平成15年8月2-4日 立山
8/2 | 9:10 | 室堂 出発 |
10:10 | 雷鳥沢キャンプ場 着 幕営 | |
8/3 | 5:45 | 雷鳥沢キャンプ場 出発 |
8:10-30 | 一の越 | |
10:05-30 | 雄山 | |
11:10-12:00 | 大汝山 | |
13:30 | 大走り分岐 | |
16:40 | 雷鳥沢キャンプ場 着 | |
8/4 | 13:40 | 撤収 雷鳥沢キャンプ場 出発 |
15:30 | 天狗平 着 | |
2.5万図 「立山」「剱岳」 |
いよいよ夏の我が家のメインイベントである。昨年から大散財して装備を買い漁っていたのも、全てこの日のためといって過言ではない。
この山行に備え、6月から計画書まで作製して準備&心構えをしていた。
計画書は7ページの力作である。長男の大は「行動隊長」(行動時に先頭でペースメイクする)、次男の生は「行動食係」(行動食の管理と分配)と、ちゃんと子供達にも役割を与えてある。
ちなみに大津で暮らしている私の母が自分も行きたいと言ってきたので、総勢5人のパーティーになった。4人用のステラリッジ4には入りきらないので、ムーンライト1も動員してのテント2張りでの定着山行と言うことになった。
この山行、去年の秋に思いついた時点ではせいぜい雷鳥沢から雄山の往復だけだったのだが、亀足隊長のHPで去年、6歳の女の子が三山縦走を歩ききっているのを読んで、「おお、行けるやんか」と私達も三山縦走に切り替えた。
生には亀足隊のそのページを繰り返し見せて、「ほら、生と同じくらいの歳の女の子がこんなに頑張ってるよ。生は頑張れるかな〜?」とプレッシャーを与え続けていたのであった。
山行直前にちょっとしたアクシデントがあった。
前の週に大と2人で山に行っていたのだが、その2日後の火曜日に、私が突然左足首の関節炎を発症してしまったのだ。左の足首が痛くて歩けない。たまらず翌日に医者に行ったら関節炎だと言うことで足首にステロイドを打ってもらった。ついでに足首に水が貯まっていたので抜いてもらったら5.5mlも抜けた。
レントゲンで見た私の左足首は、軟骨形成があちこちにあってボロボロ状態だった。昔から右足首は靱帯断列や骨折で何度も手術しているのだが(小学生の頃にはアキレス腱も切った)、今まで左足が問題になったことはなかったのでちょっとショックだった。まあ考えてみれば、メスを入れていないというだけで捻挫などは左足もしょっちゅうだったので、きちんと治している右足より状態はずいぶん悪いのかもしれない。
ステロイド注射&水抜きで痛みは劇的に軽減され、出発の土曜日までにはほぼ平気と言える状態にまで回復した。時々ひょんなことで激痛が走るのだが、足首を持って引っ張って適当に動かすと、ちょうど「ハマる」感じですっと楽になる。なんだか相当建て付けが緩んできている、という感じである。
カミさんはその間、ずっと医者に行けとか薬飲めとかうるさかったが、ただの一度も「今週は無理かなぁ?」とは言わなかった。言外に「週末までには必ず治せ」という強い意志を表明していたような。
まあ足首が痛むくらいだったらカミさんと次男にはちょうど良いハンデぢゃ、という妙な覚悟をしていた。
というわけでいよいよ当日である。
朝6時半に自宅を出発し、立山駅に7時に到着。室堂までの8時発の直行バスを予約していたのだが、7時半頃には第一便が出たので9時前には室堂に降り立つことができた。
雷鳥沢テントサイト ステラ4とムーンライト1が出動 |
初日はテント設営の後、適当にそのあたりを散策でもするつもりだったが、ここで由々しき事態が発覚する。
買い出しに言った後、冷蔵後のフリーザーに入れておいた食材をそっくり忘れたことに気づいたのだった。忘れた食材は2日目の朝食にする予定だった冷凍食品と、初日と2日目の晩に使う予定だった肉である。こいつは痛い。
仕方なく食料の責任者であるカミさんと私、大の3人で室堂まで買い出しに。母と生の2人はテントで昼寝していた。買い出しに行ったものの、手に入ったのはサラミソーセージとウインナーの缶詰、信州そばであった。ソバは作るのに手間がかかるので最終日の昼食に回
サラミとウインナーのカレーライス |
