方は、なんだか私のwebの山行記のようなスタイルというか文体というか、まあ臨場感はあるし楽しく読めるのだが位置や時刻、ルート取りなどに関する記述が少なく、資料的な価値はあまり高くない。
この記事、平成5年に掲載されているので、実際に行ったのは平成4年のことである。あの雨ばかり降っていた記録的な冷夏の年である。
この記事も、上ノ廊下を目指して入山したものの、雨で遡行できずに高天原新道に目標変更して辿った記録のようである。
記事としては昭和63年の岳人の記事15)の方が、一応ガイドを目的として書かれた文章である分、当時のルートを探る上では参考になる。
以下、平成5年の方を岳人554、昭和63年の方を岳人494とする。
まず東沢出合〜薬師見平までの前半部分であるが、岳人554の記事によると、「1900m地点まで登り、口元のタル沢一気に300m下る。」とある。
しかし、標高1600mといえば、口元のタル沢付近だと黒部川本流まで下りきってしまうことになる。昭和39年に拓かれたオリジナルの高天原新道は一度上ノ廊下まで下りてしまうが、それは中のタル沢出合付近であってこの口元のタル沢近辺ではない。また何より黒部川本流のこの辺りは下の黒ビンガよりやや上流の廊下帯ど真ん中である。言ってみれば上ノ廊下前半部分の核心部。そんなところに登山道が下れるモノではないだろう・・・
ま、この岳人554には簡単な概念図が書かれているのだが、その概念図では道は上ノ廊下までは下りておらず、口元のタル沢の二俣辺りで沢を横切っている。なお、それは岳人494でも同様の概念図である。
登山道は両方の記事の概念図を見ると、どうやら口元のタル沢右岸の1866m標高点のあたりを通過し、そこから急降下して口元のタル沢を、二俣出合い直下で横切っている。とすれば標高差はおよそ250mというところである。
ここは旧高天原新道では、もっと下を水平に近いルート取りで進んでいるところなのだが、昭和44年の集中豪雨で道が流出し、この近辺が荒れて道を通せなくなったので、再開発の際にもっと上部を高巻きするように付けられたのだろう。
口元のタル沢を横切ってから、オリジナルの高天原新道は中のタル沢出合い付近で一旦黒部川本流の河原まで降り、そこから中のタル沢左岸の尾根を直上している。そこから古いガイドブック4),6)の折り込み地図によれば、現在私達が薬師見平と呼んでいる湿原は通らず、その直下の1974m標高点付近の平を横切っている。
それに対し新高天原新道は、口元のタル沢を渡るとそのまま左岸の尾根に取り付き、1891m標高点を通過して2210m標高点に達し、尾根を越えて薬師見平に到達しているようである。
このあたりの記述は岳人554と494の記事、またH氏の記録でも一致している。
つまり東沢出合〜薬師見平までのルートを総括すると以下のように推察される。
東沢出合からしばらくは旧高天原新道とほぼ同じルートのようである。部分的に崩壊地を高巻きしていたりは当然あっただろうが、基本的に旧高天原新道を辿っていたようである。
下の黒ビンガの対岸(赤牛岳側)の中腹は、現在の地形図を見ても崩壊地の記号が散見される地帯で、どうやらこれらの崩壊地は昭和44年の集中豪雨でできた地形だと推測される。旧高天原新道はこのあたりはかなり急な傾斜の山腹をトラバースするように付けられていたはずなのだが、ここが崩壊によってかなり大規模に通行不可能になったのだろう。
それで新高天原新道(昭和59年に高嶋石盛氏によって開拓された道)は、この崩壊地帯を大きく避け、下の黒ビンガの500mほど下流に下りてくる尾根を登っている。岳人の記事に添えられている概念図ではあまり細かいことは判らないのだが、それでも概念図と地形図を見比べれば、尾根の急な傾斜面の辺縁をなぞるように斜面をトラバースし、1866m標高点を通過していたらしい。
1866m標高点からは、北西方面に向かって下る尾根の上を下降し、口元のタル沢の二俣の下流、標高約1600m付近でこの沢を横切っている。この部分は旧高天原新道と一時的に合流しているようである。
