昔の山の写真集
先日、ぜんぜん関係ないモノを探していて偶然、未整理の昔の写真の束を見つけた。
なんせ全て一緒くたになって箱に入っていたので、どの写真がいつのものかなどがよく判らないのだが、せっかくなので判る範囲でアップしてみた。ここの写真は全てスキャナで取り込んでみたものである。
中学生の頃。昭和55年頃? 場所は金糞峠だが、誰にどういうシチュエーションで取ってもらった写真かは、まったく記憶にない。 ウールのニッカーズボンを履いてるぞ! | |
昭和56年の夏。 手前に写っているのはその時一緒に歩いた大学生のバイトのIさん。 | |
昭和58年の冬山合同合宿の写真(たぶん)。 前列中央でサングラスかけて偉そうにピッケル持って写っているのが私。 場所は比良のスゲ原だと思う。 | |
昭和59年春。 前列で偉そうな顔をして座っているのが私なのだが、新人のくせにやけに貫禄があるように見えたら、それは誤解・・・・である。 ちなみに後列中央の人がこの写真唯一の上級生なのだが、彼が一番初々しいと思うのは気のせいだろうか・・・ | |
昭和59年夏山合宿。 晴れの日停滞の1日。 右端に写っているコンロはホエーブス725、通称「小ブス」で私の私物である。56年に山小屋でバイトしたときに忘れ物をちょうだいしたやつである。 | |
同じく昭和59年の夏山合宿。 真砂沢定着を終えて縦走に出発してからの写真。場所はおそらく越中沢岳あたりだと思われる。(背後の薬師岳の写り具合から) この頃、既に入山後3週間を越えている。 | |
昭和59年夏。 おそらくカメラを地面に置いてのセルフタイマーで撮った写真だと思う。場所は赤牛岳の頂上だろう。赤牛沢でも登った時かなぁ。 この時は読図間違いで谷に降りていく人に出会ったような記憶が。 この後、赤牛岳では変なことばかり起きる。 | |
これも昭和59年夏、というより9月。 これは高校山岳部の仲間と猪谷を遡行したときの写真である。 その前の週に上の写真に写っている堀田と口の深谷源流部にテントを張り、奥の深谷、口の深谷とやって貫井谷をやるつもりがルートを間違えて時間切れ敗退し、テントを張りっぱなしで帰宅してしまったので、テント回収を兼ねての猪谷入りだった。 | |
で、猪谷を抜けた後の蛇谷ヶ峰で。 写っているのは一緒に行った1年先輩の西村先輩である。 そりゃ留年もするよな。 | |
昭和60年頃。 一壁3ルートをリードする私、である。 | |
同じく昭和60年頃。 確か5.11がついていたツルツルのフェースで、顔は笑っているがフォール寸前である。 この頃は毎週御在所に通っていた(そりゃ留年するよな・・・)。 | |
昭和60年か61年の冬。 このあたりは何回か行っているので時期までは特定不可能だったりする。 | |
昭和62年か63年頃。 写っているのはバイトOBの2人で、彼らと小池さんと4人で奥の廊下を立石まで遊びに行ったときの写真だと思う。 この時期が一番歩くのが速かった頃。 あの奥美濃の沢のどれかで遭難でもしていたら、たぶん今でもまだ発見されていないと思う・・・ | |
やっぱり昭和62〜63年頃の黒部で。 ま、こうして写真に撮られていると言うことは、少なくとも単独ではなかったということで。 | |
場所も時期も不明。 テント内の炊事風景である。テント内で防寒具フル装備でしかも私はインナーブーツまで履いているので、冬、それもたぶん厳冬期の北アだろうとは思う。 作っているのは噂のペミカンカレーである。 ちなみにコンロはホエーブス725、通称「大ブス」である。懐かしいなぁ。 | |
時期不明。 (当時は厳冬期北ア用の厚手とその他の薄手の各1枚しか山シャツを持っていなかった) | |
時期不明。昭和60年か61年? 背後の山が・・・笠ヶ岳のようにも見えるが・・・もし笠ヶ岳ならここはやはり槍あたりか。 当時は長い間装備がまるっきり更新されなかったので、着ているものから時期などを推察することがたいへん難しい。 しかしよく見ると私の手袋は軍手である。 | |
時期、場所とも不明。 判ら〜ん!ここはどこ? 6テンを2張りも張ったと言うことはかなりの大人数だったはずだし、よく見るとスキーもあったりする。 早朝、この写真を私が撮ったという記憶はあるのだが、場所も時期もさっぱり判らない。 | |
昭和63年か平成元年頃。 グリセードで遊ぶ私、である。 | |
平成2年。 半分くらいは他の大学の学生である。 この中に1人、学生ではなく教官がいる。 場所は白川村で、職員宿舎になっていた廃校後の小学校舎を定宿にしていた。 |