ともあれ、その日の夕食はサラミとウインナーのカレーライスになった。思ったより美味くできてよかった。
さて翌日。
いよいよ正念場の立山三山縦走である。
室堂や雷鳥沢は飽きるほど来ているのだが(でも飽きない)、そのほとんどは目的が剱岳だったので、実は私も立山は数えるほどしか登っていない。
雄山までなら9月にカミさんを連れてきたこともあったが、三山は5月と11月に歩いたきりである。しかも11月は吹雪いていたし5月はリーダー研修会の入山日でアイゼン履いて走っていた記憶しかない。あの時は室堂〜立山三山〜剣沢を3時間足らずで走りきったため、途中の景色などは一切記憶にない。また、雷鳥沢キャンプ場から一の越に直接登る道と大走りの下山路はまったく歩いたことがなく、私もとても新鮮で楽しみにしていた行程だった。
4時に起床して朝食を作り、子供達を起こして食べさせる。天候は快晴である。昨日もそうだったが、午前中早い時間に雲が出て稜線がガスり始めるという「夏山の好天は朝だけ」そのままの天候だろう。なるべく早い時間帯に雄山あたりまで登っておきたいので、5時半過ぎには出発する。寒いので長男は雨具を着込んで歩いていた。
雷鳥沢キャンプ場から一の越に登る道は、あまり歩かれていない道のようだ。
地図では野営管理棟からそのまま浄土川を渡っていくように描かれているが、川の畔は残雪が壁を作っていて降りることはできないし、仮に降りたところで浄土川は膝程度の徒渉になるのは必至である。管理棟の人に聞いても要領を得ない。
つまり、ルートは剱御前や新室堂乗越に向かう時に渡る橋を渡り、直後に剱御前&新室堂乗越方面とは逆に右に曲がり、適当に歩くと大走りの分岐を分けて一の越方面に向かうということだった。道標は橋を渡った地点に小さな板きれが1つあるだけ。大走り分岐には何もない。
目の前には巨大な壁のように立山三山が聳え、行く手の裾野に草原が広がり、その中を細い1筋のトレイルが伸びていて、そこを歩くのである。
早朝の浄土山をバックに歩く子供達 |
一の越に向かう人の行列 |
谷を隔てた向こう側には、室堂から一の越に向かう登山道が見える。
その道は人の行列が室堂から一の越まで延々と続いており、今が夏山シーズンの最盛期だということを思い出させた。谷のこちら側は行き交う人もまばらで静かなものである。
とはいうものの、その素晴らしさが子供に判るはずもなく、生は一の越までに既に「大泣き」1回目をカウントした。
一の越の直前で室堂からの道と合流し、コンクリートの舗装路をひと登りで一の越に到着した。
後立山から水晶岳、赤牛岳、雲の平、黒部五郎岳、笠ヶ岳、それに槍ヶ岳まで一望の
水晶、赤牛、笠、雲の平、黒部五郎、薬師岳 |
ようやく雄山に到着。人の洪水。
母は勝手なやつなので途中からつき合いきれないと先行していて、人の海の中で捜すのに少し手間取った。
雄山では10日ばかり前、学校登山の最中に頂上直下から小学校6年生の子供が転落して亡くなるという事故が起きたばかりだった。
そのせいか頂上直下の外傾したバンドのところ(あそこは確かにちょっとヤバイ場所)には社務所の人がずっと立って通る人を誘導していた。だからといって足を滑らせて落ちる人を止められるかどうかは疑問だが。
子供を山に連れて歩いている身には他人事ではない事故。手を合わせて冥福を祈ってから大汝へ向かった。
雄山の社務所横から大汝への道に入ると、一気に雰囲気が変わり、「3000mの稜線!」になる。ここを歩かずして一の越に降りるのはあまりにもあまりにももったいない。人は相変わらず多いのだけど、それでも雄山頂上の人の洪水に比べるとぐっと減るし、何より一応「登山者」の格好をした人ばかりになるので、それも雰囲気を一変させる要素のひとつにはなっている。
まあ、中にはパンフレットを見ながら「社務所の人に聞いたらここから一の越に降りるのとここを通って(大走りのことらしい)降りるのと、あまり変わらないそうよ」なんて言っているスニーカーにタンクトップのアベックなんぞもいたりするが・・・そのアベックは縦走路をしばらく見ていたが、やがて引き返していった。それが当然の判断である。たとえ登山の知識がなかろうが、この稜線を見て「ここは私達が行けるところではない」ということを本能的にでも察知することができなければ、たとえ山は無事に降りることができたとしても、この先の人生を無事に泳ぎ切ることなどできまい。