口元のタル沢を横切った後、旧高天原新道は下降気味に山腹をトラバースし、中のタル沢出合付近で一旦上ノ廊下に降り立つことになるのだが、新高天原新道は口元のタル沢を横切った直後、そのまま尾根を上がって1891m標高点を通過し、そのまま2210m三角点を経て尾根を越え、薬師見平に到達することになる。
岳人494の記事では、口元のタル沢から尾根を登る途中、左手の沢に滝の音が聞こえると書かれている。この滝は地形図にも表記がある。地形図を見る限りではかなりスケールがありそうな滝である。
余談だがこの滝、地形図を見るとかなり目立つ滝で、昔からもしかしたらまだ誰も見たことがない「幻の滝」かも、と気になっていた滝である。なんと「一般登山道」のすぐ横にあったとは・・・
1891m標高点を過ぎれば、あとは緩やかな尾根を上り詰めれば2210m三角点を経て薬師見平に行くだけなのだが、それにしても山の中腹をトラバースしながら200m以上のアップダウンとは、なんとも趣味の悪い道である。
さて、次は薬師見平〜高天原間のルートである。
薬師見平に行ったときに見たペンキ印では、赤牛岳の山腹を水平にトラバースする方向に道が伸びていたように感じたのだが、岳人の記事では共に薬師見平から下降して谷を渡ると記述されている。岳人554の記事では「200mほど下降する」と書かれているが、まあ先の口元のタル沢付近でのアップダウンの記述からすると、この数字も前後に50mほどの幅はみなければならないだろう。
ちなみに薬師見平の標高がおおよそ2150mなので、そこから200m下ると標高は約1950mである。岳人494に書かれている概念図では、薬師見平に突き上げる沢の最上部の二俣付近を横切っている。この沢は名前が無くて記述に不便なのだが、とりあえず無名沢Bと呼ぶ。無名沢Aは赤牛沢の1本北の沢である。薬師見平の山行記ではとりあえずそういう呼び方をしている。
この無名沢Bはけっこう分岐が多く流域面積の広い谷なのだが、大きな二俣は3カ所ある。下から遡行する際は、それらの二俣を全て左に取れば薬師見平に到達する。これらの二俣をここで便宜的に下から「二俣1〜3」と呼ぶ。
旧高天原新道のルートであるが、現在の薬師見平の西方にある1974m標高点付近を通り、どの文献も大雑把な地図なので精度が高いとは言えないのだが概ね1900m付近で無名沢Bを横切っている4),6),7)。だいたい二俣2のあたりである。
それに対し、新高天原新道のルートは、岳人554の記事に付属する概念図では二俣が2カ所しか表記されておらず、道が二俣2と二俣3のどちらの近くで沢を横切っているのか定かではない。ただ概念図上では薬師見平からほぼ真南の方角に進んで無名沢Bを横切っているように見える。そうなると位置的には二俣3の方が近い。二俣3の標高は1970mほどなので、薬師見平との標高差は約200m弱。矛盾はない。
それに対し、岳人494の記事に付属する概念図では、等高線が200m毎の大雑把な地図なので標高の特定は困難だが、薬師見平から南西の方角に道が伸びている。また無名沢Bを横切った後、道は標高2000mを上下しながら姿見平に到達しているので、位置的には二俣2が最も有力なように思われる。二俣2の標高はほぼ1900mであり、「薬師見平から200m下る」という岳人554の記事とも50mほどの誤差なので大きく矛盾はしない。
ただ気になるのは、岳人494の概念図で高天原新道が無名沢Bを渡る地点に、「上に滝が見える」という記述があることである。
二俣2も二俣3も、その近辺に滝があったという記憶がないのである。滝というのなら二俣1は出合いから上に5mほどの滝が2つほど連続していたので、そちらの方が納得できるのだが、二俣1の標高は1830mほどで、いくらなんでも下がりすぎだろう。
ま、滝については、二俣2の右俣(薬師見平へのルートは左俣)を渡る地点付近にあるのかもしれない、という理解をしておく他はなさそうである。
というわけで、無名沢Bを横切る場所は二俣2のやや上流、標高1900m近辺という推測で良いのではないかと思う。