大汝への縦走路は生にはやはりきついようだ。子供の短い足では(子供にしても短いが)大人にとっては何でもない岩の1つ1つがとてつもない難所である。長男の大はまったく危なげなくすいすい歩いていくが、その危なげのなさが却って怖い。軽はずみな歩き方をすると容赦なく怒鳴りつけることにしている。
大泣きするもカメラを向けると必死にこらえる生 |
大汝の手前で生が3回目の大泣き。でもカメラを向けると目を背けて必至にこらえる。
今日の敵はなんといっても「暑さ」である。とにかくピーカンで太陽に炙られているようだ。大も生も私と同じで帽子というものが大嫌いなのは辛い。
泣くと涙の筋が日焼けに残るほど、日焼けの進行が激しい。あっという間に生も私もタコ入道である。大だけは日焼け慣れしているので平気な顔をしている。
大汝山に到着。11時過ぎだったがここで昼食にする。
これまでのところ、単純にコースタイムの倍で考えていた予定どおりの行動タイムである。順調順調。
大汝山頂上の大 |
剱岳をバックに大と生 |
大汝山からは剱岳がとても格好いい。
さて、腹も一杯になったし、そろそろ歩こうか。実は水が心許ない。3L持って上がったが、残り1Lというところである。
大汝
富士の折立の下りで大泣きの生 |
富士の折立の下りで、なんと生が「眠い」と言い出した。そ・・そういえば昼寝の時間かも・・・こいつは想定外。岩稜の急勾配の下りでは休憩もままならない。
なんとか宥めたり脅したり(寝てもいいけど、起きたら誰もいないぞ〜)して歩かせるものの、真砂岳との鞍部のほんの手前でついに4回目の大泣き。不安定な下りの最中で5分間の昼寝タイムとなってしまった。少し目をつぶっていただけでまた元気に歩き出したのはちょっと驚きだった。
大はその間、先行して鞍部で待っていた。
鞍部からは内蔵助の小屋が見えた。
カールを内蔵助平に向かう道は、大部分が残雪に埋まっていてルートが見えない。ふと見ると内蔵助小屋の手前の雪渓を、ふらふらと1人登っている。双眼鏡で見てみると、さっき富士の折立からの下りで追い越しざま、生に「山の男だね〜」と声をかけてくれた外人の兄ちゃんだった。どうやら鞍部からカールに降りて内蔵助小屋に斜面をトラバースして向かったらしい。けっこうな傾斜の雪渓をピッケルもストックも持たずに危なげな足取りでフラフラと登っているので心配だったが、やがて尾根の影に見えなくなった。無事に着いたんだろうな。
大走りを軽快に下る大と母 |
大走りをヨタヨタと下る生とカミさん |
大走りは良い。
まず最初に真砂岳を水平にトラバースする道の雰囲気が良い。何もない瓦礫の斜面に水平に伸びる道1本、である。
また、あの下りが良い。あの傾斜で一気に逆落としのように下る潔さが良い。良すぎる。全開でカッ飛んで下ればテント場まで1時間かからないな、と思うのだが、なんせ生にはやはり辛い道であった。ずりずり滑って尻餅をついてしまうのである。下り始めて5分もしないうちに5回目の大泣き。
そのうちに母と大が先行し始めた。まあ下の方まで見えているのである程度先行させても問題はない。
が、大はそれでもこちらを気にして時々止まったりしているのだが、母はまったくペースを緩めず淡々と下り続け、やがて見えなくなってしまった。双眼鏡で見てようやく判るくらい。しかもペースを緩める気配なし。ま、いいや、勝手にしてくれ。
大が不安そうに「くんちゃん(母のことをそう呼んでいる)先に行っちゃったけど大丈夫なん?」と聞いてくるが、「いいよ、もうばあちゃんなんだから、もし何かあってもちょっと早くお迎えが来るだけなんだから」などと答える父であった。
それにしても先行するなら先行するでそう言ってくれれば、大をつけて2人で先にテン場まで行ってろ、という手もあったのだが、何も言わずに自分だけ先行されてはどうにもならん。
大はどうしても生の遅々としたペースには合わせることができず、先行しては待つということを繰り返していた。長い時は30分くらいじっと待っていた。待つのは良いのだが、日陰もないピーカンの尾根の上で仰向けになって日光浴するな〜!
日射病になってしまうのではと気が気でなかった。
大人や大にとっては快適な砂地の下り道も、生にとってはアリ地獄のような道なのだろう。真剣にずり落ちながら下るが・・・遅い、遅すぎる!
大と合流するまでに6回目と7回目の大泣き。私もカミさんも、もはや特に宥めたりすることもせず、じっと泣きやむのを待っていると、やがて泣きやんでまだ歩き始めるのであった。頑張っているんである。
カミさんは途中、追い越していったオバサンに、「この子の荷物くらい持ってあげればいいのに」と言われたそうである。ま、確かに幼児虐待すれすれだなぁ。
でも違うのだ。この生のザックの中には、自分の雨具の他にみんなの行動食という共同装備も入っているのである。自分のものもみんなのものも、みんなと同じように持って、それでなおかつ自分の足で歩ききってこそ、たとえ何回大泣きしても「お前は頑張った」と手放しで誉めてやれるし、生も保育所で大威張りしても良いのだ。
こんな1kgにも満たないザックを持ってやっても、それで生が劇的に楽になるわけでもなし、プライドが傷つくだけなのである。
・・・というのは私の勝手な思いこみなのだろうが、そんなことは百も承知。こんな親から生まれた運命を恨むがいい。
大走りの下りで最後の大休止 |
大走りを下り終え、テント場までの最後の道をゆく |
生ももちろん辛いし、つき合う私やカミさんも辛いし、30分も待っている大も辛い。
大と合流したところで休憩し、残っている水を全部飲むことにした。
生も兄貴と合流したら元気に歩き回っている(休めよ!)ところをみると、体力を消耗しきっているわけではないみたい。
ここからの立山三山は近くて巨大で圧倒的である。特等席だ。
さて、まだ先は長い。もうひと頑張りしようか。
支尾根を分けてから最後の急傾斜では、いびつにクレバスを開けた急な雪渓の横を下る。足場が悪くて生にはますます辛い道である。
さらに大泣きすること、・・・回?もう数え切れない・・・
それでも生は頑張り、ついに大走りを下りきった。あとはなだらかな道をテント場まで歩くだけである。下りきった途端、生のペースが上がり、兄貴と競い合うようにテント場に到着した。
テント場帰着が16時40分。出発が朝の5時40分だったから、実に11時間の行動であった。大はまったく疲れを見せず(待ち疲れはしていたが)鼻歌混じりでこの行程をこなし、生も10回近くも大泣きしながらも自分の荷物を担ぎきり、休憩の度に行動食をみんなに配るという役割もきちんとこなした上で、全行程を自分の足で歩ききった。
実際、生がここまで頑張るとは思っていなかった。最後はザックを1つ空にして生を背負って下る(空にしたザックのショルダーストラップを延ばしきれば大人でもけっこう背負える)ことも計画段階から想定していたので、生が全行程を歩ききったことは正直驚いた。一の越に到達する前に大泣きが入った時は、もしかしたら雄山から引き返さなくてはならないかも、とまで思ったのに。
が、まだまだ私の認識は甘かったのだ。
テント場に着いて、何はともあれ「温泉とビール!!」と私達一行は雷鳥沢ヒュッテに向かった。大人はかなりよれよれになりながら「ビール・・・ビール・・・」と念仏を唱えながらヨタヨタと歩いていったのに、子供達2人は走っていくのである!