薬師見平から無名沢Bに至るルートは、この沢の右岸に薬師見平からはっきりした尾根が下りているので、この尾根伝いに道があったのだろう。岳人494の概念図からもそう読める。
1974m標高点付近を通過してきた旧高天原新道も、この二俣2近辺で無名沢Bを横切っているようなので、この新旧の高天原新道はここで合流していた可能性が高い。
残る問題は、薬師見平の外れに東の方向にペンキの矢印が描かれていたことである。これだと高天原新道が下降していたと思われる尾根とは反対方向なのである。地中深く埋まった岩に描かれていた矢印なので、後から方角が変わったとは考えられない。
このために前回の続々々・高天原新道の謎では延々と赤牛岳の山腹をトラバースしていくようなルートを推測していたのだが、無名沢B右岸の尾根を下降していたことが判った以上、これについてはしばらく沢と併走してどこかの地点で右岸に渡り、沢を離れて尾根上を下ったというルートを想定するしかないと思う。つまり、こういうルートである。これならば周囲の地形とも違和感はない。
というわけで、これでほぼ新旧高天原新道のルートは確定したように思える。実は姿見平から南(高天原寄り)の区間は、未だよく判らない部分も多いのだが、赤牛沢など崩壊のため地形そのものが激変してしまっている部分も多いので、ルートも推測のしようがない区間もあったりする。
あとは無名沢Bから姿見平までの区間だが、概ね道が横切っていた場所は判ったので現地で調べてみて登山道の痕跡でも見つかると面白いのだが。それと避難小屋の跡でも見つかれば・・・
避難小屋は沢沿いに建っていたようなのでもはや跡形もない可能性が高いが、もし見つかれば非常に面白いのに、と思う。
しかしこうやって見ると、なんとも長大なルートである。この登山道が曲がりなりにも「一般登山道」として存在していた、ということが、今の登山界の現状からはどうにも想像が困難なほどである。昔の人って体力(と根性)があったんだね〜。
新旧の高天原新道 ルート推測 (ニューバージョン) |
参考文献
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黒部渓谷 (日本山岳名著全集3 尾瀬と鬼怒沼・黒部渓谷) |
冠松次郎 | あかね書房 | 昭和45年(昭和3年) |
2) |
黒部渓谷と雲ノ平 |
伊藤正一 | 山と渓谷社 | 昭和37年 |
3) |
立山・剣・黒部 (ブルーガイドブックス41) |
山口督・中野峻陽 | 実業之日本社 | 昭和40年 |
4) |
黒部湖・薬師・雲ノ平・黒部源流 (アルパインガイド32) |
渡辺正臣 | 山と渓谷社 | 昭和43年 |
5) |
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6) |
立山・剣・黒部・雲ノ平 (ブルーガイドブックス) |
ブルーガイドブックス編集部 | 実業之日本社 | 昭和45年 |
7) |
立山・剣・薬師岳・雲ノ平・黒部渓谷 |
渡辺正臣 | 山と渓谷社 | 昭和48年 |
8) |
槍・穂高・雲ノ平 (山と渓谷臨時増刊) |
山と渓谷社 | 昭和53年 | |
9) |
岳人 626 日本の山再発見・黒部の山々 | 東京新聞出版局 | 平成11年 | |
10) |
太郎平小屋 50周年を迎えて | 五十嶋博文 | 非売品 | 平成16年 |
11) |
岳は日に五たび色がかわる (太郎平小屋50年史別冊) |
五十嶋一晃 | 非売品 | 平成16年 |
12) |
岳人 687 山上の桃源郷 | 東京新聞出版局 | 平成16年 | |
13) |
岳人 207 黒部特集 | 東京新聞出版局 | 昭和40年 | |
14) |
山と渓谷 608 [北アルプス特集]雲ノ平と黒部源流の山 | 山と渓谷社 | 昭和61年 | |
15) |
岳人 494 花と清流の黒部源流 | 東京新聞出版局 | 昭和63年 | |
16) |
岳人 554 涼!!黒部源流を行く | 東京新聞出版局 | 平成5年 |