をーい・・・さっきまでピーピー泣いていたのは・・・
温泉は日焼けが死ぬほど痛かったが、この世のものとは思えないほど気持ちよかった。風呂上がりのビールもまたこの世のものとは思えない美味さだった。
ここ雷鳥沢ヒュッテの裏はもう地獄谷、ここは地獄の入り口なんである。でも、これが地獄なんだったら、私は断然地獄行き希望である。
派手に室堂まで聞こえるくらいの大声で10回近くも大泣きした生だったが、思い出してみれば「もう歩けない」とは一度も言わなかった。
最初はいろいろ宥めたりもしたが、後半は面倒になったのと宥める手が尽きたこともあって、割と「放置」状態だった。カミさんももはや黙って頭を撫でるくらいしかできなかったのだが、しばらく泣くとまた黙々と歩き出したところをみると、あの大泣きは一種の行動のリズムのようなものだったのか?
大走りの下りでは、何度か「早くテント場に着いて欲しい」と言って大泣きした。まあ、すぐ下に見えているのに、どれだけ歩いてもちっとも近くならないのは非常に堪えることは容易に想像できる。
でも、「でも、生が泣いたらテント場の方からこっちに来てくれるの?」と聞いたら、黙って答えないもののしばらくすると黙々と歩き始めていた。
泣こうが叫ぼうが、自分で何とかしない限りどうにもならないことがある、ということを知るだけでも、こういう生にとってはきつい山歩きをした甲斐があったと思う。
さて、きつかった1日も終わり、今日の夕食はビーフシチューである。ただし、サラミの。これもまたけっこう美味だった。
ところでこの日に入山して我々のテントの横に幕営した夫婦がいた。いろいろ話していると、旦那さんももう定年退職して時間はたっぷりあるので、毎年この時期に雷鳥沢に1週間ほど滞在してのんびりあちこちの山を歩いているのだそうだ。思わず、私とカミさんと声を揃えて「羨まし〜い!」と叫んでしまった。行動せずに1日ボケっと山を見ているのも良し、遠出をしすぎたらそこの山小屋に泊まってくるも良し、自分で作る食事に飽きたら室堂あたりまで食事しに行くも良し、昼間っから風呂に入りに行くも良し。ん〜、こんな生活を1週間もしてしまうと、まず間違いなく社会復帰は困難であろう。こういう山はもう25年先の楽しみにとっておこう。
ただし、やはり大切なのは体力である。70歳近くなのに入山日は40kg近い荷物を持って入るのだとか。そりゃそうだ。1週間分の食料だもの、それくらいは担げないと。奥さんも20kgくらい担いで入るそうである。大丈夫か?25年後の俺。
母がすっかりその気になってしまい、来年から自分も雷鳥沢テント村の長期住人になりそうな気配である。「ボッカしてくれるんならついてきてもいいわよ」なんて言っていたが、御免である。母が滞在中に入山しても、とりあえずちょっと離れたところにテントを張ることにしよう。風呂入りに行く時はビール代目当てで誘いに来てもいいかな。
その日の夕焼けは綺麗だった。
ただ、カミさんは初めて雷鳥沢で幕営した19年前に見た、立山全てが真っ赤に燃えるような夕焼けが標準だと思っているらしく、「こんなんじゃない!」と騒いでいた。あれほどのはそう毎日見れないって、俺だって5回くらいしか見てないんだし。これだから数少ない山経験で不思議に美味しいところを余さず味わっているやつは人生をナメてしまって困る。
夕焼けといえば高天原の小屋から見る真っ赤に燃える水晶岳も素晴らしい。1シーズン小屋で働いていても数えるほどしか見れないものなのだが、今年の9月、カミさんを連れて高天原に行った時にまかり間違って見れてしまうと、またますます人生をナメてしまうんだろうな・・・
星空も素晴らしかった。私の記憶にある「星座が判別不可能」なほどの星空からすると80点程度だったが。ちょっと月が明るかったかな。でも、天の川は確かに「天をまたぐ白い帯」だったし、私は大人なので贅沢は言わないのである。生を起こす勇気はなかったが大には見せてやりたくて無理矢理起こした。テントから出てついでにトイレ行って、空を見上げて「おお」と言ったきりそそくさとテントに戻っていった。疲れすぎていたか・・・
明けて最終日。今日は撤収だけなのでのんびりと6時半頃起きて朝食を作る前にまずのんびりとコーヒーである。隣の夫婦は「真砂岳で剱岳の写真を撮ってくる」とのんびりと出かけていった。
テント村のみんなが出発した頃、のんびりと朝食の準備に取りかかる。昨夜のシチューの残りに水を足して増やして火にかけ、ルーを足しながらスパゲティを放り込むと「シチュースパゲティ」のできあがりである。究極の手抜き料理。でも、手間ヒマかけない割に美味い。子供達は「母ちゃんが作った料理より美味い」と感動して食べているのである。だから私は下界では料理はしないことにしている。
食事後、プリンとゼリーを作って雪渓に突っ込んで冷やしておく。できた頃にコーヒーを入れてティータイム。天候は晴れてはいるがガスのかかりが早く、前日ほどは良くないようだし、もはや行動する気にはなれず。子供達は撤収した後のテントサイトを駆けめぐり、回収し忘れたペグを何本か持って帰ってきた。それをきっかけに生がペグマニアになってしまった。これを書いている今日は、好日山荘までペグを1本買いに行かされたほどである。
撤収後の記念撮影 |
生が「地獄に行きたい」としつこく言っていたのは地獄谷のことである。
確かに硫黄ガスが吹き上げ、草1本生えない荒涼とした風景は地獄の名に恥じない。でも、ここが地獄ならぜんぜん悪くない。
一昨年亡くなった父の遺骨を去年、雷鳥沢キャンプ場の横に散骨してきた。
テント場から浄土川を渡ればそこはまさに天国である。でも、父はたぶん「俺はこっちの方が良い」と言って地獄の方に来て温泉に入っていることだろう。私だって天国も捨てがたいがやはり地獄行き希望である。
地獄谷から室堂に上がらずに、そのまま天狗平に向かう水平道を歩く。
天狗平でバスを予約するとちゃんと座れるので、混雑した室堂からバスに乗るよりよっぽど良い。それに天狗平やその下の高原はすごく良いのである。今まで立山に来るのは剱岳が目的である場合がほとんどで、立山の高原をじっくり歩くことはなかったのだが、去年父の散骨に来た時に天狗平から弥陀ヶ原まで歩いてシビれてしまった。だだっ広くて綺麗でムチャクチャ良いのである。とにかく広大な高原である。雷鳥沢のキャンプ場から見上げると、巨大な壁のように迫ってくる立山三山も、立山高原の下の方から見ると、ただひたすら広大な高原の上にチョコンと乗っているアクセントに過ぎない。この大きさが良い。良すぎる。
今回は時間に余裕はないのだが、せめて天狗平までは歩きたい。
天狗平に向かう水平道で1カ所雪渓の横断があった。トレースはしっかりついているものの、傾斜は急なので生はちょっと不安。
実はピッケルと6mm×20mのロープ、スリング1本にカラビナ数個は持ってきていたのである。カラビナはザックにカップをぶら下げるという役割もちゃんと持っているのだが。
これはもっぱら大走りの下りを想定して持ってきていたものだった。下部で雪渓を下る場合がある、ということだったので、まあ大人や大はともかく、生は確保が必要かもしれないと思って持ってきていた。実際は入山初日に大走りの下部を双眼鏡で偵察し、雪の上を歩く場所はないと判ったのでテント場に放置していた(ロープとスリング、カラビナは持っていった)。それがこんなところで役に立つとは。
大人や大は問題なく通過したが、生は不安だったのでロープとピッケルを出してコンテで確保して渡った。
そうこうしているうちにガスが濃くなり、パラパラと雨も降りだした。通り雨ですぐやんだけど。
天狗平でバスを予約し、待ち時間の間にコーヒーを湧かして飲んだ。大は「雷鳥を見たい」と騒いでいたが、よく考えれば3日も立山に入っていて雷鳥に会わずに帰るのはこれが初めてである。ま、何もかも上手い具合にはいかないよね。
今回はほとんど幼児虐待かと思うほど、生には辛かった山行だったろう。
でも、今までは泣いたり背負ってもらったりしたことが引っかかるのか「生は頑張ってないもん」と言っていた生が、今回は会う人に「生、山で頑張ったよ」と言っているのは明らかに違う。
ま、数ヶ月もすれば辛かったことは忘れて、楽しかったことだけを憶えているようになるだろうから、来年も喜んでついてくるだろう。思うツボである。
来年もまた雷鳥沢に定着して立山や大日を歩くか、剣沢に幕営して雪渓歩きをさせてやるか、今からあれこれ考えていたりして。